「カール・フォン・エスターライヒ=テシェン」の版間の差分
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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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| 人名 = カール |
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| 各国語表記 = Karl |
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| 子女 = {{Collapsible list|title=一覧参照|[[マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン|マリア・テレジア]]<br/>[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン|アルブレヒト]]<br/>[[カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール・フェルディナント]]<br/>フリードリヒ<br/>ルドルフ<br/>マリア・カロリーナ<br/>[[ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1827-1894)|ヴィルヘルム]]}} |
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| 家名 = [[ハプスブルク=テシェン家]] |
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| 父親 = [[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]] |
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'''カール・フォン・エスターライヒ'''︵'''{{lang|de|Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen}}''', [[1771年]][[9月5日]] - [[1847年]][[4月30日]]︶は、[[フランス革命戦争]]、[[ナポレオン戦争]]期に活躍した[[オーストリア帝国]]の軍人、皇族。[[チェシン公国|テシェン︵チェシン︶公]]。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]とその皇后[[マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン|マリア・ルドヴィカ]]の |
'''カール・フォン・エスターライヒ'''︵'''{{lang|de|Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen}}''', [[1771年]][[9月5日]] - [[1847年]][[4月30日]]︶は、[[フランス革命戦争]]、[[ナポレオン戦争]]期に活躍した[[オーストリア帝国]]の軍人、皇族。[[チェシン公国|テシェン︵チェシン︶公]]。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]とその皇后[[マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン|マリア・ルドヴィカ]]の三男。神聖ローマ皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]︵オーストリア皇帝としてはフランツ1世︶の弟。'''カール大公'''として知られる。
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== 生い立ち == |
== 生い立ち == |
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[[ファイル:Ritratto di Carlo duca di Teschen.jpg|120px|サムネイル| |
[[ファイル:Ritratto di Carlo duca di Teschen.jpg|120px|サムネイル|left|青年期]] |
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父レオポルトが大公であった[[トスカーナ大公国]]の[[フィレンツェ]]に生まれる。父のはからいでカールは子供のいなかった伯母夫婦、[[チェシン公国|テシェン(チェシン)女公]][[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]とテシェン公[[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]]の養子として、[[ウィーン]]で育てられた。テシェン公の称号はのちに養父から継承したものである。 |
父レオポルトが大公であった[[トスカーナ大公国]]の[[フィレンツェ]]に生まれる。父のはからいでカールは子供のいなかった伯母夫婦、[[チェシン公国|テシェン(チェシン)女公]][[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]とテシェン公[[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]]の養子として、[[ウィーン]]で育てられた。テシェン公の称号はのちに養父から継承したものである。 |
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幼少時は華奢な体格でかつ病気がちだったため、あまり将来を見込まれていなかったが、早いうちから軍事に関心を示し、幾何学などの本格的な学問に親しんだ<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。 |
幼少時は華奢な体格でかつ病気がちだったため、あまり将来を見込まれていなかったが、早いうちから軍事に関心を示し、幾何学などの本格的な学問に親しんだ<ref name="#1">Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。 |
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養父母の総督就任に伴い[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]へ移り、養母が死んだ[[1793年]]から後任の総督を務めた。 |
養父母の総督就任に伴い[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]へ移り、養母が死んだ[[1793年]]から後任の総督を務めた。 |
