「ケネディ大統領暗殺事件」の版間の差分
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{{Expand English|Assassination of John F. Kennedy|date=2023年9月|fa=yes}} |
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{{Infobox 事件・事故 |
{{Infobox 事件・事故 |
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==概要== |
==概要== |
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[[1963年]][[11月22日]]金曜日、現地時間12時30分に[[テキサス州]]を遊説中のジョン・F・ケネディが[[ダラス]]市内をパレード中に銃撃され死亡した。約1時間後に逮捕され犯人とされた[[リー・ハーヴェイ・オズワルド]]は2日後にダラス警察署で[[ジャック・ルビー]]に銃撃されて<ref>{{Citation|和書|title=Lee Harvey Oswald shot by Jack Ruby|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=r6PcVCqg3tg|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref>死亡し、法廷に立つことは |
[[1963年]][[11月22日]]金曜日、現地時間12時30分に[[テキサス州]]を遊説中のジョン・F・ケネディが[[ダラス]]市内をパレード中に銃撃され死亡した。約1時間後に逮捕され犯人とされた[[リー・ハーヴェイ・オズワルド]]は2日後にダラス警察署で[[ジャック・ルビー]]に銃撃されて<ref>{{Citation|和書|title=Lee Harvey Oswald shot by Jack Ruby|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=r6PcVCqg3tg|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref>死亡し、法廷に立つことは無かった。 |
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また、翌年に出された[[ウォーレン委員会]]の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して数々の疑惑と反証になる[[ライフル銃]]の軌道や周囲の状況証拠や証言が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の[[陰謀説]]が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。 |
また、翌年に出された[[ウォーレン委員会]]の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して数々の疑惑と反証になる[[ライフル銃|ライフル銃弾]]の軌道や周囲の状況証拠や証言が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の[[陰謀説]]が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。 |
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== 事件概要 == |
== 事件概要 == |
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* 前回1960年の大統領選挙では、[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]の地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで(ダラスでは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に敗北した)、しかもテキサス州の民主党内では、保守的な[[ジョン・コナリー|コナリー]]知事と、ケネディと親しいヤーボロー上院議員が対立しており、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。 |
* 前回1960年の大統領選挙では、[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]の地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで(ダラスでは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に敗北した)、しかもテキサス州の民主党内では、保守的な[[ジョン・コナリー|コナリー]]知事と、ケネディと親しいヤーボロー上院議員が対立しており、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。 |
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行程は11月21日(木)に[[ホワイトハウス]]を発ち、大統領専用機で[[テキサス州]][[サンアントニオ]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=KCrKPoEU2-U The San Antonio Speech | JFK: The Final Hours] National Geographic |
行程は11月21日(木)に[[ホワイトハウス]]を発ち、[[エアフォースワン|大統領専用機]]で[[テキサス州]][[サンアントニオ]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=KCrKPoEU2-U The San Antonio Speech | JFK: The Final Hours] National Geographic |
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</ref>から[[ヒューストン]]を経て、深夜に[[フォートワース]]に到着し、翌11月22日金曜日の朝に[[フォートワース]]から[[ダラス]]、最後は[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]へ行き、そしてオースティン西方のジョンソン牧場でジョンソン副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。 |
