下表は現在飛騨川流域で運転を行っている水力発電所と取水元のダム・堰について一覧にしたものである。なお発電所・堰データは『飛騨川 流域の文化と電力』p.878および社団法人電力土木技術協会『水力発電所データベース』、ダムデータは財団法人日本ダム協会『ダム便覧』岐阜県のダムより引用する。また単位については常時・認可出力はキロワット、ダムの高さはメートル、総貯水容量は1,000立方メートルである。
河川
|
発電所
|
常時出力
|
最大出力
|
発電形式
|
ダム
|
型式
|
高さ
|
総貯水容量
|
運転開始年
|
所在地
|
備考
|
飛騨川 |
高根第一 |
0 |
340,000 |
揚水 |
高根第一ダム |
アーチ |
133.0 |
43,600 |
1969 |
高山市 |
|
飛騨川 |
高根第二 |
590 |
25,100 |
ダム水路式 |
高根第二ダム |
中空重力 |
69.0 |
11,927 |
1969 |
高山市 |
|
飛騨川 秋神川 |
朝日 |
6,700 |
20,500 |
ダム式 |
朝日ダム 秋神ダム |
重力 重力 |
87.0 74.0 |
25,513 17,584 |
1953 |
高山市 |
|
飛騨川 |
久々野 |
12,200 |
38,400 |
水路式 |
久々野ダム |
重力 |
26.7 |
1,247 |
1962 |
高山市 |
|
飛騨川 |
小坂 |
17,400 |
49,400 |
水路式 |
小坂ダム |
堰 |
10.9 |
- |
1930 |
下呂市 |
1966年増設
|
飛騨川 |
東上田 |
16,400 |
35,000 |
水路式 |
東上田ダム |
重力 |
18.0 |
1,065 |
1954 |
下呂市 |
|
飛騨川 |
瀬戸第一 |
7,740 |
28,200 |
水路式 |
瀬戸ダム |
堰 |
5.4 |
- |
1924 |
下呂市 |
|
飛騨川 |
中呂 |
0 |
13,300 |
水路式 |
- |
- |
- |
- |
1978 |
下呂市 |
|
飛騨川 |
下原 |
3,800 |
22,200 |
ダム水路式 |
下原ダム |
重力 |
23.9 |
2,936 |
1938 |
下呂市 |
|
飛騨川 |
大船渡 |
2,800 |
6,400 |
水路式 |
大船渡ダム |
堰 |
13.0 |
1,660 |
1929 |
下呂市 |
|
飛騨川 |
新七宗 |
0 |
20,000 |
水路式 |
大船渡ダム |
堰 |
13.0 |
1,660 |
1982 |
下呂市 |
|
飛騨川 |
七宗 |
3,900 |
6,200 |
ダム水路式 |
七宗ダム |
堰 |
10.6 |
783 |
1925 |
加茂郡白川町 |
|
飛騨川 |
名倉 |
9,200 |
22,200 |
ダム水路式 |
名倉ダム |
堰 |
13.5 |
1,151 |
1936 |
加茂郡白川町 |
|
飛騨川 細尾谷 |
上麻生 |
16,300 |
27,000 |
ダム水路式 |
上麻生ダム 細尾谷ダム |
堰 重力 |
13.2 22.4 |
706 71 |
1926 |
加茂郡七宗町 |
|
飛騨川 |
新上麻生 |
0 |
61,400 |
ダム水路式 |
名倉ダム |
堰 |
13.5 |
1,151 |
1987 |
加茂郡七宗町 |
|
飛騨川 |
川辺 |
7,200 |
30,000 |
水路式 |
川辺ダム |
重力 |
27.0 |
12,815 |
1937 |
加茂郡川辺町 |
|
小坂川 |
小坂川 |
4,300 |
21,300 |
水路式 |
兵衛谷ダム |
堰 |
14.6 |
- |
1983 |
下呂市 |
|
竹原川 |
竹原川 |
300 |
1,200 |
水路式 |
竹原川ダム |
堰 |
3.6 |
- |
1922 |
下呂市 |
|
馬瀬川 |
瀬戸第二 |
4,400 |
21,000 |
水路式 |
西村ダム 弓掛ダム |
重力 堰 |
17.5 4.7 |
276 - |
1938 |
下呂市 |
|
馬瀬川 |
馬瀬川第一 |
0 |
288,000 |
揚水 |
岩屋ダム |
ロックフィル |
127.5 |
173,500 |
1976 |
下呂市 |
多目的
|
馬瀬川 |
馬瀬川第二 |
0 |
66,400 |
ダム式 |
