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「カール・フォン・エスターライヒ=テシェン」の版間の差分

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父レオポルトが大公であった[[トスカーナ大公国]]の[[フィレンツェ]]に生まれる。父のはからいでカールは子供のいなかった伯母夫婦、[[チェシン公国|テシェン(チェシン)女公]][[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]とテシェン公[[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]]の養子として、[[ウィーン]]で育てられた。テシェン公の称号はのちに養父から継承したものである。

父レオポルトが大公であった[[トスカーナ大公国]]の[[フィレンツェ]]に生まれる。父のはからいでカールは子供のいなかった伯母夫婦、[[チェシン公国|テシェン(チェシン)女公]][[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]とテシェン公[[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]]の養子として、[[ウィーン]]で育てられた。テシェン公の称号はのちに養父から継承したものである。



幼少時は華奢な体格でかつ病気がちだったため、あまり将来を見込まれていなかったが、早いうちから軍事に関心を示し、幾何学などの本格的な学問に親しんだ<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。

幼少時は華奢な体格でかつ病気がちだったため、あまり将来を見込まれていなかったが、早いうちから軍事に関心を示し、幾何学などの本格的な学問に親しんだ<ref name="#1">Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。



養父母の総督就任に伴い[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]へ移り、養母が死んだ[[1793年]]から後任の総督を務めた。

養父母の総督就任に伴い[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]へ移り、養母が死んだ[[1793年]]から後任の総督を務めた。



== 軍歴 ==

== 軍歴 ==

1792年、カールが20歳の時にフランスとの戦いに従軍する。[[フリードリヒ・ルートヴィヒ (ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯)|ホーエンローエ]]の指揮下でジャマップの戦いに参加し、デュムーリエ将軍率いるフランス軍と戦った。その後、[[フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト|ザクセン=コーブルク公子フリードリヒ・ヨシアス]]の軍の先陣となり、フランス軍を破ったアルデンホーフェンとネールウィンデンの戦いでは際立った働きを見せた。ベルギーを再度フランスから取り戻した後、1793年3月25日、その地の総督に任じられる。1794年、ランドルシー、トゥルネ、コルトレイクそしてフリュールスの戦いでは、オーストリア軍の指揮の一部を担った。フランスに[[オーストリア領ネーデルラント]]を奪われた後、彼は健康を回復するため軍を退きウィーンへ戻った<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。

1792年、カールが20歳の時にフランスとの戦いに従軍する。[[フリードリヒ・ルートヴィヒ (ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯)|ホーエンローエ]]の指揮下でジャマップの戦いに参加し、デュムーリエ将軍率いるフランス軍と戦った。その後、[[フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト|ザクセン=コーブルク公子フリードリヒ・ヨシアス]]の軍の先陣となり、フランス軍を破ったアルデンホーフェンとネールウィンデンの戦いでは際立った働きを見せた。ベルギーを再度フランスから取り戻した後、1793年3月25日、その地の総督に任じられる。1794年、ランドルシー、トゥルネ、コルトレイクそしてフリュールスの戦いでは、オーストリア軍の指揮の一部を担った。フランスに[[オーストリア領ネーデルラント]]を奪われた後、彼は健康を回復するため軍を退きウィーンへ戻った<ref name="#1"/>。

[[ファイル:Erzherzog Karl in der Schlacht bei Stockach.JPG|220px|サムネイル|右|シュトックアハの戦い]]

[[ファイル:Erzherzog Karl in der Schlacht bei Stockach.JPG|220px|サムネイル|右|シュトックアハの戦い]]