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== 軍歴 == |
== 軍歴 == |
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1792年、カールが20歳の時にフランスとの戦いに従軍する。[[フリードリヒ・ルートヴィヒ (ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯)|ホーエンローエ]]の指揮下でジャマップの戦いに参加し、デュムーリエ将軍率いるフランス軍と戦った。その後、[[フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト|ザクセン=コーブルク公子フリードリヒ・ヨシアス]]の軍の先陣となり、フランス軍を破ったアルデンホーフェンとネールウィンデンの戦いでは際立った働きを見せた。ベルギーを再度フランスから取り戻した後、1793年3月25日、その地の総督に任じられる。1794年、ランドルシー、トゥルネ、コルトレイクそしてフリュールスの戦いでは、オーストリア軍の指揮の一部を担った。フランスに[[オーストリア領ネーデルラント]]を奪われた後、彼は健康を回復するため軍を退きウィーンへ戻った<ref |
1792年、カールが20歳の時にフランスとの戦いに従軍する。[[フリードリヒ・ルートヴィヒ (ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯)|ホーエンローエ]]の指揮下でジャマップの戦いに参加し、デュムーリエ将軍率いるフランス軍と戦った。その後、[[フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト|ザクセン=コーブルク公子フリードリヒ・ヨシアス]]の軍の先陣となり、フランス軍を破ったアルデンホーフェンとネールウィンデンの戦いでは際立った働きを見せた。ベルギーを再度フランスから取り戻した後、1793年3月25日、その地の総督に任じられる。1794年、ランドルシー、トゥルネ、コルトレイクそしてフリュールスの戦いでは、オーストリア軍の指揮の一部を担った。フランスに[[オーストリア領ネーデルラント]]を奪われた後、彼は健康を回復するため軍を退きウィーンへ戻った<ref name="#1"/>。 |
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[[ファイル:Erzherzog Karl in der Schlacht bei Stockach.JPG|220px| |
[[ファイル:Erzherzog Karl in der Schlacht bei Stockach.JPG|220px|left|thumb|シュトックアハの戦い]] |
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1796年、神聖ローマ帝国陸軍元帥の肩書きのもと、ライン方面軍司令官として戦場に復帰する。そして[[ジャン=バティスト・ジュールダン|ジュールダン]]将軍率いるフランス軍に対しノイマルクト、ダイニング、アンベルクにて連勝を重ね、さらには[[ミュンヘン]]まで進軍して来た[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]将軍をも撤退に追い込んだ。フランス軍は[[ライン川]]の西岸まで押しやられ、かろうじてユナングとケールの間の橋を保持するのみだったが、それさえも翌年冬にはカール大公によって攻撃され奪われる。このように彼の働きによってオーストリア軍のドイツ方面での戦況は優位だったが、イタリアでは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いるフランス軍があらゆる場所で戦勝を重ねており、首都ウィーンにも迫る勢いだった。それを食い止めるためにカール大公が派遣されると、ナポレオンは[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の言葉を模して、「これまで私は指揮官のいない軍隊と戦ってきたが、これからは軍隊のいない指揮官と戦わねばならない」と述べたという。1797年4月18日、カール大公は後の[[カンポ・フォルミオの和約]]の前提となる[[レオーベン条約]]の締結を余儀なくされる。その後しばらくの間、[[ボヘミア王冠領|ボヘミア王国]]の総督を務めたが、[[ラシュタット会議]]が決裂したため再び戦場へ復帰すると、ライン川を渡って進軍してきたジュールダン率いるフランス軍をオスラッハとシュトックアハで破った。しかし同盟国[[ロシア帝国|ロシア]]の指揮官たちとの意見対立は、彼の軍事作戦の成功を妨げた。ロシアのコルサコフ将軍がチューリッヒの戦いで[[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]将軍のフランス軍に敗北すると、カール大公は再度ライン川方面を防衛せねばならなかった<ref |
1796年、神聖ローマ帝国陸軍元帥の肩書きのもと、ライン方面軍司令官として戦場に復帰する。そして[[ジャン=バティスト・ジュールダン|ジュールダン]]将軍率いるフランス軍に対しノイマルクト、ダイニング、アンベルクにて連勝を重ね、さらには[[ミュンヘン]]まで進軍して来た[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]将軍をも撤退に追い込んだ。フランス軍は[[ライン川]]の西岸まで押しやられ、かろうじてユナングとケールの間の橋を保持するのみだったが、それさえも翌年冬にはカール大公によって攻撃され奪われる。このように彼の働きによってオーストリア軍のドイツ方面での戦況は優位だったが、イタリアでは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いるフランス軍があらゆる場所で戦勝を重ねており、首都ウィーンにも迫る勢いだった。それを食い止めるためにカール大公が派遣されると、ナポレオンは[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の言葉を模して、「これまで私は指揮官のいない軍隊と戦ってきたが、これからは軍隊のいない指揮官と戦わねばならない」と述べたという。1797年4月18日、カール大公は後の[[カンポ・フォルミオの和約]]の前提となる[[レオーベン条約]]の締結を余儀なくされる。その後しばらくの間、[[ボヘミア王冠領|ボヘミア王国]]の総督を務めたが、[[ラシュタット会議]]が決裂したため再び戦場へ復帰すると、ライン川を渡って進軍してきたジュールダン率いるフランス軍をオスラッハとシュトックアハで破った。しかし同盟国[[ロシア帝国|ロシア]]の指揮官たちとの意見対立は、彼の軍事作戦の成功を妨げた。ロシアのコルサコフ将軍がチューリッヒの戦いで[[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]将軍のフランス軍に敗北すると、カール大公は再度ライン川方面を防衛せねばならなかった<ref name="#1"/>。 |