馬瀬川第二ダム |
重力 |
44.5 |
9,736 |
1976 |
下呂市 |
|
佐見川 |
佐見川 |
83 |
330 |
水路式 |
佐見川ダム |
堰 |
10.0 |
- |
1928 |
加茂郡白川町 |
|
飛騨川流域一貫開発計画で建設された水力発電所で生み出された電力は、幾つかの高圧送電線を経由して名古屋市、長野県方面、北陸地方に送電されている。
1954年︵昭和29年︶5月に最初に完成した濃飛幹線は朝日発電所から飛騨川本流の各発電所を経由して川辺発電所に至る全長86キロメートル、15万ボルト二回線、鉄塔159基の送電線網である。各発電所で発電された電力は川辺発電所から愛知県岩倉市にある岩倉変電所を経て、三重県四日市市にある三重変電所まで送られる。濃飛幹線の完成直後には北陸方面へ電力を融通するために北陸連絡線が完成する。これは朝日・久々野発電所の中間点付近より分岐して北上し、富山県へと至る全長25キロメートルの幹線である。建設については北陸電力と工事費を折半して施工された。これにより飛騨川の電力は北陸方面にも融通されるようになった。
1969年には高根第一発電所建設に伴い、超高圧送電線として高根幹線が建設される。この幹線は全長91キロメートル、27万ボルト二回線、鉄塔222基の送電線網であり、高根第一発電所から馬瀬川第一発電所を経て岐阜県関市の関開閉所へと至る。さらに1970年︵昭和45年︶10月には高根第一発電所を起点とする高根中信一号線が完成する。これは高根第一発電所から野麦峠を越えて長野県塩尻市にある中信変電所へ電力を送電する全長48キロメートルの送電線網であり、完成によって今度は長野県へも飛騨川の電力が送電されることになった。1973年︵昭和48年︶には二号線が増設されている。これにより高根幹線は長野県塩尻市から飛騨川流域最大級の水力発電所である高根第一・馬瀬川第一発電所を経由して岐阜県関市へ至る長大送電線網になった[29]。
1968年8月18日、折からの集中豪雨によって飛騨川沿いの国道41号を走っていた観光バス2台が上麻生ダム直下の飛騨川に転落、104名の死者を出す日本のバス事故史上最悪の事故が発生した。飛騨川バス転落事故である。この事故に際し、人命救助の観点から飛騨川流域一貫開発計画で建設されたダム・発電所が異例とも言える操作を行っている。
事故当時の飛騨川は台風崩れの豪雨によって水位が大幅に増水しており、かつ飛水峡という険阻な峡谷にバスが転落していたため、バスの引き上げと乗客の救助活動は難航を極めていた。陸上自衛隊守山駐屯地を始め岐阜県警、消防などが救助活動に当たっていたが、飛騨川流域のダムや発電所を管理する中部電力も要請を受けて岐阜支店長を本部長として社員延べ380名、管理用舟艇350艘を動員して支援体制に入っていた。しかし濁流渦巻く飛騨川の救助活動が難航を極めていることもあり、事故翌日の8月19日に上麻生発電所の全取水発電を行ってダム下流の水位を下げ、転落した2台のうち1台の引き上げを支援した。しかし川の中に没している残り1台の救助は水位がかなり低下しない限り困難であった。
8月21日中部電力は本社会議を行い、救助活動援護を目的に上麻生・名倉の両発電所とダムを利用して飛騨川の水位を極限まで下げる﹁水位零作戦﹂の実施を決定、捜索本部連絡会議で提案し了承された。まず上麻生ダムの貯水を全て放流して貯水池を空にし、上流にある名倉発電所では全出力運転を行い取水口である名倉ダムに極力貯水する。上麻生ダムが空になったところで名倉ダムから放流を行い、上麻生ダムはゲートを全閉して可能な限り洪水を貯留、同時に上麻生発電所が全出力運転を行い、ダム湖から取水することで水位の上昇を抑える。この上麻生ダム全閉操作により水がなくなった飛騨川に捜索隊が入り残る1台を捜索するという内容であった。ダムとはいえ上麻生ダムは極めて小規模でかつ治水容量は有しないことから、一歩間違えればダム決壊に繋がる操作であるが、飛騨川の流量が正常に戻るまで待つことが許されないため、ダム管理上異例の操作が8月22日より8月23日までの2日間にわたり岐阜支店長の指揮下で行われた。
