パキスタン
- パキスタン・イスラム共和国
- اسلامی جمہوریہ پاكستان(ウルドゥー語)
Islamic Republic of Pakistan(英語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:ايمان اتحاد تنظيم ラテン文字転写: īmān, ittihād, tanazeem (ウルドゥー語: 信頼、統一、規律)
- 国歌:
قومی ترانہ(ウルドゥー語)
神聖なる大地に祝福あれ
薄緑色箇所はカシミールと呼ばれておりインド、パキスタン、中国の三カ国で分割統治されているため現在インドとの間で領土問題を抱えている-
公用語 ウルドゥー語(国語)
英語(公用語)首都 イスラマバード 最大の都市 カラチ 独立 - 日付 イギリスより 1947年8月14日(2023年現在、イギリス連邦加盟) 通貨 パキスタン・ルピー(PKR) 時間帯 UTC+5 (DST:なし) ISO 3166-1 PK / PAK ccTLD .pk 国際電話番号 92
概要[編集]
国名[編集]
正式名称は、اسلامی جمہوریہ پاكستان︵ウルドゥー語‥ラテン文字転写︵一例︶は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン︶。 公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。 日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。語源[編集]
国名﹁パキスタン﹂は、ウルドゥー語とペルシア語で﹁清浄な国﹂を意味する。پاک︵パーク︶が﹁清浄な﹂の意味である[15]。接尾語ـستان ︵スターン︶は、ペルシャ語で﹁〜の場所﹂を意味し、サンスクリットのस्थान︵スターナ︶と同語源である[16]。 パキスタンという国名は、イギリス領インドのうちムスリム︵イスラム教徒︶が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリーによる1933年の小冊子﹃パキスタン宣言﹄の中で初めて使われたものである[17]。アリーは、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州︵旧・北西辺境州︶に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANから"Pakstan"︵パクスタン︶としていたが[18][19][20]、後に、発音しやすくするために"i"が加えられて"Pakistan"︵パキスタン︶となった[21]。国名の変遷[編集]
- 1947年 - 1956年:パキスタン
- 1956年 - 1958年:パキスタン・イスラム共和国
- 1962年 - 1973年:パキスタン共和国
- 1973年 - 現在:パキスタン・イスラム共和国
歴史[編集]
独立と印パ戦争[編集]
1947年8月14日にイギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂く自治領︵英連邦王国パキスタン (ドミニオン)︶となり、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任する。同年10月21日から翌1948年12月31日にかけてカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が起き、1956年には共和制に移行し、イスカンダル・ミールザーが初代大統領に就任した。 1958年のクーデターでミールザー大統領が失脚し︵en:1958 Pakistani coup d'état︶、パキスタン軍の総司令官だったアイユーブ・ハーンの軍事独裁政権が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。1965年には第二次印パ戦争が起き、1970年11月に東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争︵1971年12月3日 - 12月16日︶に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。尚、この過程においてヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプや虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる[22]。 1972年、イギリス連邦を脱退し、パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりブットーは職を追われ、後に処刑されている。アフガニスタン紛争と核開発[編集]
1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン︵イスラム義勇兵︶が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。 1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。 1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権が核実験﹁シャクティ作戦﹂を実施した。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。ムシャラフ大統領時代[編集]