1796年、神聖ローマ帝国陸軍元帥の肩書きのもと、ライン方面軍司令官として戦場に復帰する。そして[[ジャン=バティスト・ジュールダン|ジュールダン]]将軍率いるフランス軍に対しノイマルクト、ダイニング、アンベルクにて連勝を重ね、さらには[[ミュンヘン]]まで進軍して来た[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]将軍をも撤退に追い込んだ。フランス軍は[[ライン川]]の西岸まで押しやられ、かろうじてユナングとケールの間の橋を保持するのみだったが、それさえも翌年冬にはカール大公によって攻撃され奪われる。このように彼の働きによってオーストリア軍のドイツ方面での戦況は優位だったが、イタリアでは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いるフランス軍があらゆる場所で戦勝を重ねており、首都ウィーンにも迫る勢いだった。それを食い止めるためにカール大公が派遣されると、ナポレオンは[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の言葉を模して、「これまで私は指揮官のいない軍隊と戦ってきたが、これからは軍隊のいない指揮官と戦わねばならない」と述べたという。1797年4月18日、カール大公は後の[[カンポ・フォルミオの和約]]の前提となる[[レオーベン条約]]の締結を余儀なくされる。その後しばらくの間、[[ボヘミア王冠領|ボヘミア王国]]の総督を務めたが、[[ラシュタット会議]]が決裂したため再び戦場へ復帰すると、ライン川を渡って進軍してきたジュールダン率いるフランス軍をオスラッハとシュトックアハで破った。しかし同盟国[[ロシア帝国|ロシア]]の指揮官たちとの意見対立は、彼の軍事作戦の成功を妨げた。ロシアのコルサコフ将軍がチューリッヒの戦いで[[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]将軍のフランス軍に敗北すると、カール大公は再度ライン川方面を防衛せねばならなかった<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。

1796年、神聖ローマ帝国陸軍元帥の肩書きのもと、ライン方面軍司令官として戦場に復帰する。そして[[ジャン=バティスト・ジュールダン|ジュールダン]]将軍率いるフランス軍に対しノイマルクト、ダイニング、アンベルクにて連勝を重ね、さらには[[ミュンヘン]]まで進軍して来た[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]将軍をも撤退に追い込んだ。フランス軍は[[ライン川]]の西岸まで押しやられ、かろうじてユナングとケールの間の橋を保持するのみだったが、それさえも翌年冬にはカール大公によって攻撃され奪われる。このように彼の働きによってオーストリア軍のドイツ方面での戦況は優位だったが、イタリアでは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いるフランス軍があらゆる場所で戦勝を重ねており、首都ウィーンにも迫る勢いだった。それを食い止めるためにカール大公が派遣されると、ナポレオンは[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の言葉を模して、「これまで私は指揮官のいない軍隊と戦ってきたが、これからは軍隊のいない指揮官と戦わねばならない」と述べたという。1797年4月18日、カール大公は後の[[カンポ・フォルミオの和約]]の前提となる[[レオーベン条約]]の締結を余儀なくされる。その後しばらくの間、[[ボヘミア王冠領|ボヘミア王国]]の総督を務めたが、[[ラシュタット会議]]が決裂したため再び戦場へ復帰すると、ライン川を渡って進軍してきたジュールダン率いるフランス軍をオスラッハとシュトックアハで破った。しかし同盟国[[ロシア帝国|ロシア]]の指揮官たちとの意見対立は、彼の軍事作戦の成功を妨げた。ロシアのコルサコフ将軍がチューリッヒの戦いで[[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]将軍のフランス軍に敗北すると、カール大公は再度ライン川方面を防衛せねばならなかった<ref name="#1"/>。




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1805年、イタリアでオーストリア軍を率いてマッセナと対峙し、カルディエロの戦い(10月29日 - 30日)で勝利するが大勢は変わらず、ナポレオンは[[ウルム戦役]]で勝利するとウィーンに急進する。トスカーナ大公[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド]]がボヘミアへ早々に撤退し、また[[アウステルリッツの戦い]]でフランス軍に敗北したため、皇帝フランツ2世は[[プレスブルクの和約]](12月25日)の締結を強いられた<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。

1805年、イタリアでオーストリア軍を率いてマッセナと対峙し、カルディエロの戦い(10月29日 - 30日)で勝利するが大勢は変わらず、ナポレオンは[[ウルム戦役]]で勝利するとウィーンに急進する。トスカーナ大公[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド]]がボヘミアへ早々に撤退し、また[[アウステルリッツの戦い]]でフランス軍に敗北したため、皇帝フランツ2世は[[プレスブルクの和約]](12月25日)の締結を強いられた<ref name="#1"/>。