ダムが全閉操作を行ってから満水になるまでは30分しか時間の余裕が無かったため、操作は反復して行われた。その30分間に海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊と陸上自衛隊豊川駐屯地施設大隊によって残る1台が引き揚げられた。しかし乗客のほとんどは下流に流されていたため、今度は下流にある川辺ダムの全放流操作を1937年の完成以来初めて実施、ダム湖である飛水湖を空にして捜索活動を支援した。大正時代より飛騨川の開発に携わり地形や水文データが蓄積していることが、このような異例の放流操作を行えた要因となっている。なお、事故地点付近に建立された慰霊碑・﹁天心白菊の塔﹂は、上麻生発電所職員による清掃活動が月例奉仕として現在も続けられている[30]。
飛騨川流域一貫開発計画において建設された発電所やダムは多数に上るが、建設に伴う地元住民との補償問題の解決は避けて通れない課題であった。ダム建設によって故郷が水没する住民への一般補償、漁業が盛んな飛騨川の漁業補償、発電所の取水と灌漑用水取水との整合性が問題となった農業補償など、幾つもの補償案件が山積しており、その解決には相応の努力が必要であった。計画進行による住民の犠牲は、こうした大規模河川開発における最大の問題となっている。
飛騨川流域のダム開発において、住民の移転を伴う一般補償が実施されたのは川辺発電所・ダムの23戸が最初である[31]。下表は発電所・ダム建設によって移転を余儀なくされた住民の戸数である。
各発電所建設に伴う移転戸数(単位:戸)[32]
発電所
|
川辺
|
朝日
|
東上田
|
久々野
|
新小坂
|
高根第一 高根第二
|
馬瀬川第一 馬瀬川第二
|
中呂
|
移転戸数
|
23
|
66
|
10
|
11
|
0
|
69
|
157 30
|
3
|
川辺ダムについては当時は東邦電力が施工しており、電力開発の国家的重要性を説いて最終的には円満解決されたと﹃飛騨川 流域の文化と電力﹄で述べられているが、詳細は不明である。戦後最初の補償案件となったのは朝日発電所と朝日ダム・秋神ダムにおける一般補償であり、両ダム合計で66戸水没することになった。当初は朝日村や久々野町といった関係自治体はダム建設を歓迎、朝日ダムに水没する地区住民も概ねダム建設は否定的ではなかったが、1951年に発電効率向上のため高さを一律12メートル高くすると発表したところ、当初の水没戸数24戸に加え42戸が新たに水没するため住民は挙って反発、当初融和的だった朝日村や久々野町もダム建設に否定的な姿勢を見せ、補償交渉は深夜に及んだ。最終的には日下部禮一高山市長や飛騨選出の前田義雄岐阜県議会議員、高山商工会議所が代替地を斡旋することで解決した[33]。
東上田発電所・ダムでは当時田子倉ダム補償事件を始めダム補償交渉において高額の補償金妥結が報道されていたこともあり、住民は高額の補償金を要求。一時は事業者の中部電力が発電所建設を断念して大井川水系の開発に軸足を移そうとするなど決裂寸前に至った[34]。この時期は水源地域対策特別措置法などの水没住民に対する法整備が未熟だったこともあり、岐阜県当局や周辺市町村の斡旋により解決が図られるケースが多かった。高根第一・第二発電所と高根第一・第二ダムの補償交渉では1963年に閣議決定された﹁電源開発等に伴う損失補償基準﹂が策定されたことから基準に沿った補償交渉が実施されたが、高根第一・第二については多額の補償金受け取りによる住民の生活基盤崩壊を防ぐため現金に代わり社債を提供して堅実な資金運用を提案、水没する69戸のうち64戸が応じている[35]。
馬瀬川第一発電所・岩屋ダムでは水没戸数が157戸と多数に上り、補償交渉を担当した中部電力と地元住民の間で水没見舞金の支給を巡り当初は激しい対立があった。しかし岐阜県が水没見舞金の呈示に前向きな姿勢を示した段階から住民の態度も軟化。岐阜県・益田郡金山町︵現在の下呂市︶長の斡旋、また水没はしないがダム建設によって地域から地理的に孤立する少数残存者補償を受け入れるなど事業者側も譲歩したため、住民側も事業者側の提示する補償基準に合意。水没住民の移転を含め大規模なダムとしては異例の3年目で交渉が妥結している[36]。ダム規模が同等で当時激しい反対運動により事業が長期化していた八ッ場ダム︵吾妻川︶、大滝ダム︵紀の川︶、川辺川ダム︵川辺川︶などと比べほぼ円満な解決であり、水没予定地にはダム反対運動によく見られる﹁ダム反対﹂の看板や幟が全くみられなかったという[37]。