民政化以降[編集]
2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。 2010年、パキスタン洪水が発生。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院︵定数342︶で過半数を割り込むことになった。MQM︵下院25議席︶は声明で﹁上下院とも野党席に座る決定をした﹂と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。 11月26日、国際治安支援部隊︵ISAF、アフガニスタン駐留︶の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた[23][24]。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し[25]、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフが就任した。 2013年5月13日のパキスタン下院総選挙でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派︵PML-N︶が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に、大統領にはマムヌーン・フセインが就任した。ナワーズ・シャリーフ首相は2016年4月3日に発表されたパナマ文書に名前が登場したことで、2018年4月13日に最高裁判所から公職永久追放の決定を下され、同年7月6日に汚職罪で禁錮10年の有罪判決を言い渡され収監された。 2018年9月4日のパキスタン総選挙で反腐敗を掲げたパキスタン正義運動︵PTI︶は小選挙区で延期された2議席を除いた270議席のうち改選前31議席から116議席に躍進し[26]、同党のイムラン・カーン︵PTI議長︶が首相に、歯科医のアリフ・アルヴィが大統領に就任した。2022年4月10日、パキスタン下院は経済不振を理由としてカーン首相に対する不信任決議案を賛成多数で可決した。不信任決議での首相失職は同国では初めてである[27]。首相にはナワーズ・シャリーフの弟のシャバズ・シャリーフ︵PML-N党首︶が議会によって選出された[28]。政治[編集]
国内政治[編集]
行政[編集]
国家元首は大統領で、任期は5年。選挙人団によって間接的に選出されることとなっている。
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立法[編集]
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政党[編集]
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司法[編集]
パキスタンは守旧的イスラームに基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を行うことを宣言し、イスラム法の強い影響を受けた法を施行するという点でイスラム国家としての色彩が強い。
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国際関係[編集]
対日関係[編集]
対印関係[編集]
対米関係[編集]
対アフガニスタン関係[編集]
対サウジアラビア関係[編集]
対トルコ・アゼルバイジャン関係[編集]
パキスタンは一貫してアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフに対する立場およびトルコのキプロスに対する立場を支持しており、両国もパキスタンによるカシミールへの主権を支持している[49]。2020年のナゴルノ・カラバフ戦争以降、パキスタンはトルコとアゼルバイジャンに急速に接近し、2021年には三か国連合軍事演習が行われた[50]。
対中関係[編集]
対露関係[編集]
国家安全保障[編集]
地理[編集]
地勢[編集]
-
イスラマバード
-
パンジャーブ
-
フンザバレー
-
K2
気候[編集]
災害[編集]
地方行政区分[編集]
主要都市[編集]
人口100万人以上の都市が10都市ある。首都イスラマバードは人口順では9番目に位置する。
パキスタンの主要都市 (2017年現在) | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
# | 都市名 | 行政区画 | 人口(人) | # | 都市名 | 行政区画 | 人口(人) | ||
1 | カラチ | シンド州 | 14,916,456 | 11 | バハーワルプル | パンジャーブ州 | 762,111 | ||
2 | ラホール | パンジャーブ州 | 11,126,285 | 12 | サルゴーダー | パンジャーブ州 | 659,862 | ||
