立原翠軒

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立原翠軒像稿 渡辺崋山田原市博物館重要美術品

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逸話[編集]

  • 翠軒の弟子 小宮山楓軒は常々、師である翠軒を敬い、師の生きざまを『翠軒先生遺事』に記すという。これによれば、翠軒は幼少の折、寺門倧太郎と海浜で遊んでいたが、知らぬうちに寺門により妓楼に連れ込まれてしまった。翠軒は小用に立つ振りをして逃げ帰り、寺門との付き合いを絶ってしまった。
  • 水戸藩主 徳川治保は学問を好み長久保赤水侍講とし、赤水の推挙で翠軒も侍講に任ぜられた。ある時、治保が翠軒に「人主には釣り合いの臣があるものだ。太宗魏徴がそれだ」といい、「自らはそこ許をもってその人としよう。どんな直諫もして欲しい」と述べた上で「どうか、俗吏などと争ったり、排斥されることのないよう気をつけてもらいたい。」という言葉をかけたという。
  • 家老山野辺義胤養子山野辺図書(山野辺義聚)が、養父と折り合い悪く、実家である佐伯藩毛利家に帰された。図書が何も罪がないと言いたて不平を述べると翠軒は「君自身、罪のあると知らぬというのが罪たる所以だ」と述べたという。
  • ある時、水戸藩士に蔭山八郎右衛門という200石取りの藩士が常々、知行地の百姓を救いたいと考えていたが、実行できずに悩んでいたという。翠軒は「人を救おうというのに、自分の財産を拵えて、それができてからと思っていたら、救うことなど出来はせぬ」と述べた。これを耳にした八郎右衛門は大いに恥じ入り、直ちに年貢の収納を半減したという。
  • また、翠軒は「人の価値というものは家庭にいるときの様子で大抵わかる。自分の妻に怒り散らしたり、時に打擲に及ぶような者があるが、そうした人間は人の上に立つ資格がない者だ」と述べたという[2]
  • 寛政7年(1795年)、藤田幽谷らと従者に画家の小泉斐を従え、吉原口(村山口)から富士山登山に成功している。この経験を元に小泉斐が製作した「富嶽写真」は富岡鉄斎が富士図製作に携わる際に大いに参考にされた。

脚注[編集]

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.24
  2. ^ 森銑三『人物逸話辞典 下巻』(東京堂出版1987年) 36、37頁参照。

参照文献[編集]

森銑三編『人物逸話辞典 下巻』(東京堂出版、1987年)

関連項目[編集]