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遣新羅使

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派遣年 元号 正使名 天皇 新羅王 備考 出典
1 668年 天智天皇7年 道守麻呂 天智天皇 文武王 吉士小鮪と共に、新羅使金東厳の帰国に同行。両国共に白村江の戦い以降の、国交回復を目的とした使節と考えられる。使用した船の建造記録と思われるものが『播磨国風土記』にある。 日本書紀
2 670年 天智天皇9年 阿曇頬垂 天智天皇 文武王 日本書紀
3 675年 天武天皇4年7月 大伴国麻呂 天武天皇 文武王 副使は三宅入石。翌年2月に帰国。古麻呂は大伴御行古麻呂(唐に二度渡航)の兄弟。 日本書紀 天武4年7月7日条
4 676年 天武天皇5年10月10日 物部麻呂(石上麻呂) 天武天皇 文武王 小使は山背百足。壬申の乱で敗者側であった物部麻呂の政治復帰となる。この頃前後して両国間に頻繁に使者が行き交う。11月3日、入れ違いで金清平らが新羅から来日、23日には高麗(高句麗復興をめざす亡命政権)の使者を送って金楊原らが来日。物部麻呂らは翌年2月1日に帰国 日本書紀
5 681年 天武天皇10年 采女竹羅 天武天皇 神文王 副使は当麻楯。681年7月に拝命。9月に出立挨拶。同じ日に佐伯広足遣高句麗使に任命され、同じく9月に拝朝し出立挨拶している。 日本書紀
6 684年 天武天皇13年 高向麻呂 天武天皇 神文王 4月20日に拝命。翌年、学問僧の観常雲観を伴い、新羅王の献上物を運び帰国 日本書紀
7 687年 持統天皇元年 田中法麻呂 持統天皇 神文王 副使に守苅田。天武天皇の喪を伝達するために派遣されるも、新羅で孝徳天皇の崩御の際より格下の扱いを受けそうになったためを渡さず、689年正月に帰国。 日本書紀
8 692年 持統天皇6年11月8日 息長老 持統天皇 孝昭王 日本書紀
9 695年 持統天皇9年7月 小野毛野 持統天皇 孝昭王 副使(大弐)伊吉博徳 日本書紀 持統9年7月26日条・9月6日条
698年 文武天皇2年 不明 文武天皇 孝昭王 『三国史記』によれば日本国からの初の使者が3月に来て、王は崇礼殿で引見したというが、日本側の記録は無い。 三国史記 新羅本紀 孝昭王7年3月条
10 700年 文武天皇4年5月 佐伯麻呂 文武天皇 孝昭王 10月に帰国し孔雀やその他の珍物を持ち帰る。 続日本紀 文武4年10月19日条
11 703年 大宝3年 波多広足 文武天皇 聖徳王 翌慶雲元年(704年)8月に帰国。 続日本紀
12 704年 慶雲元年 幡文通 文武天皇 聖徳王 慶雲元年(704年)10月に拝命。翌年5月、新羅より帰国 続日本紀
13 706年 慶雲3年 美努浄麻呂 文武天皇 聖徳王 8月に任命。副使は対馬堅石。翌慶雲4年(707年)義法ら留学学問僧を伴い帰国 続日本紀
14 712年 和銅5年9月 道首名 元明天皇 聖徳王 10月に王に辞見、翌年8月に帰還 続日本紀 和銅6年8月10日条
15 718年 養老2年 小野馬養 元正天皇 聖徳王 9回の小野毛野の弟。養老2年3月20日に任ぜられ、翌養老3年(719年)2月に帰国したが3月には丹波守、丹後・但馬・因幡国按察使に任ぜられ同地に派遣。 続日本紀 養老3年2月10日条
16 719年 養老3年 白猪広成(葛井広成) 元正天皇 聖徳王 7月11日に任じられる。翌養老4年(720年)5月10日に一族と共に白猪史から葛井連に改姓しているため、それ以前に帰国。 続日本紀
17 722年 養老6年 津主治麻呂 元正天皇 聖徳王 続日本紀
18 724年 神亀元年 土師豊麻呂 聖武天皇 聖徳王 続日本紀
19 732年 天平4年 角家主 聖武天皇 聖徳王 続日本紀