</ref>から[[ヒューストン]]を経て、深夜に[[フォートワース]]に到着し、翌11月22日金曜日の朝に[[フォートワース]]から[[ダラス]]、最後は[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]へ行き、そしてオースティン西方のジョンソン牧場でジョンソン副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。 |
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1963年11月22日金曜日の朝にフォートワースでの朝食会に出席して<ref group="注釈">この時のスピーチがケネディの生涯最後のスピーチとなった。</ref>、終了後大統領専用機でケネディ大統領夫妻はダラスに向かった。現地時間11時40分に[[ダラス・ラブフィールド空港]]に到着した。 |
1963年11月22日金曜日の朝にフォートワースでの朝食会に出席して<ref group="注釈">この時のスピーチがケネディの生涯最後のスピーチとなった。</ref>、終了後大統領専用機でケネディ大統領夫妻はダラスに向かった。現地時間11時40分に[[ダラス・ラブフィールド空港]]に到着した。 |
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11時50分にケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻はラブフィールド空港から、[[フェアチャイルド (航空機メーカー)|フェアチャイルド]][[C-123 (航空機)|C123]]輸送機によりワシントンD.C.から運ばれた1961年式の[[リンカーン・コンチネンタル]]をオープントップに改造したパレード専用の世界に |
11時50分にケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻はラブフィールド空港から、[[フェアチャイルド (航空機メーカー)|フェアチャイルド]][[C-123 (航空機)|C123]]輸送機によりワシントンD.C.から運ばれた1961年式の[[リンカーン・コンチネンタル]]をオープントップに改造したパレード専用の世界に1台しかない大統領専用リムジンに乗車して空港を出発した。 |
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リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ、左側に妻の[[ジャクリーン・ケネディ]]、その前列の右側にテキサス州知事[[ジョン・コナリー]]、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンが乗車した<ref group="注釈">このロイ・ケラーマンが大統領のダラス旅行の警備責任者であった。この2時間後に[[パークランド記念病院]]から大統領の遺体を運び出す際に、地元ダラス警察の検視官アール・ローズがテキサス州法に則り地元での司法解剖を要求したのにもかかわらず、拒否して空港への搬送を強行したのは彼であった。</ref>。 |
リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ、左側に妻の[[ジャクリーン・ケネディ]]、その前列の右側にテキサス州知事[[ジョン・コナリー]]、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンが乗車した<ref group="注釈">このロイ・ケラーマンが大統領のダラス旅行の警備責任者であった。この2時間後に[[パークランド記念病院]]から大統領の遺体を運び出す際に、地元ダラス警察の検視官アール・ローズがテキサス州法に則り地元での司法解剖を要求したのにもかかわらず、拒否して空港への搬送を強行したのは彼であった。</ref>。 |
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犯人が最初の第1発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後にクラッカーかアフターファイアーが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を開き胸に当てて頭を下向きにして苦しい顔になり、ジャクリーン夫人は一瞬何が起こったのか判らず、大統領の顔を覗き込んだ。その前列では撃たれた[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1834 コナリー知事]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1834|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=2135|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=2240|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref>が「[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1834 ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!]」と叫び、その声で運転していたビル・グリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認して前方を見た。その時に彼はブレーキを踏んでおり<ref group="注釈">この時点でリムジンのブレーキランプが点灯していることが撮影されている。後にウォーレン委員会でグリアーは証言しているが、この時に減速したことが、結果的に狙撃者に狙いを定めやすくしたのではないかという後悔に彼は苛まされることになった。またこのことを後で知ったジャクリーン夫人は激怒したという。</ref>、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。<ref group="注釈">ビル・グリアーは大統領が乗った車に同乗した者では、ジャクリーン夫人以外ではただ1人致命傷を負った場面を目撃している。ただ沿道でこの瞬間を目の前(3メートルくらいの距離)で目撃した人間は何名もいる。ザプルーダー・フィルムでも車の左側で4-5名が確認され、その内1人の男性はすぐに芝生に伏せているし、車の右側では子ども連れの若い夫婦が目撃してすぐに芝生の上に横たわっている。この若い夫婦は、現場にいた地元ダラスのテレビ局のディレクターのジェイ・ワトソンがすぐに地元テレビ局WFAA-TVのスタジオに運び、狙撃から15分後にWFAA-TVが定時番組を中断してすぐに速報をスタジオから報道して、この夫婦をスタジオでインタビューして狙撃の瞬間の様子を聞いている。この夫婦は名前をウィリアム(ビル)・ニューマンとゲイル・ニューマン夫妻で、この時はまだ12時50分前後でケネディの生死も分からない状況であった</ref>。 |
