デジタル大辞泉
「ブント」の意味・読み・例文・類語
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ブント
(一)( Wilhelm Wundt ウィルヘルム━ ) ドイツの生理学者、哲学者。近代心理学の創設者。著書﹁生理学的心理学綱要﹂﹁哲学体系﹂﹁心理学提要﹂﹁論理学﹂など。︵一八三二‐一九二〇︶
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ブント
Wilhelm Max Wundt
生没年:1832-1920
ドイツの心理学者,哲学者。実験心理学の創始者であり,近代心理学は彼とともに始まったとされる。最初は医学を志し,チュービンゲン,ハイデルベルク,ベルリンの各大学に学んだ。1857-64年ハイデルベルク大学生理学私講師,65-74年同員外教授。74年チューリヒ大学哲学教授。75年以降ライプチヒ大学教授。ハイデルベルクの私講師のころ,ヘルムホルツの下で生理学の助手を務めたが,関心は感覚生理学からしだいに心理学に移っていった。73-74年に全3巻の︽生理学的心理学綱要︾を著し,初めて実験心理学の基礎を確立。79年にはライプチヒに世界最初の心理学実験室を作り,以後そこで世界各地から集まった研究者に実験心理学の指導をした。そしてこの実験室での研究の成果を発表するために心理学雑誌︽哲学研究︾を創刊した。彼は心理学を直接経験の学であるとし,自己観察と実験を用いて意識を研究し,意識を究極的な心的要素としての純粋感覚と単一感情の結合によって説明しようとした。その立場は要素主義の色彩が強く,彼の心理学は構成心理学と呼ばれる。こうして彼は個人の単純な精神は生理学的心理学の研究対象としたのであるが,他方,人間の複雑高等な精神は文化や社会生活のうちに表現されるとして,それを民族心理学Völkerpsychologieが研究するものとした。そして1900年以降亡くなるまでの20年間,民族の言語,芸術,神話,宗教,法律,歴史を資料にして民族心理学の研究に没頭した。旺盛な研究心と比類ない努力によって膨大な著述を残したが,その主なものは,︽感官知覚論︾︵1862︶,︽人間と動物の精神に関する講義︾︵1863︶,︽論理学︾︵1880-83︶,︽倫理学︾︵1886︶,︽心理学概論︾︵1896︶,︽民族心理学︾︵1900-20︶,︽哲学入門︾︵1901︶,︽心理学入門︾︵1911︶などである。
執筆者‥児玉 憲典
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ブント
Wundt, Wilhelm
[生]1832.8.16. バーデン,マンハイム近郊ネッカラウ
[没]1920.8.31. ライプチヒ近郊グロースボーテン
ドイツの心理学者,哲学者。ハイデルベルク大学,チューリヒ大学教授を経て,ライプチヒ大学教授。ベルリン大学時代には J.P.ミュラー,ハイデルベルク大学時代には W.ヘルムホルツのもとで生理学を研究。 1879年ライプチヒ大学に世界で最初の心理学実験室を創設,諸外国からも多数の学者が集り,感覚,反応時間,精神物理学,連想などの研究がなされ,世界の心理学界をリードした。晩年には,論理学,倫理学,哲学の領域にまで視野を広げ,心理学の領域でも複雑な精神現象の法則は実験的生理的心理学では取扱いえないとして,民族心理学の存立を主張した。主著﹃哲学体系﹄ System der Philosophie (1889) ,﹃心理学原論﹄ Grundriss der Psychologie (96) ,﹃民族心理学﹄ Völkerpsychologie (10巻,1900~20) (→構成心理学 , 統覚心理学 ) 。
ブント
