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後述のカシミール
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イギリス[[植民地]]統治下のインドでは、国内の様々な地域に大小無数に散在する[[藩王国]]をイギリスが間接的に統治していた。
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2013年1月12日 (土) 20:34時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Kashmir_map_big.jpg/250px-Kashmir_map_big.jpg)
カシミール︵英語‥Kashmir、ウルドゥー語‥کشمیر、ヒンディー語‥कश्मीर、カシュミール︶とは、インド、パキスタン、中国の国境付近に広がる、山岳地方の名称である。標高8000m級のカラコルム山脈があり、中国との国境には世界第2の高峰K2がそびえる。
概要
後述のカシミール紛争を抱える地域である。 パキスタンの実効支配地域は、ギルギット・バルティスタン州及びアザド・カシミールと呼ばれている。 中華人民共和国の実効支配は、ラダック地方の東半にあたるアクサイチンとなっている。 インドの実効支配地域は、かつてジャンムー・カシミール藩王国︵1846年 - 1947年︶があった地域で、ジャンムー・カシミール州となっている。 インドの実行支配が及んでいるジャンムー・カシミール州を文化・宗教的に三つに分けるならば、カシミール渓谷地域︵ムスリム95%︶、ジャンムー地域︵ヒンドゥが過半数︶、ラダック地域︵仏教徒とムスリムがほぼ半数ずつ︶の西半の地域である。なかでもカシミール渓谷は自然の美しさと人間の暴力の酷さが同居する州の中心地である。 最大の都市は、避暑地として知られる夏の州都スリナガル︵シュリナガル︶で、インドのジャンムー・カシミール州の州都となっている。特にダル湖一帯が観光客であふれた。高級織物のカシミア︵英: Cashmere wool, カシミヤとも︶の語源で、カシミアはこの地域原産のカシミア・ヤギの毛から作られる。歴史
詳細は「カシミールの歴史」を参照
カシミールの東側半分以上を占めるヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた一帯、ラダック︵およびザンスカール︶地方とバルティスターン地方は、元々チベット系のラダック王国があったが、1834年に最後の王Tsepal Namgyalがシク教国に敗れ、en:Stokに追放され、シク教国の支配下に入った。[要出典]
19世紀になると、1841年には清とシク教国の間で、清=シク戦争が起きた。その際に捕虜となったカシミール兵士の末裔数千人が、ラサなど中央チベットに居住している。これらはカチェ︵チベット語でカシミール人︶と呼ばれ、イスラム教の信仰を保っているが、言語や大部分の習俗はチベット人に同化している。これがひいてはチベットでイスラム教徒の移民を漠然とカチェと呼ぶようになり、青海省・甘粛省方面から移住してきた回族もギャナ・カチェ︵直訳すれば﹁中国のカシミール人﹂の意︶と呼ばれる。[要出典]
だがシク戦争では、1846年に第1次シク戦争のソブラーオンの戦いで、イギリス植民地のジャンムー・カシミール藩王国が成立した歴史を持つ。[要出典]
1846年、第1次シク戦争のソブラーオンの戦いで、イギリスがシク教国を破り、ラホール条約を締結した。この条約をもって、ジャンムー・カシミール藩王国が成立し、カシミールのイギリス植民地統治が始まった。[要出典]
カシミール紛争
詳細は「カシミール紛争」および「:en:Timeline of the Kashmir conflict」を参照
イギリス植民地統治下のインドでは、国内の様々な地域に大小無数に散在する藩王国をイギリスが間接的に統治していた。
1947年8月、それまでイギリス植民地のイギリス領インド帝国として一つのまとまりだった広大な地域が、植民地独立を契機に、ヒンドゥー教徒が多数派であるが多民族・多宗教の国是︵ガンディーの﹁一民族論﹂︶を掲げるインドと、イスラム教徒は別個の民族と見なすジンナーらの﹁二民族論﹂に基づきイスラム教を国教とするパキスタンの2つの国家に大きく分裂した。
このインド・パキスタン分離独立によって、それぞれ藩王国はいずれかの側に帰属することを迫られていた。しかし、カシミール藩王は自身がヒンドゥー教徒、対して住民の80%はムスリム︵イスラム教徒︶という微妙な立場にあり、独立を考えていた。パキスタンが武力介入してきたことで、カシミール藩王はインドへの帰属を表明し、インド政府に派兵を求めた。これが第一次印パ戦争︵印パ戦争︶の発端である。以後、第二次印パ戦争、第三次印パ戦争、カルギル紛争まで争っている。
しかし、1990年代に入るとパキスタンの支援を受けた過激派のテロが頻発し、治安部隊の過剰ともいえる反撃が続いた。2002年秋以降出口らしきものが見えてきている[1]。
この地域についてはパキスタンとインドが領有を主張し、これまで大小の軍事衝突︵カシミール紛争︶を繰り返してきた。現在は、ほぼ中間付近に停戦ラインが引かれている。現在︵2000年代後半︶のカシミール地方は、インド側はジャンムーカシミール州、パキスタン側はアーザード︵自由︶・ジャンムー・カシミール州と北方地域を実効支配している。ほかに中国が一部支配している。
2002年の州議会選挙の時、ジャンムー・カシミールのヒンドゥー勢力が州を三分割してジャンムー州を建設すべきとの主張をした。また、ラダッタ地域では自治権拡大の要求が起きている。2006年、インド人観光客が戻り始めたが、それらの観光客を狙ったテロが横行した。
日本の学校教育用地図帳では、パキスタンから中国へ割譲された地域を除き、中印パ三国の主張するすべての地域を所属未定とし、実効支配線︵停戦ライン︶のみ描く手法がとられている。
また、カシミール問題と言うときには、インド管理地域内でのムスリムの集団による分離独立運動も指すことがある。
言語
カシミール人の言語はインド語派カシミール語などの諸語で、ラダックではチベット語西部方言に属するラダック語、バルティスターンではラダック語のバルティ方言が話される。宗教
住人の宗教はイスラム教が支配的であるが、この地域のイスラム教は、スーフィズムやヒンドゥーの影響を受けた非常に独特のものである。この世の全てのものが絶対神︵アッラー︶の化身であると考え、多神教との折衷的な汎神論的世界観を保有している。この世界観に基づき預言者を通じずに神との交信が可能であると考えられており、独特の神秘的儀式が多数存在している。 ヒンドゥー教徒とイスラムが対立するカシミール問題[要出典]の中では看過されがちであるが、チベット圏に属するラダック地方ではチベット仏教が信仰され、現在では最もよくチベット仏教の伝統を保存する重要な信仰拠点の1つとなっている。またバルティスターンは、チベット系民族でありながらイスラム教を信仰する特徴的な地域である。地震による影響
一部で﹁カシミール地震﹂とも呼ばれる2005年10月8日のパキスタン地震の後、同地は莫大な労力と巨額の復興費用を必要としている。脚注
- ^ 伊藤融「遥かなる「東洋のスイス」」/ 広瀬崇子・近藤正規・井上恭子・南埜猛編著『現代インドを知るための60章』明石書店 2007年 288-290ページ