3 | ファイサラーバード | パンジャーブ州 | 3,204,726 | 13 | シアールコート | パンジャーブ州 | 655,852 | ||
4 | ラーワルピンディー | パンジャーブ州 | 2,098,231 | 14 | サッカル | シンド州 | 499,900 | ||
5 | グジュラーンワーラー | パンジャーブ州 | 2,027,001 | 15 | ラルカナ | シンド州 | 490,508 | ||
6 | ペシャーワル | カイバル・パクトゥンクワ州 | 1,970,042 | 16 | シェイクプラ | パンジャーブ州 | 473,129 | ||
7 | ムルターン | パンジャーブ州 | 1,871,843 | 17 | ラヒーム・ヤール・ハーン | パンジャーブ州 | 420,419 | ||
8 | ハイデラバード | シンド州 | 1,734,309 | 18 | チャング | パンジャーブ州 | 414,131 | ||
9 | イスラマバード | イスラーマーバード首都圏 | 1,009,832 | 19 | デーラー・ガージー・ハーン | パンジャーブ州 | 399,064 | ||
10 | クエッタ | バローチスターン州 | 1,001,205 | 20 | グジュラート | パンジャーブ州 | 390,533 |
経済[編集]
経済史[編集]
アユーブ・カーン政権下では年平均5%で成長し、多くの水力発電所を建設、﹁国家資本主義﹂と称した経済自由化政策は成功を収めた。また、アユーブは緑の革命を通じた緑化推進政策を実行。農地改革や農民への補助金支給で食糧供給に尽力した。しかし、1973年から始まったブットー政権下では国家資本主義の体制を否定、社会主義的な経済政策を打ち出し、電力や外国資本の国有化を断行した。しかし、官僚主義が蔓延すると共に汚職がはびこり、資本逃避による成長の鈍化が開始。1978年、陸軍大佐であったジア=ウル・ハクが無血のクーデターを決行。ジアは経済の自由化と新自由主義的な経済改革を行い、同時に経済のイスラム化も行った。 ジアの死後、ナワーズ・シャリーフ首相やベナジル・ブットー首相はいずれも自由化、民営化政策に賛成していたが、停滞は顕著に表れた。パルヴェーズ・ムシャラフ政権以降はこの停滞を克服し、2002~2007年にかけて成長が加速。いまだ低い識字率に悩まされるパキスタンにおいて、小学校への入学者数は増加し、債務対GDP比は100%から55%に低下した。同時に外貨準備高も1999年10月の12億米ドルから、2004年6月30日には107億米ドルに増加。2008年、ムシャラフが国内の反政府デモに対処できず辞任すると、人民党は再び党勢を建て直し、国政を支配。スタグフレーションの時代が到来し経済は再び低迷した。 2013年、シャリーフが再び首相の座に返り咲くと、エネルギー不足、インフレ、多額の債務、巨額の財政赤字によって機能不全に陥った経済を引き継ぐために復帰した。治安改善や原油価格の低下、送金の増加により、パキスタン経済は再び勢いづいた。国際通貨基金による融資プログラムは2016年9月に終了した。 2022年のウクライナ侵攻による国際的な原油価格の上昇により、パキスタンの外貨準備高は枯渇気味となった[64]。不十分なガバナンス、一人当たりの生産性の低さ、2022年のパキスタン洪水が重なった事で、IMFから60億ドルの救済協定を再開するよう説得するために必死の措置を講じた[65]。自動車産業[編集]
日本の自動車メーカーが複数進出して製造販売を行っている。スズキは、1975年に国営会社を通じて自動車の生産を開始した後、1982年、現地合弁会社パックスズキ社を立ち上げてパキスタンへの本格参入。フロンテやキャリイなどの現地モデルの生産を始めた。2007年10月には、二輪車の現地代理店と合併する形で二輪車の生産販売も始めた。2009年には国内の自動車累計生産台数100万台を達成している[66]。トヨタ自動車は、現地合弁会社インダス・モーター社を1989年に設立。カローラやハイラックスの生産を始め、2012年に生産累計50万台を達成した[67]。本田技研工業は、1992年より現地合弁会社のアトラスホンダ社を設立し二輪車の生産販売を開始。1994年には、四輪車生産を目的とした合弁会社ホンダアトラスカーズを立ち上げて、シビックなどの生産を行っている。2016年累計生産台数30万台を達成[68]。 日産自動車は、カラチに現地工場を建設。1997年、現地法人ガンダーラ日産の手によりノックダウン生産によりサニーの生産を始めた。2010年代に一旦閉鎖されたが、2020年初頭を目途にピックアップトラックの生産を開始することが発表している[69]。観光[編集]
主な観光名所には、モヘンジョ・ダロとハラッパー遺跡、ヒマラヤの避暑地が存在する。
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交通[編集]
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科学技術[編集]
パキスタンは欧州原子核研究機構(CERN)の準加盟国であり、その地位を取得している数少ない国の1つともなっている[70]。
国民[編集]
人口[編集]
- パキスタンの人口の推移
- 2017年:2億1274万人(前回比:5355万増)
- 2004年:1億5919万人(前回比:1016万増)