犯人が最初の第1発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後にクラッカーかアフターファイアーが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を開き胸に当てて頭を下向きにして苦しい顔になり、ジャクリーン夫人は一瞬何が起こったのか判らず、大統領の顔を覗き込んだ。その前列では撃たれた[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1834 コナリー知事]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1834|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=2135|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=2240|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref>が「[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1834 ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!]」と叫び、その声で運転していたビル・グリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認して前方を見た。その時に彼はブレーキを踏んでおり<ref group="注釈">この時点でリムジンのブレーキランプが点灯していることが撮影されている。後にウォーレン委員会でグリアーは証言しているが、この時に減速したことが、結果的に狙撃者に狙いを定めやすくしたのではないかという後悔に彼は苛まされることになった。またこのことを後で知ったジャクリーン夫人は激怒したという。</ref>、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。<ref group="注釈">ビル・グリアーは大統領が乗った車に同乗した者では、ジャクリーン夫人以外ではただ1人致命傷を負った場面を目撃している。ただ沿道でこの瞬間を目の前(3メートルくらいの距離)で目撃した人間は何名もいる。ザプルーダー・フィルムでも車の左側で4-5名が確認され、その内1人の男性はすぐに芝生に伏せているし、車の右側では子ども連れの若い夫婦が目撃してすぐに芝生の上に横たわっている。この若い夫婦は、現場にいた地元ダラスのテレビ局のディレクターのジェイ・ワトソンがすぐに地元テレビ局WFAA-TVのスタジオに運び、狙撃から15分後にWFAA-TVが定時番組を中断してすぐに速報をスタジオから報道して、この夫婦をスタジオでインタビューして狙撃の瞬間の様子を聞いている。この夫婦は名前をウィリアム(ビル)・ニューマンとゲイル・ニューマン夫妻で、この時はまだ12時50分前後でケネディの生死も分からない状況であった</ref>。 |
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[[ファイル:HowardBrennan.jpg|thumb|犯人が狙撃したとされる教科書倉庫ビル。6階右端の窓(写真の印(A))から撃ったと目撃されている。]] |
[[ファイル:HowardBrennan.jpg|thumb|犯人が狙撃したとされる教科書倉庫ビル。6階右端の窓(写真の印(A))から撃ったと目撃されている。]] |
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ケネディに命中した第2発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。ジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方のトランクに這い出た︵この時、夫人はトランクに飛び散ったケネディの頭部の骨片を手にしており、病院到着後に医師に渡している︶。1発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが夫人が這い出るのとほぼ同時にリンカーン・コンチネンタルに追いつき{{refnest|group=注釈|クリント・ヒルはケネディが致命傷を負う直前にリンカーンに飛び乗ってケネディを守ろうとしたが、車両が加速したため果たせなかった<ref name=":0">{{Cite web|title=日経ビジネス電子版|url=https://business.nikkei.com/atcl/report/15/070300016/050400020/|website=日経ビジネス電子版|accessdate=2020-01-29|publisher=|coauthors=片瀬京子|author=河瀬大作|date=2016-5-10}}</ref>。}}、トランクに飛び乗って夫人を座席に押し戻し、[[パークランド記念病院]]へ向かうよう、大統領専用車の前席にいたケラーマンが運転手に指示した<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=2417|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref>。