カール大公は全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣に任命され、その大権をもってして、帝国軍の再組織と予備軍ならびに国民軍の強化に取り組む。1808年、スペイン国王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]が退位させられた後、[[カタルーニャ]]と[[アラゴン州|アラゴン]]の両地方はカール大公をスペインと西インドの王座に招請し、移送のためにイギリス軍艦さえも[[トリエステ]]へ派遣されたが、彼は謝意と共にそれを断った<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。

カール大公は全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣に任命され、その大権をもってして、帝国軍の再組織と予備軍ならびに国民軍の強化に取り組む。1808年、スペイン国王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]が退位させられた後、[[カタルーニャ]]と[[アラゴン州|アラゴン]]の両地方はカール大公をスペインと西インドの王座に招請し、移送のためにイギリス軍艦さえも[[トリエステ]]へ派遣されたが、彼は謝意と共にそれを断った<ref name="#1"/>。



[[ファイル:Johann Peter Krafft 003.jpg|160px|サムネイル|右|ワグラムのカール大公]]

[[ファイル:Johann Peter Krafft 003.jpg|160px|サムネイル|右|ワグラムのカール大公]]

1809年の戦役では、カール大公はバイエルンで、弟の[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]と兄のフェルディナント大公はそれぞれイタリアとポーランドで軍を指揮した。カールは[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]に急進したが、ナポレオンがタン、アーベンスベルク、[[ランツフート]]、エックミュール、そしてラティスボンで連勝したため、後退を強いられる。しかし新たに補強を得たことで、ウィーンを征圧していたナポレオンを5月21日から22日にかけての[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で打ち破った。勝利の栄光は長く続かず、7月5日から6日かけての[[ワグラムの戦い]]で敗北し、その後[[ズノイモ]]まで撤退戦を強いられる。[[シェーンブルンの和約]]後の休戦によってこの戦役は終わりを告げた。カール大公は傷を負い、また個人的に屈辱を感じたことから、7月30日に軍隊の指揮とすべての役職を辞すると、[[チェシン]]へと引退し、その後ウィーンへ帰還した<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。

1809年の戦役では、カール大公はバイエルンで、弟の[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]と兄のフェルディナント大公はそれぞれイタリアとポーランドで軍を指揮した。カールは[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]に急進したが、ナポレオンがタン、アーベンスベルク、[[ランツフート]]、エックミュール、そしてラティスボンで連勝したため、後退を強いられる。しかし新たに補強を得たことで、ウィーンを征圧していたナポレオンを5月21日から22日にかけての[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で打ち破った。勝利の栄光は長く続かず、7月5日から6日かけての[[ワグラムの戦い]]で敗北し、その後[[ズノイモ]]まで撤退戦を強いられる。[[シェーンブルンの和約]]後の休戦によってこの戦役は終わりを告げた。カール大公は傷を負い、また個人的に屈辱を感じたことから、7月30日に軍隊の指揮とすべての役職を辞すると、[[チェシン]]へと引退し、その後ウィーンへ帰還した<ref name="#1"/>。



== 退役後==

== 退役後==

[[ファイル:Erzherzog Karl Heldenplatz Wien 4.JPG|150px|サムネイル|右|カール大公の騎馬像(ウィーン)]]

[[ファイル:Erzherzog Karl Heldenplatz Wien 4.JPG|150px|サムネイル|右|カール大公の騎馬像(ウィーン)]]


[[]]退退<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>

[[]]退退<ref name="#1"/>

*''Grundsätze der Strategie, erläutert durch die Darstellung des Feldzugs von 1796 in Deutschland'' (全3巻、1814年刊行)

*''Grundsätze der Strategie, erläutert durch die Darstellung des Feldzugs von 1796 in Deutschland'' (全3巻、1814年刊行)

*''Geschichte des Feldzugs von 1799 in Deutschland und der Schweiz'' (全2巻、1819年刊行)

*''Geschichte des Feldzugs von 1799 in Deutschland und der Schweiz'' (全2巻、1819年刊行)

1847年4月30日、ウィーンにて死去する。死後の1860年に騎馬像がウィーンに建立された<ref>Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308</ref>。

