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「うるまの島」の版間の差分

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この場合「うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)」と前書されてあり、ここでの「うるま」が[[朝鮮半島]]の[[鬱陵島]](ウルルン島)であることは、すでに明治時代中期には[[佐々木弘綱]]・[[佐佐木信綱]]父子が朝鮮半島の属島と明記し<ref>[[佐々木弘綱]]、[[佐佐木信綱]]『日本歌学全書 第三編』[[博文館]]、[[1890年]]「志らきは新羅にて三韓の一つの国なり そこにあるうるまの島人の物いひの聞知かたきをたとへにいへるなり 此歌千載集恋一に入て四の句わがことの葉をとあり」</ref>、後述の古典籍の記述からも、古典文学、和歌研究者の間での定説となっている。

この場合「うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)」と前書されてあり、ここでの「うるま」が[[朝鮮半島]]の[[鬱陵島]](ウルルン島)であることは、すでに明治時代中期には[[佐々木弘綱]]・[[佐佐木信綱]]父子が朝鮮半島の属島と明記し<ref>[[佐々木弘綱]]、[[佐佐木信綱]]『日本歌学全書 第三編』[[博文館]]、[[1890年]]「志らきは新羅にて三韓の一つの国なり そこにあるうるまの島人の物いひの聞知かたきをたとへにいへるなり 此歌千載集恋一に入て四の句わがことの葉をとあり」</ref>、後述の古典籍の記述からも、古典文学、和歌研究者の間での定説となっている。



『[[大日本史]]』(巻234)<ref>訳文大日本史5(後楽書院、明治45年)P.674[https://dl.ndl.go.jp/pid/771746/1/354]</ref>によれば、【[[藤原行成]]の『[[権記]]』に[[寛弘]]元年([[1004年]])[[高麗]]人の[[因幡国|因幡]]漂着が記述され、『[[本朝麗藻]]』によれば食料を与え帰国させたとあり、この漂流者は『大納言公任集』によれば[[新羅]]宇流麻島人で、『[[東国通鑑]]』では芋陵島人である(本朝麗藻では「迂陵島」)】と記述されている。日本語の通用しない相手としての「うるま」としては、同じく平安時代の『[[狭衣物語]]』にも「こはいかにとよ うるまの島の人とも覚え侍るかな(どうしたものか、言葉の通じないうるまの島の人のようにこちらの心が通じない)」と使われている。

『[[大日本史]]』(巻234)<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/771746/1/354 訳文大日本史5](後楽書院、明治45年)P.674, {{NDLJP|771746}}.</ref>によれば、【[[藤原行成]]の『[[権記]]』に[[寛弘]]元年([[1004年]])[[高麗]]人の[[因幡国|因幡]]漂着が記述され、『[[本朝麗藻]]』によれば食料を与え帰国させたとあり、この漂流者は『大納言公任集』によれば[[新羅]]宇流麻島人で、『[[東国通鑑]]』では芋陵島人である(本朝麗藻では「迂陵島」)】と記述されている。日本語の通用しない相手としての「うるま」としては、同じく平安時代の『[[狭衣物語]]』にも「こはいかにとよ うるまの島の人とも覚え侍るかな(どうしたものか、言葉の通じないうるまの島の人のようにこちらの心が通じない)」と使われている。



『千載集』([[1188年]])に採択される前に編纂された私家版の『公任集』([[1041年]]頃)の詞書(前書)には「しらぎのうるまの島の人」とあるものが、千載集では国名が省略されてしまったため、これが後に何処とも知れぬ辺境の異邦人の島の代名詞となり、異郷の島の呼び名となった。

『千載集』([[1188年]])に採択される前に編纂された私家版の『公任集』([[1041年]]頃)の詞書(前書)には「しらぎのうるまの島の人」とあるものが、千載集では国名が省略されてしまったため、これが後に何処とも知れぬ辺境の異邦人の島の代名詞となり、異郷の島の呼び名となった。

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[[]][[|]][[]]使[[]][[]][[1513]]<ref>[https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/10389/files/jbknp_55_503_shimamura_etc.pdf 4 [[]]552018]</ref>[[]][[]][[]][[]]  [[1597]]  [[]]

[[]][[|]][[]]使[[]][[]][[1513]]<ref>{{Cite journal||author=, , ,  |date=2018-03 |url=https://rissho.repo.nii.ac.jp/records/10389 |title=4  |journal= |ISSN=03899535 |publisher= |issue=55 |pages=45-76 |hdl=11266/00011328 |CRID=1050011550986875264}}</ref>[[]][[]][[]][[]]  [[1597]]  [[]]


17世紀末に琉球の[[識名盛命]](唐名は毛起龍)が和文体の紀行文『思出草』([[1700年]])に[[薩摩藩|薩摩]]と日本本土での琉球の別称として記したことから、琉球人の間でも知られるようになったが、知識人以外の一般への定着はならなかった。

17世紀末に琉球の[[識名盛命]](唐名は毛起龍)が和文体の紀行文『思出草』([[1700年]])に[[薩摩藩|薩摩]]と日本本土での琉球の別称として記したことから、琉球人の間でも知られるようになったが、知識人以外の一般への定着はならなかった。

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近年は「うるま」の語源は[[沖縄方言]]で「珊瑚の島」(「ウル(珊瑚)」「マ(島)」)とされるが、[[民間語源]]に過ぎない。

近年は「うるま」の語源は[[沖縄方言]]で「珊瑚の島」(「ウル(珊瑚)」「マ(島)」)とされるが、[[民間語源]]に過ぎない。




[[]][[]]26[[1893]][[西]][[]][[]][[]][[]]<ref>[[]][http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no36/suetsugu_satoshi.pdf 西 ][[]]36[[2010]]</ref>[[]][[]]

[[]][[]]26[[1893]][[西]][[]][[]][[]][[]]<ref>{{Cite journal||author= |date=2010 |url=http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no36/suetsugu_satoshi.pdf |format=PDF |title=西: |journal= |ISSN=09173986 |publisher= |issue=36 |pages=87-108 |quote=  |CRID=1520853833737107072 }} {{404|date=2023-11}}</ref>[[]][[]]


現状の語源説では「ウル」は珊瑚の意味ということが独り歩きしているが、宮良が指摘するように沖縄方言での「ウル」は本来(珊瑚の砕けた)粗砂を意味し、「シマ」が「マ」に変化したという点も言語学上の変遷の根拠に欠ける。また、この「うるま沖縄方言説」は戦前より、[[伊波普猷]]、[[東恩納寛惇]]らによる本土・沖縄の古典記述を元にした論考で批判を受けていた。

現状の語源説では「ウル」は珊瑚の意味ということが独り歩きしているが、宮良が指摘するように沖縄方言での「ウル」は本来(珊瑚の砕けた)粗砂を意味し、「シマ」が「マ」に変化したという点も言語学上の変遷の根拠に欠ける。また、この「うるま沖縄方言説」は戦前より、[[伊波普猷]]、[[東恩納寛惇]]らによる本土・沖縄の古典記述を元にした論考で批判を受けていた。


2023年11月27日 (月) 05:46時点における版






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参考文献

脚注



(一)^  1890  

(二)^ 545P.674, NDLJP:771746.

(三)^ 992 1087

(四)^ 宿

(五)^ , , , 4 552018345-76CRID 1050011550986875264hdl:11266/00011328ISSN 03899535 

(六)^ 西:PDF36201087-108CRID 1520853833737107072ISSN 09173986   []

外部リンク