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ケネディに命中した第2発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。ジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方のトランクに這い出た︵この時、夫人はトランクに飛び散ったケネディの頭部の骨片を手にしており、病院到着後に医師に渡している︶。1発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが夫人が這い出るのとほぼ同時にリンカーン・コンチネンタルに追いつき{{refnest|group=注釈|クリント・ヒルはケネディが致命傷を負う直前にリンカーンに飛び乗ってケネディを守ろうとしたが、車両が加速したため果たせなかった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=日経ビジネス電子版|url=https://business.nikkei.com/atcl/report/15/070300016/050400020/|website=日経ビジネス電子版|accessdate=2020-01-29|publisher=|coauthors=片瀬京子|author=河瀬大作|date=2016-5-10}}</ref>。}}、トランクに飛び乗って夫人を座席に押し戻し、[[パークランド記念病院]]へ向かうよう、大統領専用車の前席にいたケラーマンが運転手に指示した<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=2417|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref>。
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テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている<ref group="注釈">この広場の名前の由来はジョージ・ディーリーという男の名前から付けられたものだが、このジョージ・ディーリーは1926年に地元の新聞社を買収して新聞経営に乗りだし、1963年当時は息子のテッド・ディーリーが新聞社の社主であった。その新聞社こそ「ダラス・モーニング・ニューズ」紙で、暗殺当日に黒枠つきの反ケネディの広告を掲載した新聞であった。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 178P</ref>。この広場の道路をパレード中の大統領が市民の目前で撃たれてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを多くの市民が見て、エルム通りはパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていった。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。 |
テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている<ref group="注釈">この広場の名前の由来はジョージ・ディーリーという男の名前から付けられたものだが、このジョージ・ディーリーは1926年に地元の新聞社を買収して新聞経営に乗りだし、1963年当時は息子のテッド・ディーリーが新聞社の社主であった。その新聞社こそ「ダラス・モーニング・ニューズ」紙で、暗殺当日に黒枠つきの反ケネディの広告を掲載した新聞であった。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 178P</ref>。この広場の道路をパレード中の大統領が市民の目前で撃たれてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを多くの市民が見て、エルム通りはパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていった。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。 |
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=== ザプルーダーの証言 === |
=== ザプルーダーの証言 === |
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1967年6月26日テレビのインタビューで「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=687 私は弾道の専門家ではありませんが、もし右耳から(グラッシーノールの柵から)発砲があったなら、違う音が聞こえると思います。私は銃声が--方向はわかりませんが--テキサス教科書倉庫から撃ち込まれたのを聞きましたが、どれも同じような音でした。音にまったく違いがないんです。]<ref>{{Citation|和書|title="Was There a Conspiracy to Assassinate President Kennedy?" The Warren Report Part 2 - JFK (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=687|language=en|access-date=2023-01-28}}</ref>」柵からの銃撃があれば、ほとんど彼の耳元をかすめていったはずだが、彼はグラッシーノールは関係ないということに同意する傾向があった。彼のいた場所と柵とは約6メートルの距離である。彼とその秘書マリリンシッツマンは、コンクリートの壁の上に立っており、柵の中を見ることができる位置にいた。 |
1967年6月26日テレビのインタビューで「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=687 私は弾道の専門家ではありませんが、もし右耳から(グラッシーノールの柵から)発砲があったなら、違う音が聞こえると思います。私は銃声が--方向はわかりませんが--テキサス教科書倉庫から撃ち込まれたのを聞きましたが、どれも同じような音でした。音にまったく違いがないんです。]<ref>{{Citation|和書|title="Was There a Conspiracy to Assassinate President Kennedy?" The Warren Report Part 2 - JFK (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=687|language=en|access-date=2023-01-28}}</ref>」柵からの銃撃があれば、ほとんど彼の耳元をかすめていったはずだが、彼はグラッシーノールは関係ないということに同意する傾向があった。彼のいた場所と柵とは約6メートルの距離である。彼とその秘書マリリン・シッツマンは、コンクリートの壁の上に立っており、柵の中を見ることができる位置にいた。 |