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1800年3月、再び健康状態が悪化し、カール大公は指揮権をクレイに委譲するとボヘミアへ帰還した。ナポレオンが[[マレンゴの戦い|マレンゴ]]に向けアルプスを越え、モローがドイツ方面に進軍しており、帝国にとって脅威が迫りつつあったため、カール大公は十分に健康を回復できていなかったが軍務に復帰する。彼が結んだシュタイアーの停戦は、後の[[リュネヴィルの和約]]の前提となる。カール大公の偉大なる戦果は大いに賞賛され、神聖ローマ帝国宮廷顧問会議の軍事首席に任命される。またドイツ諸邦からなる[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国会議]]は彼に﹁ドイツの救世主﹂の称号を授けようとしたが、彼はそれらの栄典を受理しなかった<ref |
1800年3月、再び健康状態が悪化し、カール大公は指揮権をクレイに委譲するとボヘミアへ帰還した。ナポレオンが[[マレンゴの戦い|マレンゴ]]に向けアルプスを越え、モローがドイツ方面に進軍しており、帝国にとって脅威が迫りつつあったため、カール大公は十分に健康を回復できていなかったが軍務に復帰する。彼が結んだシュタイアーの停戦は、後の[[リュネヴィルの和約]]の前提となる。カール大公の偉大なる戦果は大いに賞賛され、神聖ローマ帝国宮廷顧問会議の軍事首席に任命される。またドイツ諸邦からなる[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国会議]]は彼に﹁ドイツの救世主﹂の称号を授けようとしたが、彼はそれらの栄典を受理しなかった<ref name="#1"/>。
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1805年、イタリアでオーストリア軍を率いてマッセナと対峙し、カルディエロの戦い(10月29日 - 30日)で勝利するが大勢は変わらず、ナポレオンは[[ウルム戦役]]で勝利するとウィーンに急進する。トスカーナ大公[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド]]がボヘミアへ早々に撤退し、また[[アウステルリッツの戦い]]でフランス軍に敗北したため、皇帝フランツ2世は[[プレスブルクの和約]](12月25日)の締結を強いられた<ref |
1805年、イタリアでオーストリア軍を率いてマッセナと対峙し、カルディエロの戦い(10月29日 - 30日)で勝利するが大勢は変わらず、ナポレオンは[[ウルム戦役]]で勝利するとウィーンに急進する。トスカーナ大公[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド]]がボヘミアへ早々に撤退し、また[[アウステルリッツの戦い]]でフランス軍に敗北したため、皇帝フランツ2世は[[プレスブルクの和約]](12月25日)の締結を強いられた<ref name="#1"/>。 |
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カール大公は全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣に任命され、その大権をもってして、帝国軍の再組織と予備軍ならびに国民軍の強化に取り組む。1808年、スペイン国王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]が退位させられた後、[[カタルーニャ]]と[[アラゴン州|アラゴン]]の両地方はカール大公をスペインと西インドの王座に招請し、移送のためにイギリス軍艦さえも[[トリエステ]]へ派遣されたが、彼は謝意と共にそれを断った<ref |
カール大公は全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣に任命され、その大権をもってして、帝国軍の再組織と予備軍ならびに国民軍の強化に取り組む。1808年、スペイン国王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]が退位させられた後、[[カタルーニャ]]と[[アラゴン州|アラゴン]]の両地方はカール大公をスペインと西インドの王座に招請し、移送のためにイギリス軍艦さえも[[トリエステ]]へ派遣されたが、彼は謝意と共にそれを断った<ref name="#1"/>。 |
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[[ファイル:Johann Peter Krafft 003.jpg|160px| |
[[ファイル:Johann Peter Krafft 003.jpg|160px|left|thumb|ワグラムのカール大公]] |
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1809年の戦役では、カール大公はバイエルンで、弟の[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]と兄のフェルディナント大公はそれぞれイタリアとポーランドで軍を指揮した。カールは[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]に急進したが、ナポレオンがタン、アーベンスベルク、[[ランツフート]]、エックミュール、そしてラティスボンで連勝したため、後退を強いられる。しかし新たに補強を得たことで、ウィーンを征圧していたナポレオンを5月21日から22日にかけての[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で打ち破った。勝利の栄光は長く続かず、7月5日から6日かけての[[ワグラムの戦い]]で敗北し、その後[[ズノイモ]]まで撤退戦を強いられる。[[シェーンブルンの和約]]後の休戦によってこの戦役は終わりを告げた。カール大公は傷を負い、また個人的に屈辱を感じたことから、7月30日に軍隊の指揮とすべての役職を辞すると、[[チェシン]]へと引退し、その後ウィーンへ帰還した<ref |
1809年の戦役では、カール大公はバイエルンで、弟の[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]と兄のフェルディナント大公はそれぞれイタリアとポーランドで軍を指揮した。カールは[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]に急進したが、ナポレオンがタン、アーベンスベルク、[[ランツフート]]、エックミュール、そしてラティスボンで連勝したため、後退を強いられる。しかし新たに補強を得たことで、ウィーンを征圧していたナポレオンを5月21日から22日にかけての[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で打ち破った。勝利の栄光は長く続かず、7月5日から6日かけての[[ワグラムの戦い]]で敗北し、その後[[ズノイモ]]まで撤退戦を強いられる。[[シェーンブルンの和約]]後の休戦によってこの戦役は終わりを告げた。カール大公は傷を負い、また個人的に屈辱を感じたことから、7月30日に軍隊の指揮とすべての役職を辞すると、[[チェシン]]へと引退し、その後ウィーンへ帰還した<ref name="#1"/>。 |
