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久我通雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

凡例

久我通雄
時代 鎌倉時代中期-後期
生誕 正嘉元年(1257年
死没 元徳元年12月11日1329年12月31日
別名 中院太政大臣
官位 従一位太政大臣
主君 後嵯峨上皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 村上源氏久我家
父母 父:久我通基、母:姉小路顕朝の娘
兄弟 通雄通嗣通村通宣
源仲基の娘、家女房(不詳)
久我長通久我通定、女子(西園寺季衡の妻)
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西

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西西
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脚注[編集]

  1. ^ 『園太暦』同日の条。この風聞が本当なら、通雄は通定が生まれた直後に長通を義絶したことになる。
  2. ^ 『花園天皇宸記』同日の条には、長通は父通雄に義絶されていたが大納言に還任したのは悔い返しなのか不審である、という記述がある。
  3. ^ この時の天皇は後醍醐天皇であるから、後醍醐天皇は久我家の相続問題に介入して長通を擁護したことになる。
  4. ^ a b 『公卿補任』同日の条

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