日本の新左翼党派の一つ。正称は共産主義者同盟。ブントはドイツ語名コミュニスティッシャー・ブント Kommunistischer Bundの略。1955年,日本共産党が武装闘争放棄を宣言すると,傘下の全日本学生自治会総連合︵全学連︶は,党指導部の方針に不満をもつ主流派と,指導部に従う反主流派に分かれて激しく対立した。党を除名された学生党員らは 1958年,新しい革命運動を目指して共産主義者同盟︵共産同︶を結成,1959年に全学連の指導権を握り,1960年の安保闘争︵→安保改定問題︶を主導した。しかし,安保闘争後期に多くの幹部が逮捕・勾留されて組織は弱体化し,さらに闘争敗北後の総括をめぐって分裂,解体に向かった。その後,革命的共産主義者同盟︵革共同︶全国委員会に多数が移る一方,日本赤軍の母体となった赤軍派,浅間山荘事件を起こした連合赤軍などが誕生した。︵→ニュー・レフト︶
ブント
Bund
ロシア,ポーランド,リトアニア (リトワ) におけるユダヤ人の社会主義政党。﹁ユダヤ社会主義労働党﹂の通称で,ドイツ語で﹁同盟﹂を意味する。 1897年ウィルノ (ビリニュス) に非合法政党として創設された。約3万人のメンバーを有し,1905年と17年のロシア革命では重要な役割を演じた。 1898年ロシア社会民主労働党の第1回大会に独立の組織として参加したが,レーニンの中央集権的党組織論に反対して 1903年脱党。06年復帰後はメンシェビキ的傾向をもっていたが,20年の第12回大会で分裂し,多数派は共産党に加入する方針を支持したが,R.アブラモービッチに率いられる少数派は社会・民主ブントを結成。しかしまもなくボルシェビキのテロで壊滅した。ポーランドでは第1,2次世界大戦間に勢力を回復したが,ナチスによって滅ぼされた。
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世界大百科事典(旧版)内のブントの言及
【学生運動】より
…学生党員は何の反省もなくすぐに平和路線に方針転換する党指導部への不信から虚脱状態になり,運動は急速に沈滞,各大学自治会の解体などがつづいた。 六全協による方向転換後,全学連などの学生運動を日常要求路線,身の回り主義へと指導しようとした共産党に対する反発は,全学連の共産党からの決別と,ブント(共産主義者同盟)の誕生(1958.12)をもたらすこととなった。ブントは59年6月の第14回大会で,日本トロツキスト連盟の改組によって生まれた革共同(革命的共産主義者同盟)から全学連の主導権を奪い,60年安保闘争(〈[日米安全保障条約]〉の項目を参照)で主導権を発揮した。…
【実験心理学】より
…心理学の発達とともにその意味する内容は複雑多岐にわかれ一定していないが,狭義には厳密な実験的方法によって正常な成人の感覚,知覚,記憶,学習,思考,感情などにおける一般的傾向に関して,個人的行動と言語報告からえられた事実のみによって構成された心理学を意味する。このような態度はフェヒナーの《精神物理学要論》(1860)に端を発しているが([精神物理学]),ブントが形を整えた。彼はライプチヒ大学に世界最初の正式な心理学実験室を開設し(1879),この用語を使用した。…
【心理学】より
…この要素主義的精神観はデモクリトス=エピクロス的原子論の系統を引いている。連合心理学の要素主義と,精神内容を研究対象とする点は,1879年世界で初めて心理学実験室をつくったW.M.ブントに引き継がれた。ブントによれば,直接経験としての感覚,意志,感情などの要素を内観法によって把握し,それらの要素が構成されたものとして精神を研究するのが心理学であった。…
【心理学主義】より
…心理主義ともいう。J.S.ミルやブント,T.リップスらがその代表者。この立場は,普遍妥当的な真理や価値の存在を否定して,相対主義に陥るため,新カント学派や現象学派(とくにフッサール)によって厳しく批判され,20世紀初頭に急速にその影響力を失った。…
【知覚】より
…しかし色彩知覚や運動知覚のように対象とは独立に起こる知覚もあり,感覚との区別はあいまいである。 W.ブントやE.B.ティチナーなど構成心理学の人々は,要素的な純粋感覚を仮定し,その総和と,それと連合した心像(以前に経験した感覚の痕跡)を加えたものが知覚であると考えた。しかしM.ウェルトハイマーやW.ケーラーなどゲシュタルト心理学の人々は,知覚を要素的な感覚に分けることは不可能で,むしろ直接的に意識にのぼるのはつねに,あるまとまった知覚であると考えた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」