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=== マリリン・シッツマンの証言 === |
=== マリリン・シッツマンの証言 === |
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1966年11月29日インタビューで﹁銃撃の音についてですが、最初の音は、まるで爆竹のような音でした。 |
1966年11月29日インタビューで﹁銃撃の音についてですが、最初の音は、まるで爆竹のような音でした。2発目の音も1発目と同じように聞こえました。2発の音に違いはありませんでした。もし仮に、2発目の銃弾が1発目と違う場所から発射されたとしたら、たとえば、右側のもっと近い場所から発射されたとしたら、私の耳にはもっと大きく聞こえたはずですし頭の横で鐘が鳴るように感じたと思いますが、そんなことはありませんでした。だって、私は木の柵の間近に立っていたんですよ。本当にすぐ近くでした。でも2発の音に違いはありませんでした。その日の出来事でもう一つ覚えているのは、黒人のカップルのことです。彼らは、だいたい18歳から21歳くらいの若い男女で、ちょうど私の右側で、木の柵のすぐ真ん前あたりにあるベンチに座って昼食をとっていました。彼らはそこで昼食を取っていたのです。食事が入った袋を持っていました。そしてコーラを飲んでいました。なぜ、私がそのことを覚えていたかと言いますと、最後の銃声がした後、車がトリプルアンダーパスのほうに消えました。そのとき、ガラスが割れる音がしたのです。そして、音の方向に目をやると、その黒人の男の子がコーラのボトルを投げ落として、投げ落とすと同時に後ろの方に向かって走り出しました。もちろん、その行為自体は、特におかしな点はありませんでした。なぜなら、皆、その方向に走っていたんですから。それから私の左手にいた丘の人々もそちらに向かって走り出していました。私の考えでは、ザプルーダ氏はあの子達が投げたコーラの瓶が割れる音を聞いたのではないでしょうか?そのとき、彼はビクッと飛び上がりましたが、私は銃声ではないと分かりましたので飛び上がることはありませんでした。でも、ガラス瓶の割れる音は、銃声よりも大きかったんですもの。この木の柵と、コンクリートの壁あるいは、遊歩道のあたりを見ましたが、先ほどの黒人のカップル以外誰もいませんでした。<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20131127190210/http://www.jfk.org/go/collections/oral-histories/view-oral-history-transcript/1993-011-0021--marilyn-sitzman-oral-history-interview |title=1993.011.0021 – Marilyn Sitzman Oral History Interview |access-date=2023-1-29 |publisher=Sixth Floor Museum at Dealey Plaza}}</ref><ref>{{Cite web |title=McAdams's Kennedy Assassination Home Page Index |url=https://www.jfk-assassination.net/ |website=www.jfk-assassination.net |access-date=2023-01-28}}</ref>﹂と証言している<ref>{{Citation|和書|title=JFK Assassination Marilyn Sitzman No Shots from Knoll|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=whTELtpu6IM|language=En|access-date=2023-02-10}}</ref>。
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=== アルトゲンの証言 === |
=== アルトゲンの証言 === |
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大統領の車の近くで絶好の見晴らしの良い場所にいたAP通信のカメラマン、アルトゲンは「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=732 ケネディ大統領が近づいてきて、ほとんどカメラを目の高さまで持ってきたときに、頭を撃たれたんです。ケネディの頭を吹き飛ばした銃弾が後ろからやってきたことはとても明らか(so obvious)だった。というのも、銃弾により彼は前のめりになったからです。]<ref name=":1">{{Citation|和書|title="Was There a Conspiracy to Assassinate President Kennedy?" The Warren Report Part 2 - JFK (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=732|language=en|access-date=2023-01-29}}</ref>」「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=732 人々がグラッシーノールの丘の上へ走っていったのは奇妙だった。]<ref name=":1" />」と1967年テレビインタビューで証言している。 |
大統領の車の近くで絶好の見晴らしの良い場所にいたAP通信のカメラマン、アルトゲンは「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=732 ケネディ大統領が近づいてきて、ほとんどカメラを目の高さまで持ってきたときに、頭を撃たれたんです。ケネディの頭を吹き飛ばした銃弾が後ろからやってきたことはとても明らか(so obvious)だった。というのも、銃弾により彼は前のめりになったからです。]<ref name=":1">{{Citation|和書|title="Was There a Conspiracy to Assassinate President Kennedy?" The Warren Report Part 2 - JFK (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=732|language=en|access-date=2023-01-29}}</ref>」「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=732 人々がグラッシーノールの丘の上へ走っていったのは奇妙だった。]<ref name=":1" />」と1967年テレビインタビューで証言している。 |