- 2003年:1億4903万人(前回比:307万増)
- 2002年:1億4596万人(前回比:1146万増)
- 2000年:1億3450万人(前回比:1898万増)
- 1991年:1億1552万人
人口密度[編集]
182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年)
民族[編集]
言語[編集]
ウルドゥー語︵国語︶、英語︵公用語︶に加え、パンジャーブ語、シンド語、カシミール語、コワール語といったインド語群のほか、イラン語群のパシュトー語およびバローチー語、ドラヴィダ語族のブラーフーイー語、孤立した言語ブルシャスキー語などがある。 現行の1973年憲法251条はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、15年以内に英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2020年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にするパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れており、さらに南部でウルドゥー語を母語とするムハージル人︵パキスタン独立時にインドから逃れてきた難民の子孫︶とシンド語を母語とするシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。言語 | 2017年(国勢調査) | 1998年(国勢調査) | 優勢地域 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
数 (万人) | 割合 (%) | 数 (万人) | 割合 (%) | |||
1 | パンジャーブ語 | 8057 | 38.78 | 5843 | 44.15 | パンジャーブ州 |
2 | パシュトー語 | 3790 | 18.24 | 2041 | 15.42 | カイバル・パクトゥンクワ州 |
3 | シンド語 | 3027 | 14.57 | 1866 | 14.10 | シンド州 |
4 | サライキ語 | 2533 | 12.19 | 1394 | 10.53 | パンジャーブ州南西部 |
5 | ウルドゥー語 | 1471 | 7.08 | 1002 | 7.57 | パキスタン都市部 |
6 | バローチー語 | 627 | 3.02 | 472 | 3.57 | バローチスターン州 |
7 | その他 | 1272 | 6.12 | 617 | 4.66 | 北部山岳地帯 |
婚姻[編集]
結婚時に妻は結婚前の姓をそのまま用いること(夫婦別姓)も、夫の姓に変えること(夫婦同姓)も可能。イスラム法では夫の姓に変えることを求めておらず、イスラム系住民は婚前の姓をそのまま用いることが多い[71]。
宗教[編集]
教育[編集]
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保健[編集]
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医療[編集]
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治安[編集]
法執行機関[編集]
警察[編集]
パキスタンの警察機関は7つ存在している。中でも国内4州(パンジャーブ州、カイバル・パクトゥンクワ州、シンド州、バローチスターン州)にはそれぞれ独自の警察組織があり、この警察組織はその地域における優先課題に合わせて設立され、独自で専門化された精鋭部隊が組織されている点が特徴である。
一例としてパンジャーブ州警察には『 精鋭警察』と呼ばれるコマンドー部隊や『ドルフィン・ フォース』(Dolphin Force)と呼ばれる街頭犯罪に特化した精鋭部隊が設立されている。
人権[編集]
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人権侵害[編集]
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マスコミ[編集]
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文化[編集]
著名な遺跡として世界遺産になっているインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの都市遺跡がある。ほかに標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。
食文化[編集]
パキスタン国内にはアジア最初のビール醸造所として知られるマリー醸造所(マリー・ブルワリー)があり、非ムスリム向けにマリービールが製造されている[79]。フンザ地方においては、ワインがよく飲まれている。
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文学[編集]
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音楽[編集]