一般補償については水源地域対策特別措置法といった法整備がない状態であったが、基本的には流域自治体が電力開発に理解を示し交渉妥結のために様々な斡旋を行ったことが、頑強な反対運動にまで発展しなかった理由である。一方公共補償については報奨金という名目で学校や消防施設、医療機関の建設や道路・上下水道の整備などが中部電力の負担で実施され、特に道路については劣悪だった道路事情の改善に寄与している。またダムや発電所建設に伴う固定資産税収入は自治体の財政において無視できない位置を占め[注釈18]、1974年︵昭和49年︶には電源三法︵電源開発促進税法・発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進対策特別会計法︶が施行され、特に発電用施設周辺地域整備法については完成して年月の経過した発電所も対象になることから自治体の公共事業整備に役立っている。
その反面、多くの住民が移転したことにより過疎化が進行、旧朝日村では60戸300名が高山市などに移転したため急激に人口が減少、旧高根村では人口の16.5パーセント、世帯数の16パーセントに当たる65戸350名がやはり高山市などに移転し過疎化に拍車を掛け、旧金山町では152戸836名、旧馬瀬村では特に下山地区が25戸155名の集落全体が関市などへ移転。これらの地域では深刻な過疎化を招いている[38]。
河川維持放流を行う東上田ダム︵飛騨川︶。1954年︵昭和29年︶完成。
濁水問題を契機に設置された朝日ダムの表面取水設備。
秋神貯水池。大物のアマゴが多く釣れる。
飛騨川は流域のほとんどを山地で占めているが、植生は良好で水源涵養︵かんよう︶も保持されていた。これが水生昆虫や藻類の繁殖を促し、さらに魚類が棲息するという好循環を生み出していた。飛騨川や支流の馬瀬川はアユ釣りが特に盛んなほか、イワナ、アマゴ、ウナギ、コイなど豊富な漁業資源を有する河川であった。しかし水力発電所、特にダムを建設することでアユなどの遡上する魚類が深刻な影響を受けるほか、工事中の濁水で河川環境が悪化するなど漁業で生計を立てる関係者にとっては死活問題であり、日本各地のダム開発では漁業権を保有する漁業協同組合との漁業補償交渉が特に困難を極めていた。
飛騨川でも例に漏れず、漁業補償は一般補償に比べはるかに交渉が難航した。日本電力や東邦電力が競って開発を行っていた大正時代は飛騨川に漁業協同組合は存在せず、またダム自体の高さが低く抑えられていた。さらに岐阜県当局がダム建設を許可する条件として魚道の設置を義務付けていたため、上麻生・七宗・大船渡などのダムには魚道が設置され、魚類の遡上には支障を来たしていなかった[39]。しかし戦後に入ると小坂ダムを境に上流を益田川上流漁業協同組合、下流を益田川漁業協同組合、最下流部を飛騨川漁業協同組合が第五種共同漁業免許を取得して漁業権を管理[40]。馬瀬川でも馬瀬川上流・下流漁業協同組合が漁業権を管理しており、漁業資源が衰微するダム・発電所建設には頑強に反対した。特に戦後のダム建設は朝日ダムなど魚道の設置が物理的に不可能なハイダムを多く建設していたことから、より解決が困難になっていた。
朝日ダムから始まった漁業補償交渉は、魚道の設置可否を巡り意見が対立。最終的に魚道を設けない代わりに東上田ダムでは漁業資源保護のための河川維持放流を行い、また益田郡萩原町︵現在の下呂市︶に岐阜県水産試験場を大垣市から誘致し養殖を促進するなど対策を行って妥結した[41]。しかし1965年7月飛騨川流域を集中豪雨が襲い、朝日ダムに合流する渓谷でがけ崩れが多発。それが原因で濁水が流れ込み数年にわたって飛騨川が濁る朝日ダム濁水問題が発生した。
飛騨川の濁水は年を追っても一向に解決する気配を見せず、朝日ダムの放流と高根第一ダムのコンクリート骨材採取に原因を求めた益田川漁業協同組合は濁水解決を中部電力に対して強硬に主張。濁水が飛騨川バス転落事故捜索を困難にさせている一因であると世論に訴え、中部電力が補償に応じなければ高根第一ダム工事現場に実力行使を以って工事を停止させるとまで強硬な姿勢を取った。飛騨川流域の町村長・町村議会議長、下呂温泉を始めとする町村観光協会なども漁協の主張に同意し、1966年飛騨川公害対策協議会が設置され濁水問題は公害問題に発展する気配を見せた。さらには岐阜県公害対策協議会・岐阜県議会公害対策特別委員会が設けられる事態に発展し、政治問題となった[42]。濁水問題への反発が高まりダムを管理する中部電力は小坂発電所増設、高根第一・第二発電所の工事、さらには馬瀬川第一・第二発電所計画が遅延、飛騨川流域一貫開発計画は停滞する。最終的には事態を重く見た岐阜県当局が仲裁に乗り出し、県の斡旋案で収拾させるに至った。中部電力は朝日ダムに表面取水設備を設置し、比較的清浄な貯水池上層の水を放流することで飛騨川の濁水を解消する対策を取る[43]ほか、上流発電所群の運用改善と東上田ダムの放流水を15ppm以下に抑える、秋神貯水池の清浄な水を朝日貯水池に導水し濁水軽減を図るなどの恒久対策を行うことで1972年︵昭和47年︶3月、岐阜県庁公害対策事務局との協定締結により一連の問題は発生から6年目で解決した[44]。