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== 退役後== |
== 退役後 == |
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[[ファイル:Erzherzog Karl Heldenplatz Wien 4.JPG|150px|サムネイル|右|カール大公の騎馬像(ウィーン)]] |
[[ファイル:Erzherzog Karl Heldenplatz Wien 4.JPG|150px|サムネイル|右|カール大公の騎馬像(ウィーン)]] |
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ナポレオンが[[エルバ島]]を脱出した際には、わずかな期間にメンツの総督を務めたが、それを最後にあらゆる公職から退いた。引退後は軍事論を著しており、主な著作には下記が挙げられる<ref |
ナポレオンが[[エルバ島]]を脱出した際には、わずかな期間にメンツの総督を務めたが、それを最後にあらゆる公職から退いた。引退後は軍事論を著しており、主な著作には下記が挙げられる<ref name="#1"/>。 |
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*''Grundsätze der Strategie, erläutert durch die Darstellung des Feldzugs von 1796 in Deutschland'' (全3巻、1814年刊行) |
*''{{lang|de|Grundsätze der Strategie, erläutert durch die Darstellung des Feldzugs von 1796 in Deutschland}}'' (全3巻、1814年刊行) |
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*''Geschichte des Feldzugs von 1799 in Deutschland und der Schweiz'' (全2巻、1819年刊行) |
*''{{lang|de|Geschichte des Feldzugs von 1799 in Deutschland und der Schweiz}}'' (全2巻、1819年刊行) |
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1847年4月30日、ウィーンにて死去する。死後の1860年に騎馬像がウィーンに建立された<ref |
1847年4月30日、ウィーンにて死去する。死後の1860年に騎馬像がウィーンに建立された<ref name="#1"/>。 |
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== 評価 == |
== 評価 == |
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カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。また[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]、[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]らと並び、当時を代表する[[軍事学者|軍事思想家]]としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アルフレッド・セイヤー・マハン|マハン]]の海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。 |
カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。また[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]、[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]らと並び、当時を代表する[[軍事学者|軍事思想家]]としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アルフレッド・セイヤー・マハン|マハン]]の海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。 |
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[[ファイル:Thomas-Lawrence Archduke-Charles-of-Austria.jpg|150px|サムネイル|右|カール大公]] |
[[ファイル:Thomas-Lawrence Archduke-Charles-of-Austria.jpg|150px|サムネイル|右|カール大公]] |
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カール大公の戦略論では慎重であることを重大事として説いており、万難を排して守備に努める傾向は、受けて来た教育による偏向とも言えるが、彼は然るべき状況が来たと見てとれるまでは実行に移さなかった。それと同時に、極めて攻撃的な戦略を練って実現することも可能であり、用兵の戦術的スキル︵例えばヴュルツブルクやチューリッヒで見せたような広い範囲での反攻作戦やアスペルン・エスリンクやワグラムにおける大軍の指揮︶は、確実に彼が生きた時代の上位の指揮官たちに引けを取ることはない。1796年の戦役は申し分のない出来と見なされる。1809年に敗北を喫した要因の一部はフランスとその同盟軍の圧倒的な兵力の優位性であり、また一部は新たに再組織されたばかりのオーストリア軍の状態による。しかし一方で、彼がアスペルン・エスリンクの戦いの後、6週間も不活発でいたことは批判の的となってきた<ref>Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.935</ref>。