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しかし、着弾と同時に銃弾の飛来方向を感知できるというのは戦場経験のある軍人でも不可能な事であり、ザブルーダー・フィルムで記録された映像を見ても大統領は後方へ激しく突き飛ばされるように動いており、事実と真逆な根拠を理由にした証言であることが分かる。 |
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=== ハーチェル・ジャックスの証言 === |
=== ハーチェル・ジャックスの証言 === |
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=== チャールズ・ブラムの証言 === |
=== チャールズ・ブラムの証言 === |
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﹁[https://www.youtube.com/watch?v=K2dH9aXQbtQ 1発目から3発目までは約7秒。私が警察官に伝えたのは、教科書倉庫かその隣のビルから発射されたと思うと。いずれにせよ、大統領の後ろから銃撃があったのは絶対(Absolutely)です。]<ref>{{Citation|和書|title="ON TRIAL: LEE HARVEY OSWALD" (PART 3) (CHARLES BREHM)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=K2dH9aXQbtQ|language=En|access-date=2023-02-05}}</ref>﹂
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﹁[https://www.youtube.com/watch?v=K2dH9aXQbtQ 1発目から3発目までは約7秒。私が警察官に伝えたのは、教科書倉庫かその隣のビルから発射されたと思うと。いずれにせよ、大統領の後ろから銃撃があったのは絶対(Absolutely)です。]<ref>{{Citation|和書|title="ON TRIAL: LEE HARVEY OSWALD" (PART 3) (CHARLES BREHM)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=K2dH9aXQbtQ|language=En|access-date=2023-02-05}}</ref>﹂
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大統領が撃たれた所から前方にある草の生えた丘の上([[グラシー・ノール]]、grassy knoll)から発砲があったとする複数の証言がある。[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1784 ジーン・ヒル]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1784|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref>(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言し、後に男が銃撃したと述べている。しかし、横で一緒に車列を見ていた[https://www.youtube.com/watch?v=GXkjNWsRmPM メアリー・モーマンは事件直後の保安官事務所のプレスルームでの聞き取り時に彼女が丘からの銃撃を目撃したことに全く言及していなかった、と証言している]<ref>{{Citation|和書|title=Part 3 - JFK Assassination Photograph Taken By Mary Moorman - In Depth Interview|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=GXkjNWsRmPM|language=En|access-date=2023-03-08}}</ref>。また狙撃時にパレードの前方にあったトリプル・アンダーパスの陸橋にいた[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=459 サム・ホランド]<ref>{{Citation|和書|title="Was There a Conspiracy to Assassinate President Kennedy?" The Warren Report Part 2 - JFK (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=459|language=en|access-date=2023-01-28}}</ref><ref group="注釈">本名スターリング・M・ホランド。ユニオン・ターミナル鉄道の管理職で当時陸橋の上の信号を点検していた。</ref>(Sam Holland)は「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=459 アーケードの背後(behind the arcade)の木立からタバコのような煙かスチームが上がった]」と証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。彼らはすぐに柵の裏側を見に行ったが誰もいなかった。トリプル・アンダーパスの陸橋にいた他13名は、ヒューストン通りとエルム通りの交差点方向か、教科書倉庫西側から銃撃音が聞こえたと証言している。この他にダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールでシークレットサービス(当日は配置されていなかった)を名乗る私服の男を見たと証言した{{要出典|date=2023年4月}}。ウォーレン委員会では、この場所で結局物的証拠が全く見つからず、また当時この場所で数人の見物人が立っているので誰にも見つからずにライフル銃を発射できたとは想像できないとして重要視しなかった<ref group="注釈">エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。</ref><ref group="注釈">前述のホランドも、狙撃直後にグラシー・ノールに行き、そこで12~15人くらいの警察官と私服警官がいて空薬莢を探していたと証言している。しかし物的証拠になるものは出てこなかった。</ref>。 |