岩屋ダムを始めとする馬瀬川第一・第二発電所では長良川と並ぶアユの宝庫であった馬瀬川にダムを建設することに馬瀬川上流・下流の漁業協同組合が反発。特に下流漁協は瀬戸第二発電所の取水元である西村・弓掛ダムの撤去を求めるなど強硬な姿勢を取った。この件も岐阜県が仲裁に入り両ダムに魚道を新設する、またアユ養殖施設を新設するなどの条件で妥結した[45]。中呂発電所では度重なるダム・発電所建設で漁場が縮小に次ぐ縮小を受けた益田川漁業協同組合が反対、交渉妥結に3年を費やしている[46]。下表は漁業補償交渉において中部電力が各漁協に支払った補償金の一覧表である。
各発電所における漁業補償額(単位:円)[47]
漁協\発電所
|
朝日
|
東上田
|
久々野
|
新小坂
|
高根第一 高根第二
|
馬瀬川第一 馬瀬川第二
|
中呂
|
益田川上流
|
12,880,000
|
60,300,000
|
70,000,000
|
3,300,000
|
46,700,000
|
-
|
-
|
益田川
|
3,700,000
|
17,100,000
|
12,000,000
|
18,000,000
|
114,500,000
|
飛騨川
|
-
|
-
|
-
|
-
|
-
|
10,500,000
|
-
|
馬瀬川上流
|
-
|
-
|
-
|
-
|
-
|
57,500,000
|
-
|
馬瀬川下流
|
-
|
-
|
-
|
-
|
-
|
320,000,000
|
-
|
共同漁場[注釈 19]
|
-
|
-
|
-
|
-
|
-
|
9,600,000
|
-
|
このように漁業補償は難航を極めた。漁協としては水力発電所やダム建設により生業である漁場が繰り返し失われるため、将来の生活に不安を覚えたための反対運動であったが、電力開発の重要性も認識していたため最終的には苦渋の決断を行っている。飛騨川は多数のダムが建設されたことで回遊魚の遡上が只見川などと同様に絶望的になったが、一方で陸封魚となったアマゴなどが巨大化しており、秋神貯水池などでは新たな漁業資源となっている。飛騨川の水質管理については朝日ダム濁水問題の教訓として高根第一ダムなどにも選択取水設備を設置、濁水防止対策を講じている。2006年︵平成18年︶7月の洪水においてその効果は発揮され、財団法人ダム水源地環境整備センターより﹁ダム・堰危機管理業務顕彰奨励賞﹂を受賞している[48]。
ワラビ。根の部分を加工して作られるワラビ粉は飛騨川上流域の特産品。
農業に関連する補償としてはダム建設に伴う農地水没に対する補償、特産品栽培に対する補償、慣行水利権に対する補償の3種類が飛騨川流域の水力発電事業では見られた。ここでは後二者について解説する。
特産品補償については朝日ダムと高根第一ダムにおいて見られた。当時朝日村と高根村ではワラビの根からワラビ粉を生産しており、高根村では特産品として多額の収入を上げており生活基盤の一つであった。しかしダム建設に伴い移転する住民の中には、ワラビ粉の生産が不可能になるため収入の途が閉ざされる。このため減収に対する補償が求められ、生活再建の一環として補償が転出住民に行われた[49]。
一方慣行水利権に対する補償は、主に農業用水の取水がダムや発電所の建設によって取水量が減少し、十分な灌漑が行われなくなることに対する補償である。これは戦前・戦後を問わず、発電所建設時に水利権を取得する際に交付される水利使用許可命令書、あるいは水利使用規則においてこれら慣行水利権の使用に支障を来たさないようにしなければならないと定められているためであり、農業保護対策として水利権使用の許認可権を持つ河川管理者が特に注文していた。