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カール大公の戦略論では慎重であることを重大事として説いており、万難を排して守備に努める傾向は、受けて来た教育による偏向とも言えるが、彼は然るべき状況が来たと見てとれるまでは実行に移さなかった。それと同時に、極めて攻撃的な戦略を練って実現することも可能であり、用兵の戦術的スキル︵例えばヴュルツブルクやチューリッヒで見せたような広い範囲での反攻作戦やアスペルン・エスリンクやワグラムにおける大軍の指揮︶は、確実に彼が生きた時代の上位の指揮官たちに引けを取ることはない。1796年の戦役は申し分のない出来と見なされる。1809年に敗北を喫した要因の一部はフランスとその同盟軍の圧倒的な兵力の優位性であり、また一部は新たに再組織されたばかりのオーストリア軍の状態による。しかし一方で、彼がアスペルン・エスリンクの戦いの後、6週間も不活発でいたことは批判の的となってきた<ref name="#2">Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.935</ref>。
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軍事理論家としてのカールは、兵法の進化の過程の中で重要な存在と位置づけられており、その教えの重みは当然のごとく大きい。しかしその教義は、1806年時点においてさえ古風であると見なされていた。慎重さと﹁戦略拠点﹂の重要性は彼の学説において主眼を置かれている。彼の地理的戦略の堅実さは﹁原則から決して離れない﹂という規範意識からくるものだろう。彼は軍が完全に安全な状況に置かれているならば危険を冒すことはないと繰り返し助言しているが、このルールを無視して1796年の戦役では輝かしい戦果を挙げている<ref |
軍事理論家としてのカールは、兵法の進化の過程の中で重要な存在と位置づけられており、その教えの重みは当然のごとく大きい。しかしその教義は、1806年時点においてさえ古風であると見なされていた。慎重さと﹁戦略拠点﹂の重要性は彼の学説において主眼を置かれている。彼の地理的戦略の堅実さは﹁原則から決して離れない﹂という規範意識からくるものだろう。彼は軍が完全に安全な状況に置かれているならば危険を冒すことはないと繰り返し助言しているが、このルールを無視して1796年の戦役では輝かしい戦果を挙げている<ref name="#2"/>。﹁戦略拠点はその者の国の運命を決するもので、将帥は常に主に神経を配らねばならない﹂と彼は︵敵軍を打ち負かすことよりも︶重視して述べている。カール大公の著作の編集者たちは良い仕事をしているが、クラウゼヴィッツの﹁カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている﹂との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。戦術に関する著作においてもこの精神は顕著に見える。彼にとって予備兵の存在は﹁退却を援護する﹂ものとして意図されている<ref name="#3">Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.936</ref>。
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これらの古風な原則がもたらす弊害は、1866年の[[普墺戦争]]中の[[ケーニヒグレーツの戦い|ケーニヒグレーツ・ヨーゼフシュタットの戦い]]でオーストリア軍が「戦略拠点」を堅持して、自軍を分割してプロイセン軍に攻撃を仕掛け、結果敗北したことに明示される。この奇妙な作戦はウィーンの中枢にて1859年の戦役のために考案され、同年の「全くもって理解しがたい」モンテベロの戦いでも実行された<ref |
これらの古風な原則がもたらす弊害は、1866年の[[普墺戦争]]中の[[ケーニヒグレーツの戦い|ケーニヒグレーツ・ヨーゼフシュタットの戦い]]でオーストリア軍が「戦略拠点」を堅持して、自軍を分割してプロイセン軍に攻撃を仕掛け、結果敗北したことに明示される。この奇妙な作戦はウィーンの中枢にて1859年の戦役のために考案され、同年の「全くもって理解しがたい」モンテベロの戦いでも実行された<ref name="#3"/>。 |
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カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった<ref |
カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった<ref name="#3"/>。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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[[ファイル:Karl |
[[ファイル:Erzherzog Karl im Kreise seiner Familie.jpg|280px|サムネイル|右|カール大公一家(1832年画、[[ウィーン軍事史博物館|軍事博物館]]収蔵)<br/>長女[[マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン|マリア・テレジア]]がカールに寄り添い、妃[[ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク|ヘンリエッテ]](故人)は左奥の胸像]] |
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[[ウィーン会議]]が終わった後の1815年9月、ナッサウ=ヴァイルブルク侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ナッサウ=ヴァイルブルク侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の娘[[ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク|ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ]]と[[ |
[[ウィーン会議]]が終わった後の1815年9月、ナッサウ=ヴァイルブルク侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ナッサウ=ヴァイルブルク侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の娘[[ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク|ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ]]と[[ヴァイルブルク]]で結婚した。2人の間には5男2女が生まれた。 |
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*[[マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン|マリア・テレジア]](1816年 - 1867年) - [[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]妃 |