大統領が撃たれた所から前方にある草の生えた丘の上([[グラシー・ノール]]、grassy knoll)から発砲があったとする複数の証言がある。[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1784 ジーン・ヒル]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1784|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref>(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言し、後に男が銃撃したと述べている。しかし、横で一緒に車列を見ていた[https://www.youtube.com/watch?v=GXkjNWsRmPM メアリー・モーマンは事件直後の保安官事務所のプレスルームでの聞き取り時に彼女が丘からの銃撃を目撃したことに全く言及していなかった、と証言している]<ref>{{Citation|和書|title=Part 3 - JFK Assassination Photograph Taken By Mary Moorman - In Depth Interview|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=GXkjNWsRmPM|language=En|access-date=2023-03-08}}</ref>。また狙撃時にパレードの前方にあったトリプル・アンダーパスの陸橋にいた[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=459 サム・ホランド]<ref>{{Citation|和書|title="Was There a Conspiracy to Assassinate President Kennedy?" The Warren Report Part 2 - JFK (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=459|language=en|access-date=2023-01-28}}</ref><ref group="注釈">本名スターリング・M・ホランド。ユニオン・ターミナル鉄道の管理職で当時陸橋の上の信号を点検していた。</ref>(Sam Holland)は「[https://www.youtube.com/watch?v=M95CQlakbcA&t=459 アーケードの背後(behind the arcade)の木立からタバコのような煙かスチームが上がった]」と証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。彼らはすぐに柵の裏側を見に行ったが誰もいなかった。トリプル・アンダーパスの陸橋にいた他13名は、ヒューストン通りとエルム通りの交差点方向か、教科書倉庫西側から銃撃音が聞こえたと証言している。この他にダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールでシークレットサービス(当日は配置されていなかった)を名乗る私服の男を見たと証言した{{要出典|date=2023年4月}}。ウォーレン委員会では、この場所で結局物的証拠が全く見つからず、また当時この場所で数人の見物人が立っているので誰にも見つからずにライフル銃を発射できたとは想像できないとして重要視しなかった<ref group="注釈">エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。</ref><ref group="注釈">前述のホランドも、狙撃直後にグラシー・ノールに行き、そこで12~15人くらいの警察官と私服警官がいて空薬莢を探していたと証言している。しかし物的証拠になるものは出てこなかった。</ref>。 |
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[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1799 メアリー・モーマン]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1799|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=INTERVIEW WITH MARY MOORMAN ON 11/22/63 (WFAA/ABC)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=YEavxZReo84|language=en|access-date=2023-03-05}}</ref><ref group="注釈">Mary Moorman ジーン・ヒル︵Jean Hill︶の隣に立つ姿が、ザプルーダー・フィルムに記録されている</ref> は、頭部に致命傷を受けた直後︵約0.17秒後︶の大統領と背後のグラシー・ノールを[[ポラロイド]]写真機<ref>Polaroid Highlander Model 80A</ref> で撮影した<ref group="注釈">メアリー・モーマンはFBIなどに聴取を受けたが、ウォーレン委員会には呼ばれなかった。[http://www.aarclibrary.org/publib/jfk/wc/wcvols/wh22/html/WH_Vol22_0434b.htm FBIによるメアリー・モーマンのインタビュー︵1963年11月22日︶]</ref>。その際、暗殺犯︵バッジマン︶とその発砲の瞬間<ref group="注釈">[http://www.jfk-online.com/jfk100badge.html バッジマン]</ref>が撮影されたとする説がある。研究家ゲーリー・マック︵Gary Mack︶は﹁モーマン写真﹂を拡大すると﹁フードをかぶり、緑色のグローブを着用した人物と煙かマズルフラッシュ︵発射炎︶のような像﹂が確認できることを発見した。この説は1988年にEngland's Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー﹁The Men Who Killed Kennedy﹂でも紹介されたが、この像は人間ではないとする説もある<ref group="注釈">清涼飲料のボトルとその反射光とする説などがある。</ref>。またゴードン・アーノルド<ref>[[:en:Gordon Arnold|Gordon Arnold]]</ref> の証言<ref group="注釈">アーノルドはTVドキュメンタリー﹁The Men Who Killed Kennedy﹂に出演している。