明正天皇
明正天皇 | |
---|---|
御歴代百廿一天皇御尊影より | |
即位礼 | 1630年10月17日(寛永7年9月12日) |
元号 | 寛永 |
時代 | 江戸時代 |
征夷大将軍 | 徳川家光 |
先代 | 後水尾天皇 |
次代 | 後光明天皇 |
誕生 | 1624年1月9日(元和9年11月19日) |
崩御 | 1696年12月4日(元禄9年11月10日) |
陵所 | 月輪陵 |
追号 |
明正院 (明正天皇) |
諱 | 興子 |
称号 | 女一宮 |
父親 | 後水尾天皇 |
母親 | 徳川和子 |
皇居 | 京都御所 |
親署 | |
女帝 |
明正天皇︵めいしょうてんのう、1624年1月9日︿元和9年11月19日﹀ - 1696年12月4日︿元禄9年11月10日﹀[1]︶は、日本の第109代天皇︵在位:1629年12月22日︿寛永6年11月8日﹀- 1643年11月14日︿寛永20年10月3日﹀︶。諱は興子︵おきこ︶。幼名は女一宮。
後水尾天皇の第二皇女。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の五女の源和子︵東福門院︶。徳川秀忠と崇源院の外孫、在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、徳川家綱・綱吉の母方の従姉。徳川将軍家、ひいては三大幕府の将軍家を外戚とした唯一の天皇である。
経歴[編集]
元和9年11月19日︵1624年1月9日︶、後水尾天皇と女御徳川和子の間の最初の子として生まれる。 寛永6年︵1629年︶10月29日、7歳で内親王宣下を受けて興子内親王の名を与えられ、11月8日に父・後水尾天皇のにわか譲位を受けて践祚した︵伝宣までが最後の刻に知った︶。女子の即位は男子の不在︵夭逝︶によるものであり、奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりとなる女性天皇であった。後水尾天皇の譲位の真意は、はっきりとはわからないが、幕府の制約により何ごとも自由にならないこと、紫衣事件への憤懣が大きな理由ではないかと指摘されている[2]。後水尾天皇から譲位の相談を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布したが、その二条目には、女性天皇は不都合なものではないから、一時的に女一宮︵明正天皇︶に皇位を預け、皇子誕生の暁には譲位すべきとある︵﹁女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事﹂[3]︶。男子の皇位継承者が不在であったことに加え、政治的影響が理由で女性天皇が立てられたのは、歴代8人10代の中で、明正天皇が最後である[4]。 ただ、明正天皇の在位中は父の後水尾上皇による院政が敷かれ、女帝と言えども朝廷における実権を持つことはなかったとされる。女帝の存在や後水尾上皇の院政、皇嗣等をめぐって朝幕関係の緊張は継続した。東福門院の入内は徳川家が天皇の外戚になることを意図して図られたが、実際に明正天皇が即位すると、公家や諸大名が彼女に口入させて朝廷や朝幕関係に影響を与えることも警戒されるようになった。幕府は、寛永14年︵1637年︶には、摂政二条康道の関白への転任を認めない姿勢を示し、女帝の親政を否定した。 寛永19年︵1642年︶9月2日、東福門院の意向で藤原光子︵後の壬生院︶所生の素鵞宮︵後光明天皇︶を儲君に立て、同閏9月19日に同宮を東福門院の養子に迎えることで妥協が図られ、翌寛永20年、21歳の明正天皇は素鵞宮︵元服して紹仁親王︶に皇位を譲り、太上天皇となった[5]。譲位直前の9月1日、将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付した。そこでは、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止︵第1条︶、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族と言えども対面は不可︵第2条︶、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること︵第3条︶、両親の下への行幸は可、新帝︵後光明天皇︶と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可、新院のみの行幸は不可とし、行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事︵第4条︶などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている[6]。 のちに出家して、太上法皇となる。元禄9年︵1696年︶11月10日、崩御。宝算74。 明正以後は後光明・後西・霊元まで傍系︵姉弟︶間での皇位継承が続く。系譜[編集]
明正天皇の系譜 |
---|
系図[編集]
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||
107 後陽成天皇 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
108 後水尾天皇 |
| 近衛信尋 |
| 高松宮(有栖川宮)好仁親王 |
| 一条昭良 |
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
109 明正天皇 |
| 110 後光明天皇 |
| 111 後西天皇 |
| 112 霊元天皇 |
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| 有栖川宮幸仁親王 |
| 113 東山天皇 |
| 福子内親王 |
| 有栖川宮職仁親王 |
| 吉子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| 正仁親王 |
| 114 中御門天皇 |
| 閑院宮直仁親王 |
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||
在位中の元号[編集]
諡号・追号・異名[編集]
明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。
陵・霊廟[編集]
陵︵みささぎ︶は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵︵つきのわのみささぎ︶に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿︵宮中三殿の一つ︶において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
出典[編集]
(一)^ ﹃明正天皇﹄ - コトバンク
(二)^ 藤田覚﹃天皇の歴史6江戸時代の天皇﹄︵講談社、2018年︶65頁
(三)^ 今谷明﹃武家と天皇―王権をめぐる相剋―﹄︵岩波書店、1993年6月︶p.195
(四)^ 歴代の女性天皇について
(五)^ 野村玄﹃日本近世国家の確立と天皇﹄︵清文堂出版、2006年︶P131-132・181-184
(六)^ 村和明﹃近世の朝廷制度と朝幕関係﹄︵東京大学出版会、2013年︶P31-33・37-38
参考文献[編集]
●今谷明﹃武家と天皇―王権をめぐる相剋―﹄岩波書店︿岩波新書﹀、1993年6月。ISBN 4-00-430286-2。 ●宮内省図書寮 編﹃明正天皇実録﹄︵ゆまに書房、2005年︶ ISBN 4-8433-2028-5 ●野村玄﹁明正天皇論―-即位・在位・譲位の背景―﹂︵﹃京都産業大学論集 人文科学系列﹄29号、 2002年3月︶関連項目[編集]
●女性天皇明正天皇 | ||
日本の皇室 | ||
---|---|---|
先代 後水尾天皇 (政仁) |
皇位 第109代天皇 1629年12月22日 - 1643年11月14日 寛永6年11月8日 - 寛永20年10月3日 |
次代 後光明天皇 (紹仁) |