阿部勝雄
阿部 勝雄 | |
---|---|
生誕 |
1891年4月18日 日本 岩手県 |
死没 | 1948年5月26日(57歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1913 - 1946 |
最終階級 | 海軍中将 |
墓所 | 多磨霊園13区1種24側 |
阿部 勝雄︵あべ かつお、1891年4月18日 - 1948年5月26日︶は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴[編集]
岩手県西磐井郡厳美村︵現在の一関市厳美町︶で村長・阿部雄七とその妻てふの二男として生れる。旧制一関中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校︵40期[1]︶を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1919年11月、海軍砲術学校高等科を卒業し、﹁磯風﹂砲術長、第2艦隊参謀、砲術学校教官などを経て、1924年11月、海軍大学校︵甲種22期︶を次席で卒業した。 ﹁長門﹂副砲長兼分隊長、アメリカ駐在、海軍省軍務局第1課局員、第2艦隊参謀、海大教官、第3艦隊参謀、海大教官、軍務局第1課長、第2回ロンドン軍縮会議全権随員、﹁多摩﹂﹁龍驤﹂﹁加賀﹂の各艦長、軍令部第3部長などを歴任し、1938年11月、海軍少将に進級。 欧米出張、軍務局長、海軍省兼軍令部出仕、1940年11月から三国同盟軍事専門委員としてドイツに駐在し、太平洋戦争期には欧州勤務であった。1942年11月、海軍中将となった。さらにイタリア大使館付武官を兼務したが、1945年5月、ドイツ降伏が確実となったためスウェーデンに移駐し終戦を迎えた。1946年3月、予備役に編入され帰国した。逸話[編集]
阿部がベルリンを脱出する直前の4月15日、ドイツの崩壊を見越し東京の軍令部は﹁残存するドイツ潜水艦をできるだけ多く日本に回航するようドイツ海軍に要請し、その実現に努力せよ﹂との緊急電報を発信した。海軍総司令官カール・デーニッツ元帥は燃料不足を理由にドイツ潜水艦隊の日本回航を拒絶した。阿部が最終的な拒否回答を受けたのは4月20日午前11時30分であった。栄典[編集]
位階 ●1914年︵大正3年︶1月30日 - 正八位[2] ●1916年︵大正5年︶1月21日 - 従七位[3] ●1919年︵大正8年︶1月10日 - 正七位[4] ●1932年︵昭和7年︶12月28日 - 従五位[5] 勲章 ●1941年︵昭和16年︶11月11日 - 勲二等瑞宝章[6] 外国勲章佩用允許 ●1943年︵昭和18年︶12月10日 - ドイツ国‥ドイツ鷲勲章大十字章[7] ●1944年︵昭和19年︶6月23日 - 満州国国勢調査紀念章[8]親族[編集]
●義父 江藤鋪︵陸軍少将︶参考文献[編集]
●秦郁彦編﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、東京大学出版会、2005年。 ●外山操編﹃陸海軍将官人事総覧 海軍篇﹄芙蓉書房出版、1981年。 ●福川秀樹﹃日本海軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2000年。脚注[編集]
(一)^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 44頁。
(二)^ ﹃官報﹄第451号﹁叙任及辞令﹂1914年1月31日。
(三)^ ﹃官報﹄第1040号﹁叙任及辞令﹂1916年1月22日。
(四)^ ﹃官報﹄第1930号﹁叙任及辞令﹂1919年01月11日。
(五)^ ﹃官報﹄第1801号﹁叙任及辞令﹂1932年12月29日。
(六)^ ﹃官報﹄第4456号﹁叙任及辞令﹂1941年11月14日。
(七)^ ﹁阿部勝雄外三十二名﹂ アジア歴史資料センター Ref.A10113477700 及び﹃官報﹄1943年12月16日﹁叙任及辞令﹂。
(八)^ ﹁赤堀鉄吉外十四名外国勲章記章受領佩用の件﹂ アジア歴史資料センター Ref.A10113504500