20 736年 天平8年 阿倍継麻呂 聖武天皇 聖徳王 前年の新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返している。阿倍らは新羅へ渡るも外交使節としての待遇を受けられず。新羅の「欠常礼」を奏上。なお使節の翌天平9年(737年)の帰国と同時に都に疫病が流行。以降しばらくは新羅から日本への使者は大宰府止まりで、入京を許さなかった。大使の継麻呂は帰国途中の対馬国で疫病のため1月に客死。次男が随行しており、継麻呂と次男の渡航中の和歌が『万葉集』に収録されている。 続日本紀・万葉集(巻十五)
21 740年 天平12年 紀比登 聖武天皇 孝成王 3月に任命。同年10月には日本に帰還。 続日本紀
  742年 天平14年 (不詳) 聖武天皇 景徳王 「不納」(新羅側受入拒否)(『三国史記』) 三国史記
22 752年 天平勝宝4年 山口人麻呂 孝謙天皇 景徳王 (王と会わずに帰国か?) 続日本紀 天平勝宝4年正月25日条
23 753年 天平勝宝5年 小野田守 孝謙天皇 景徳王 新羅で失礼を受けたためそのまま帰国。唐での同年正月の参賀の際の席次争いの影響か?「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」(『三国史記』)。この数年後、新羅征伐の計画が立案されるが政情により頓挫。小野田守はのち遣渤海大使をも勤める。 続日本紀 天平宝字4年9月16日条
24 779年 宝亀10年 下道長人(大宰少監) 光仁天皇 恵恭王 2月に任命。済州島で捕らわれていた遣唐判官海上三狩ら一行を迎えるため緊急派遣。この頃、新羅国内は内戦に近い混乱状態であり、同年、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣。新羅からの難民・亡命者多数押し寄せ、日本はこれら「蛮国の人民」を受け入れている。下道長人らは三狩らを率いて7月には無事に大宰府に帰国。 続日本紀 宝亀10年7月10日条
25 799年 延暦18年4月 大伴峰麻呂 桓武天皇 昭聖王 4月に任命、5月停遣新羅使(派遣中止)。 /日本後紀 延暦18年4月16日条・5月29日条
26 803年 延暦22年3月 斎部浜成(忌部浜成) 桓武天皇 哀荘王 第18次遣唐使の派遣に先立って、唐の消息調査。3月16日任命、7月渡航。渡航に先立ち浜成は同3月に「忌部」から「斎部」に改姓。 /日本後紀逸文(『古語拾遺』識語)
27 804年 延暦23年9月 大伴峰麻呂(岑萬里) 桓武天皇 哀荘王 第18次遣唐使船の内、往路で行方不明となった2隻の消息調査 /日本後紀 延暦23年9月18日条
28 836年 承和3年8月 紀三津 仁明天皇 興徳王 新羅に対し、当時難航していた約30年ぶりの遣唐使船の往復航路における、新羅漂着時の救助・送還を行うよう告諭。8月大宰府を出立。10月三津ら大宰府に帰還。12月に朝廷に対して報告するが、三津の失態と新羅の非礼が発覚。以降新羅に対しての使節は停止された。 /続日本後紀 承和3年8月25日条・12月3日条

航路[編集]


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(一)^    使

(二)^  1968 

(三)^ abcdefg 1997

(四)^ 使使-  2010

(五)^  1924

(六)^ ab 1988

(七)^  1997 2001

(八)^ ab 1965

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20041965ISBN 4122044014

1997ISBN 4004305004

使 2010ISBN 4827312370

2001ISBN 475173170X

1988ISBN 4004300428

20041968ISBN 4122043875

1998ISBN 4062581329

1997ISBN 4004305101

2001ISBN 4062689049

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使

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使 - 2005126