古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリーの大歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。
映画[編集]
パキスタンの映画は『ロリウッド』と呼ばれることでも有名である。「ロリウッド」という単語は「ラホール」と「ハリウッド」の鞄語で、元々はグラマー誌のゴシップコラムニストであるサリーム・ナシル(Saleem Nasir)によって1989年に考案された言葉だが、通常は南アジア映画において他の映画産業と比較する目的での用語として使用されている。
美術[編集]
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服飾・衣装[編集]
伝統衣装にはサルワール・カミーズと呼ばれる上下一対の被服が知られている。
建築[編集]
パキスタンの建築は、インド亜大陸の建築文化と絡み合って構成されたもので占められている。独立後のパキスタンにおける建築は、歴史的なイスラム様式建築と様々な現代様式建築が融合したものとなっている点が特徴である。
また、国民の大半がムスリムであることからイスラム教の建築物の代表であるモスクも多数存在する。
世界遺産[編集]
パキスタン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
3月23日 | 共和国記念日 | یوم پاکستان | 1940年3月23日、ムスリム連盟ラホール大会でのパキスタン決議を記念 |
5月1日 | メーデー | یوم کاریگر | |
8月14日 | 独立記念日 | یوم استقلال | 1947年8月14日、パキスタンの英国からの独立を記念 |
9月6日 | 国防記念日 | یوم دفاع | 1965年9月6日、第二次印パ戦争開戦 |
9月11日 | ムハンマド・アリー・ジンナーの命日 | یوم وفات قائداعظم | 1948年9月11日死去 |
11月9日 | 詩人・哲学者ムハンマド・イクバールの誕生日 | یوم ولادت محمد اقبال | 1877年11月9日誕生、1930年に初めてインドにおけるイスラム国家樹立を主張 |
12月25日 | クリスマス、建国の父ジンナーの誕生日 | عيد الميلاد المسيح | 1876年12月25日誕生 |
以下はヒジュラ暦(イスラムの太陰暦)に従う祝祭日 | |||
ムハッラム10日 | アーシューラー | عاشوراء | イマーム・フサインの殉教 |
ラビーウ=ル=アウワル12日 | イーデ・ミラードゥンナビー | عيد ميلاد النبي | 預言者ムハンマドの生誕祭 |
ラマダーン21日 | イマーム・アリーの殉教 | شهادت حضرت علی | |
ラマダーンの最後の金曜日 | جمعة الودع | ||
ラマダーン最終十夜 | 天命の夜 | ليلةِ القَدر | |
シャウワール1日 | イード・アル=フィトル | عيد الفطر | 断食明けの祭り |
ズー=ル=ヒッジャ10日 | イード・アル=アドハー | عيد الأضحى | 息子を進んで犠牲にしようとしたイブラーヒーム(アブラハム)を記念 |
スポーツ[編集]
クリケット[編集]
サッカー[編集]
ホッケー[編集]
パキスタンでは、クリケットやサッカーに次いでホッケーが盛んである。ホッケーパキスタン代表はアジア屈指の強豪国として知られており、過去には1960年ローマオリンピック、1968年メキシコシティーオリンピック、1984年ロサンゼルスオリンピックと、3度オリンピックで金メダルを獲得している。著名な出身者[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 国連児童基金[ユニセフ]によると13万人が避難
出典[編集]
関連項目[編集]
- 国境
外部リンク[編集]
- 政府
- パキスタン・イスラム共和国政府 (英語)
- パキスタン政府 情報放送省[リンク切れ] (英語)
- パキスタン大統領府 (英語)
- 在日パキスタン大使館 (日本語)(英語)
- 日本政府
- 外務省 - パキスタン (日本語)
- 在パキスタン日本国大使館 (日本語)
- 観光
- パキスタン政府観光局 (英語)
- ウィキトラベルには、パキスタンに関する旅行ガイドがあります。 (日本語)
- その他
- JETRO - パキスタン (日本語)
- イスラーム地域研究「中東の民主化と政治改革の展望」(大学共同利用機関法人 人間文化研究機構) - パキスタン (日本語)
- 東京外国語大学(南・西アジア課程)ウルドゥー語専攻 (日本語)
- 大阪大学(外国語学部外国語学科)ウルドゥー語専攻 (日本語)
- パキスタン・プロフィール BBCニュース (英語)
- NPO法人 JFSA(日本語)
- "Pakistan". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency. (英語)
- パキスタン - Curlie(英語) (英語)
- パキスタンのウィキメディア地図 (英語)
- 『パキスタン』 - コトバンク
- パキスタンの食べ物街
- パキスタン - ウィキマピア
- 地図 - Google マップ