飛騨川の水力発電開発の場合、瀬戸第二発電所や朝日発電所、久々野発電所、小坂発電所において頭首工の新設や取水堰からの河川維持放流によって慣行水利権分の流量を維持する対策が取られており、多目的ダムや治水ダムにおける目的の一つ不特定利水が事実上実施されている。馬瀬川第二発電所では発電用水利権により取水される水で農業用水の取水に支障を来たすことから新たに揚水施設を建設した。東上田発電所では流域の旧萩原町が丘陵地に農地が多く営まれているため、ダム建設に伴う取水量減少に不安を持つ土地改良区が反対していた。またダムから発電所へ導水するためのトンネル工事で水脈を掘ったことから、渓流が枯渇したり水が少なくなることで農業用水11件、800戸の水道供給に被害を与えた。このため補償費支払いのほか頭首工の新設、簡易水道整備などの対策を実施している[50]。
1937年(昭和12年)に完成した川辺ダムと川辺発電所。左側の魚道と放流用ゲートの間に舟運用通路がある。
流木に対する補償は主に戦前の一時期に見られた補償形態であり、戦後は佐久間ダム︵天竜川︶や長安口ダム︵那賀川︶など少数に留まり現在は実施されていない。飛騨川流域の山林は江戸時代は加茂郡の一部が尾張藩の領地として[51]、明治時代は皇室御料林として管理される美林であった。その総面積は20万ヘクタールにも及び、ヒノキ、スギ、モミなどが生育するため江戸時代以降林業が盛んになった。当時の飛騨川流域は険阻な峡谷のため道らしい道は存在せず、木材を名古屋方面に運搬するには専ら流木による輸送が行われていた。流れた木材は現在の加茂郡七宗町下麻生にていかだに組みなおされ、木曽川を下って名古屋へ輸送された。こうした流木が行われるのは洪水期を避ける意味から水量の少ない冬季に行われるが、往々にして急流河川で流木は実施されていたことから、急流河川で好んで行われた水力発電開発が流木を途絶させるため流木業者との相性は悪かった。しかも流木が盛んに行われる冬季は水が少ないため、水力発電所は水量を確保するために特に取水を強化する時期であり、水量が少なくなって流木が支障を来たすことで流木業者の不満は高まる一方であった[52]。
これらの理由で電力会社と流木業者の紛争はしばしば激しいものとなった。特に知られているのが、庄川において浅野総一郎率いる庄川水力電気と飛州木材が、小牧ダム建設と慣行流木権の有無を巡り長期にわたって法廷闘争にまで発展した庄川流木事件である[53]。この庄川流木事件に先んじ、飛州木材は飛騨川においても日本電力との間で慣行流木権を巡り激烈な紛争を1920年から1924年まで繰り広げていた。これを益田川流木事件と呼ぶ。契機となったのは日本電力が瀬戸第一発電所を建設する際に、河川管理者である岐阜県知事から流木権保全のため冬季の流木シーズンには毎秒400立方尺の放流義務を許可条件としたことに始まる。しかしこれを行うと冬季の取水量は激減し発電能力は最大で2万7000キロワットの能力がわずか2,000キロワット弱に低下し、発電所として用を成さなくなる。このため発電所に導水する導水路を流木用水路と兼用させ、発電能力の維持を図る折衷案を県知事に提示し、許可を受けた。ところが飛騨川の流木を一手に引き受けていた飛州木材は当初の条件を遵守するよう強硬に異議を申立て、折衷案を是とする日本電力との間で激しい対立を招き、瀬戸ダムに貯留した木材の流下を促すためのゲートの開放を巡り両者が一触即発の衝突寸前にまで至った[54]。
事態を重視した岐阜県は県議会議長を仲介役として調停に入り、木材輸送に関する輸送期間の遵守と流木従事者への賃金負担、輸送期間を超過した場合の損失補てんを盛り込んだ覚書を飛州木材と交わし、代わりに折衷案を飛州木材は認めることで合意が図られ、4年間に及ぶ紛争は解決した。この益田川流木事件以降、流木権維持のためダムには魚道の流木版である流木路を設けて流木を円滑にさせることが絶対条件となり、川辺ダム建設までは流木路や舟運確保のためのレール敷設が行われた[55]。しかし1934年︵昭和9年︶10月25日に高山本線が岐阜駅と高山駅間で全通したことで木材輸送は一挙に鉄道輸送に切り替えられ、流木による木材輸送は衰退。戦後は全く見られなくなりダムや発電所建設において流木補償を行う必要性はなくなった。
下原ダム湖畔を通過する高山本線と特急ワイドビューひだ。鉄道ファンの撮影スポットである。