1847年4月30日、ウィーンにて死去する。死後の1860年に騎馬像がウィーンに建立された<ref name="#1"/>。



== 評価 ==

== 評価 ==

カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。また[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]、[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]らと並び、当時を代表する[[軍事学者|軍事思想家]]としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アルフレッド・セイヤー・マハン|マハン]]の海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。

カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。また[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]、[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]らと並び、当時を代表する[[軍事学者|軍事思想家]]としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アルフレッド・セイヤー・マハン|マハン]]の海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。

[[ファイル:Thomas-Lawrence Archduke-Charles-of-Austria.jpg|150px|サムネイル|右|カール大公]]

[[ファイル:Thomas-Lawrence Archduke-Charles-of-Austria.jpg|150px|サムネイル|右|カール大公]]


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これらの古風な原則がもたらす弊害は、1866年の[[普墺戦争]]中の[[ケーニヒグレーツの戦い|ケーニヒグレーツ・ヨーゼフシュタットの戦い]]でオーストリア軍が「戦略拠点」を堅持して、自軍を分割してプロイセン軍に攻撃を仕掛け、結果敗北したことに明示される。この奇妙な作戦はウィーンの中枢にて1859年の戦役のために考案され、同年の「全くもって理解しがたい」モンテベロの戦いでも実行された<ref>Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.936</ref>。

これらの古風な原則がもたらす弊害は、1866年の[[普墺戦争]]中の[[ケーニヒグレーツの戦い|ケーニヒグレーツ・ヨーゼフシュタットの戦い]]でオーストリア軍が「戦略拠点」を堅持して、自軍を分割してプロイセン軍に攻撃を仕掛け、結果敗北したことに明示される。この奇妙な作戦はウィーンの中枢にて1859年の戦役のために考案され、同年の「全くもって理解しがたい」モンテベロの戦いでも実行された<ref name="#3"/>。



カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった<ref>Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.936</ref>。

カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった<ref name="#3"/>。



== 家族 ==

== 家族 ==


2022年6月7日 (火) 15:08時点における版

カール
Karl
テシェン公

在位 1822年 - 1847年

称号 オーストリア大公
出生 1771年9月5日
トスカーナ大公国フィレンツェ
死去 (1847-04-30) 1847年4月30日(75歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
埋葬 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク
家名 ハプスブルク=テシェン家
父親 神聖ローマ皇帝レオポルト2世
母親 マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン
役職 オーストリア領ネーデルラント総督
ドイツ騎士団総長
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen, 177195 - 1847430221




[1]

1793


17922017933251794退[1]

1796退西1797418[1]

18003[1]

18051029 - 30退21225[1]

18084退西[1]

1809退52122756退730退[1]

退


退退[1]

Grundsätze der Strategie, erläutert durch die Darstellung des Feldzugs von 1796 in Deutschland 31814

Geschichte des Feldzugs von 1799 in Deutschland und der Schweiz 21819

18474301860[1]




179618096[2]

18061796[2]退[3]

18661859[3]

[3]

1832

18159252

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g h i Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879).pp.308
  2. ^ a b Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.935
  3. ^ a b c Chisholm, H.(Eds)(1911).pp.936

参考文献

  • Chisholm, H.(Eds)(1911).The Encyclopædia Britannica Eleventh Edition/Charles (Archduke of Austria), Cambridge University Press, Cambridge.pp.935-936
  • Ripley, George and Dana, Charles A. (Eds) (1879). The American Cyclopædia/Charles (Archduke) ,D. Appleton and Company, New York.pp.308-309
先代
テシェン女公マリア・クリスティーナ
テシェン公アルベルト・カジミール
オーストリア領ネーデルラント総督
1793年 - 1794年
次代
フランスによる占領
先代
マリア・クリスティーナ
アルベルト・カジミール
テシェン(チェシン)公
1822年 - 1847年
次代
アルブレヒト大公
先代
マクシミリアン・フランツ大公(叔父)
ドイツ騎士団総長
1801年 - 1804年
次代
アントン・ヴィクトル大公(弟)