DEVGRU
海軍特殊戦開発グループ | |
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DEVGRUのパッチ | |
創設 | 1980年11月 |
所属政体 | アメリカ合衆国 |
所属組織 | アメリカ海軍 |
兵種/任務/特性 | 特殊部隊 |
所在地 | バージニア州バージニアビーチ |
愛称 | DEVGRU,Seal Team6 |
上級単位 | 統合特殊作戦コマンド |
主な戦歴 |
トランス・ワールド航空847便テロ事件 グレナダ侵攻 アキレ・ラウロ号事件 パナマ侵攻 湾岸戦争 ソマリア内戦 アフガニスタン侵攻(2001) イラク戦争 |
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DEVGRU︵英: Development Group︶またはアメリカ海軍特殊戦開発グループ︵United States Naval Special Warfare Development Group︶は、アメリカ海軍の特殊部隊Navy SEALsから独立した対テロ特殊部隊である。
Seal Team6の旧パッチ
1978年よりNavy SEALsのチーム1︵西海岸︶のエコー小隊、チーム2︵東海岸︶のMOB-6小隊が試験的に対テロユニットとして存在していた[1]:138。イランアメリカ大使館人質事件での作戦失敗に伴い、陸軍のデルタフォースが技能的にカバーしきれない船舶や海上油田のテロに対応するためのユニットが必要となった[1]:138。そこで元チーム2の指揮官、リチャード・マルシンコに白羽の矢が立ち、チーム2MOB-6小隊主体に編成が始まった。
選定基準は実戦経験、体力や実射技能、言語能力などに及んだ。優秀な隊員たちを引き抜かれたチーム1とチーム2は当然快く思わず、しかも予算の限られた両海岸のチームに比べてチーム6は湯水のように予算を使っていたことからその後暫く確執を生むこととなる。
1年目の訓練は年間365日、休暇が半日2回のみといわれ、東海岸の拠点に留まらず国内数箇所を転々としていた。海上における船舶強襲、海上油田の制圧、高高度パラシュート降下、そして実射訓練等実戦さながらの訓練が続けられた。射撃訓練にかけては1日に数千発を射撃することもあり、9ミリ拳銃の弾薬の経費は1年間でアメリカ海兵隊全体を上回ったといわれる[1]:6
。初期の頃CQB訓練中銃の誤射で1人が死亡、パラシュート降下訓練で1人が死亡している[1]:206。現役のSEALs隊員が選抜されるが、それでも選抜訓練で脱落していく者も多く、元DEVGRUのハワード・E・ワーズディンによれば6カ月の訓練期間中で30人中4、5人が脱落したとされる[1]:206。
概要[編集]
DEVGRUは元々1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件において、アメリカ陸軍の対テロ特殊部隊のデルタフォース主導である人質救出作戦﹁イーグル・クロー作戦﹂(1980年4月24日~同25日)の任務失敗を教訓として同年10月に海軍中佐であるリチャード・マルシンコにより便宜上、Seal Team6として発足した[1]:26,137。そして1987年に現在のDEVGRUに名称が変更された。本部についてはバージニア州ダムネックに所在する。 部隊管理上はアメリカ海軍特殊戦コマンドの直下におかれるが、作戦上はNavy SEALsと違い、デルタフォースと同じく統合特殊作戦コマンド︵JSOC︶の指揮を受ける[1]:26 。DEVGRUは公式には、アメリカ海軍特殊戦コマンドで運用される陸・海および空挺における戦術と技術の試験・評価・開発を担うものとされており、アメリカ政府ではDEVGRUがJSOCの指揮下で実際の特殊作戦に従事していることを公式には認めていない。 しかしその任務内容は、対テロ、大量破壊兵器の拡散阻止、敵国内における高価値目標の奪還ないし暗殺であると推測されている[2]チーム6発足の過程[編集]
入隊資格[編集]
- SEALs隊員であること
- SEALsに5年以上勤務していること(ハワード・E・ワーズディンはSEALsに2年半の在籍年数で選抜試験を受けているなど例外もある)[1]:199-201
歴代司令官[編集]
職名 | 在任期間 | 氏名 | 階級 |
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司令官 | 1980年~1983年 | Richard Marcinko | 中佐 |
司令官 | 1983年~1986年 | Robert A. Gormly | 中佐 |
司令官 | 1986年~1988年 | Thomas E. Murphy | 中佐 |
司令官 | 1988年~1990年 | Richard T.P. Woolard | 大佐 |
司令官 | 1990年~1992年 | Ronald E. Yeaw | 大佐 |
司令官 | 1992年~1994年 | Thomas G. Moser | 大佐 |
司令官 | 1994年~1997年 | Eric T. Olson | 大佐 |
司令官 | 1997年~1999年 | Albert M. Calland III | 大佐 |
司令官 | 1999年~2003年 | Joseph D. Kernan | 大佐 |
司令官 | 2003年~2005年 | Edward G. Winters III | 大佐 |
司令官 | 2005年~2007年 | Brian L. Losey | 大佐 |
司令官 | 2007年~2009年 | Scott P. Moore | 大佐 |
司令官 | 2009年~2011年 | Perry F. Vanhooser | 大佐 |
司令官 | 2011年~2013年 | Hugh W. Howard III | 大佐 |
主な参加作戦[編集]
詳細は「マースク・アラバマ号乗っ取り事件」を参照
・2010年9月、アフガニスタンでの﹁リンダ・ノーグローブ救出作戦﹂過失により失敗。
・同年9月、1998年に発生した在ケニア・タンザニア米大使館爆破事件に関与したサレハ・アリ・サレハ・ナバンを殺害。
・2011年5月 - 国際テロ指名手配のウサーマ・ビン・ラーディンの殺害を目的とした作戦﹁Operation Neptune Spear︵海神の槍作戦︶﹂を実行。
・2011年8月6日未明、アフガニスタン中部 ヴァルダク州タンギ峡谷でターリバーン戦闘員の放ったRPG-7の攻撃により CH-47ヘリコプターが墜落、多数の米軍特殊部隊員を含む38名が犠牲となった。この一件で、17名はSEALs隊員(内15名は DEVGRU隊員)で、5名はサポート要員だったとされる。(DEVGRUについては、﹁海神の槍作戦﹂に参加した者はいなかった)
アメリカ特殊作戦軍(U.S.SOCOM)発足から24年の歴史 (2011年当時)において、一度の作戦で失った損失としては最悪となった。
●2011年10月 - ソマリアでの米国人﹁ジェシカ・ブキャナン救出作戦﹂に成功。
●2012年5月、アフガニスタンでの英国人﹁ヘレン・ジョンストン救出作戦﹂に成功
●同年12月、アフガニスタンでの米国人﹁ディリップ・ジョセフ医師救出作戦﹂に成功。
●2014年11月、イエメンでの米国人﹁ルーク・ソマーズ救出作戦﹂に失敗。
●2015年〜2021年 アフガニスタン
﹁確固たる支援任務﹂
﹁自由の番人作戦﹂
●2014年〜継続中 イラク及びシリア中東地域における対テロ作戦﹁生来の決意作戦﹂
●2020年10月 - ナイジェリアでの﹁フィリップ・ウォルトン救出作戦﹂に成功。
●2023年4月 - スーダン共和国からの米在外公館職員退避作戦に成功。