飛騨川流域に建設されたダムは発電に利用されているだけではなく、地域のレジャーにも利用されている。特に川辺ダムについては穏やかな水面がボート競技に適しており、1970年に岐阜県川辺漕艇場が人造湖である飛水湖に設けられた。日本ローイング協会が認定する国際A級ボートコースに認定されており、インターハイなど多くの大会が開催される日本有数のコースで、2012年︵平成24年︶開催予定の岐阜国体のボート競技会場に決定している[56]。また観光の面ではダムや発電所の半数以上が、現在の下呂市金山町に集中していることから旧金山町では﹁ダムの町﹂として観光の一つに挙げていた[57]。またアユやアマゴなどが高根第一ダムの人造湖である高根乗鞍湖や岩屋ダムの人造湖である東仙峡金山湖などの人造湖で釣ることができる[注釈20]。下原ダムは左岸を高山本線が通過するが、ダム建設に際し線路が水没するため新たに鉄橋を設けた[58]。この下原ダム湖を渡る鉄橋は高山本線における撮影スポットの一つとして知られ、休日には鉄道ファンが撮影のために訪れている。国道41号や国道361号沿いからは建設されたダムの多くを容易に望むことが可能である。
しかし飛騨川流域のダムはほとんどが管理上の理由で、水資源機構が管理している岩屋ダムとダムの天端︵てんば︶が生活用道路として利用される瀬戸ダム、七宗ダム、大船渡ダム、馬瀬川第二ダム以外は一般人の立入が厳しく規制されている。発電所は中部電力の許可を得ない限り全て立入禁止である。かつては高根第一ダムも立ち入りが可能であり、冬から春に掛けては雪を被った乗鞍岳を正面に望むことが出来たが、発電所・ダムの無人管理が実施されて以降は立入禁止となった。国土交通省や水資源機構、各地方自治体が積極的にダムを観光資源として開放しているのとは対照的で[注釈21]、国土交通省直轄ダムのほか都道府県営ダムや電力会社管理ダムなども発行を開始したトレーディングカードであるダムカードも、飛騨川流域では岩屋ダムしか発行していない。
1911年の関西電力発起人による瀬戸第一発電所など4発電所の水利権申請に始まる飛騨川流域の水力発電開発は、戦後飛騨川流域一貫開発計画として大規模に展開され、1987年の新上麻生発電所の運転開始まで76年間、新規の水力発電事業が続けられた。ここでは年表形式で開発の歴史を記す。
- 建設省『国土総合開発特定地域の栞』、1951年
- 建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第一巻、1955年
- 建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第二巻、1955年
- 建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター編『日本の多目的ダム 直轄編 1990年版』山海堂、1990年
- 中部電力編『飛騨川 流域の文化と電力』、1979年
- 水資源開発公団編『水資源開発公団30年史』財団法人水資源協会、1992年
(一)^ 関西電力の前身。
(二)^ 中部電力の前身。
(三)^ 1956年廃止。
(四)^ 関西電力の前身。
(五)^ 現在の関西電力とは無関係の電力会社。
(六)^ 旧河川法の下では、河川管理は一部を除き原則として都道府県が管轄していた。
(七)^ 現在の河川法では瀬戸ダムは高さが15.0メートル以下なので、ダムではなく堰に該当する。
(八)^ 現在の河川法では七宗ダムは高さが15.0メートル以下なので、ダムではなく堰に該当する。
(九)^ 現在の河川法では上麻生ダムは高さが15.0メートル以下なので、ダムではなく堰に該当する。
(十)^ 現在の河川法では大船渡ダムは高さが15.0メートル以下なので、ダムではなく堰に該当する。
(11)^ 現在の河川法では名倉ダムは高さが15.0メートル以下なので、ダムではなく堰に該当する。
(12)^ 木曽川水系では徳山ダム︵揖斐川︶、味噌川ダム︵木曽川︶に次いで3番目に高い。
(13)^ 木曽川のほかに指定されたのは北上川、江合川・鳴瀬川、最上川、利根川、信濃川、常願寺川、淀川、吉野川、筑後川の各水系。
(14)^ 15箇所のダム計画の詳細については木曽川#木曽特定地域総合開発計画を参照
(15)^ 15箇所の多目的ダム計画で実現を見たのは丸山ダムのほかは牧尾ダム︵王滝川︶と横山ダム︵揖斐川︶の3箇所だけであり、味噌川ダム︵木曽川︶と後述する岩屋ダムは同一地点に別のダム事業として復活する。
(16)^ 発電用ダムを取水口として利水に利用する方式は、群馬用水と綾戸ダム︵利根川︶、東濃用水と落合ダム・愛知用水と兼山ダム︵以上木曽川︶の例がある。