* [[マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン|マリア・テレジア]](1816年 - 1867年) - [[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]妃 |
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*[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン|アルブレヒト]](1817年 - 1895年) - テシェン(チェシン)公 |
* [[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン|アルブレヒト]](1817年 - 1895年) - テシェン(チェシン)公 |
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*[[カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール・フェルディナント]](1818年 - 1874年) |
* [[カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール・フェルディナント]](1818年 - 1874年) |
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*{{仮リンク|フリードリヒ・フェルディナント・レオポルト・フォン・エスターライヒ|label=フリードリヒ|de|Friedrich Ferdinand Leopold von Österreich}}(1821年 - 1847年) |
* {{仮リンク|フリードリヒ・フェルディナント・レオポルト・フォン・エスターライヒ|label=フリードリヒ|de|Friedrich Ferdinand Leopold von Österreich}}(1821年 - 1847年) |
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*ルドルフ(1822年 |
* ルドルフ(1822年、夭折) |
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* {{仮リンク|マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ=テシェン|en|Archduchess Maria Karoline of Austria|label=マリア・カロリーナ}}(1825年 - 1915年) - オーストリア大公{{仮リンク|ラニエーリ・フェルディナンド・ダズブルゴ=ロレーナ|label=ライナー・フェルディナント|en|Archduke Rainer Ferdinand of Austria}}妃 |
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*マリア・カロリーネ(1825年 - 1915年) |
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*[[ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1827-1894)|ヴィルヘルム]](1827年 - 1894年) |
* [[ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1827-1894)|ヴィルヘルム]](1827年 - 1894年) |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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*Chisholm, H.(Eds)(1911).''The Encyclopædia Britannica Eleventh Edition''/Charles (Archduke of Austria), Cambridge University Press, Cambridge.pp.935-936 |
*Chisholm, H.(Eds)(1911).''The Encyclopædia Britannica Eleventh Edition''/Charles (Archduke of Austria), Cambridge University Press, Cambridge.pp.935-936 |
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2023年12月29日 (金) 10:12時点における最新版
カール Karl | |
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テシェン公 | |
在位 | 1822年 - 1847年 |
称号 | オーストリア大公 |
出生 |
1771年9月5日 トスカーナ大公国、フィレンツェ |
死去 |
1847年4月30日(75歳没) オーストリア帝国、ウィーン |
埋葬 | オーストリア帝国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂 |
配偶者 | ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク |
子女 |
一覧参照
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家名 | ハプスブルク=テシェン家 |
父親 | 神聖ローマ皇帝レオポルト2世 |
母親 | マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン |
役職 |
オーストリア領ネーデルラント総督 ドイツ騎士団総長 |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
生い立ち
[編集]軍歴
[編集]退役後
[編集]評価
[編集]家族
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- Chisholm, H.(Eds)(1911).The Encyclopædia Britannica Eleventh Edition/Charles (Archduke of Austria), Cambridge University Press, Cambridge.pp.935-936
- Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879). The American Cyclopædia/Charles (Archduke) ,D. Appleton and Company, New York.pp.308-309
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