(17)^ 岐阜県が管理する洪水調節・不特定利水・下呂市への上水道供給を目的とした補助多目的ダム。1998年完成。
(18)^ 一例を挙げると神奈川県愛甲郡清川村は宮ヶ瀬ダム︵中津川︶完成に伴う固定資産税収入により、地方交付税交付金の不交付団体となっている。
(19)^ 益田川漁協・飛騨川漁協・馬瀬川下流漁協が共同で管理している漁場。
(20)^ ただし釣りを行う際には管理する漁協の入漁券が必要。また発電用ダムは発電に伴う水位変動が激しく、立入禁止となっている場所もあるため注意。
(21)^ 電力会社によって多少の差はあるが、電力会社管理ダムの大半はこうした立入規制措置を取っている。
- ^ 社団法人電力土木技術協会『水力発電データベース』2010年3月19日閲覧
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.375
- ^ 『日本の多目的ダム 直轄編 1990年版』p.471
- ^ 『日本の多目的ダム 直轄編 1990年版』p.473
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.407
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.515
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.524-525
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.530-531
- ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
- ^ 以上の段落は『飛騨川 流域の文化と電力』pp.537-538
- ^ 以上の段落は『飛騨川 流域の文化と電力』pp.541-544
- ^ 以上の段落は『飛騨川 流域の文化と電力』pp.539-540
- ^ 以上の段落は『飛騨川 流域の文化と電力』pp.549-551
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.552-565
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.572-573
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.571
- ^ 『国土総合開発特定地域の栞』pp.37-40
- ^ 『河川総合開発調査実績概要』第一巻p.66
- ^ 『河川総合開発調査実績概要』第二巻p.67
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.582-583
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.582
- ^ 『日本の多目的ダム 直轄編 1990年版』pp.466-467
- ^ 『水資源開発公団30年史』pp.211-213
- ^ 国土交通省告示・通達データベース2010年3月28日閲覧。キーワードを「ダム」、年度を「1966年」~「1966年」で検索すると本通達内容が見られる
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.875-876
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- ^ 中部電力プレスリリース ダム・堰危機管理業務顕彰「奨励賞」を受賞。2007年6月29日2010年3月22日閲覧
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- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.739-740
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.741-742
- ^ 岐阜新聞Web 川辺漕艇場2010年3月22日閲覧
- ^ 旅館福寿美ホームページ飛騨川流域の水力発電所位置図が掲載されている。2010年3月22日閲覧
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.640