</ref> やロスコー・ホワイト<ref group="注釈">Roscoe White 遺族によってケネディ暗殺犯とされたが、後に誤りであることが判明した警察官</ref> と結びつける主張もある<ref group="注釈">ロスコー・ホワイトについては、[http://davesjfk.com/ Dave Perry's John F. Kennedy Assassination Pages] Roscoe Whiteの項︵''The Roscoe White Curse?'' ''Who Speaks for Roscoe White?''︶、﹃Texas Monthly﹄1990年10月号の記事 [https://web.archive.org/web/20030131180606/http://www.texasmonthly.com/archive/mandarin/mandarin.1.html I Was Mandarin...] 参照、奥菜秀次﹃捏造の世界史﹄︵祥伝社、2008年︶第三章参照。﹃[[月刊現代]]﹄1991年2月号︵講談社︶にロン・レイトナーによる記事が掲載。[[中日新聞]] 1990年8月7日に記事﹁ケネディ大統領暗殺﹁CIA命令で父が撃った﹂当時2歳の男性が会見﹂。</ref>。いずれにせよこの射撃について分かってることが少なく訓練された兵隊でも難しい射撃であることは間違いないだろう。
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[https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1799 メアリー・モーマン]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8&t=1799|language=en|access-date=2023-01-27}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=INTERVIEW WITH MARY MOORMAN ON 11/22/63 (WFAA/ABC)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=YEavxZReo84|language=en|access-date=2023-03-05}}</ref><ref group="注釈">Mary Moorman ジーン・ヒル︵Jean Hill︶の隣に立つ姿が、ザプルーダー・フィルムに記録されている</ref> は、頭部に致命傷を受けた直後︵約0.17秒後︶の大統領と背後のグラシー・ノールを[[ポラロイド]]写真機<ref>Polaroid Highlander Model 80A</ref> で撮影した<ref group="注釈">メアリー・モーマンはFBIなどに聴取を受けたが、ウォーレン委員会には呼ばれなかった。[http://www.aarclibrary.org/publib/jfk/wc/wcvols/wh22/html/WH_Vol22_0434b.htm FBIによるメアリー・モーマンのインタビュー︵1963年11月22日︶]</ref>。その際、暗殺犯︵バッジマン︶とその発砲の瞬間<ref group="注釈">[http://www.jfk-online.com/jfk100badge.html バッジマン]</ref>が撮影されたとする説がある。研究家ゲーリー・マック︵Gary Mack︶は﹁モーマン写真﹂を拡大すると﹁フードをかぶり、緑色のグローブを着用した人物と煙かマズルフラッシュ︵発射炎︶のような像﹂が確認できることを発見した。この説は1988年にEngland's Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー﹁The Men Who Killed Kennedy﹂でも紹介されたが、この像は人間ではないとする説もある<ref group="注釈">清涼飲料のボトルとその反射光とする説などがある。</ref>。またゴードン・アーノルド<ref>[[:en:Gordon Arnold|Gordon Arnold]]</ref> の証言<ref group="注釈">アーノルドはTVドキュメンタリー﹁The Men Who Killed Kennedy﹂に出演している。</ref> やロスコー・ホワイト<ref group="注釈">Roscoe White 遺族によってケネディ暗殺犯とされたが、後に誤りであることが判明した警察官</ref> と結びつける主張もある<ref group="注釈">ロスコー・ホワイトについては、[http://davesjfk.com/ Dave Perry's John F. Kennedy Assassination Pages] Roscoe Whiteの項︵''The Roscoe White Curse?'' ''Who Speaks for Roscoe White?''︶、﹃Texas Monthly﹄1990年10月号の記事 [https://web.archive.org/web/20030131180606/http://www.texasmonthly.com/archive/mandarin/mandarin.1.html I Was Mandarin...] 参照、奥菜秀次﹃捏造の世界史﹄︵祥伝社、2008年︶第三章参照。﹃[[月刊現代]]﹄1991年2月号︵講談社︶にロン・レイトナーによる記事が掲載。[[中日新聞]] 1990年8月7日に記事﹁ケネディ大統領暗殺﹁CIA命令で父が撃った﹂当時2歳の男性が会見﹂。</ref>。いずれにせよこの射撃について分かっていることが少なく、訓練された兵隊でも難しい射撃であることは間違いないだろう。
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モーマン写真のバッジマンについてもデール・K・マイヤーズ氏によるCG分析が行われており、バッジマンの位置からザプルーダーフィルム番号313のケネディ大統領の頭は、コンクリートの壁によって遮られており、ケネディの頭に命中するような銃弾を発射することはできなかったと結論づけている<ref>{{Cite web |title=SECRETS OF A HOMICIDE: BADGE MAN |url=https://www.jfkfiles.com/jfk/html/badgeman_3.htm |website=www.jfkfiles.com |access-date=2023-01-22}}</ref>。バッジマンを含めそれ以外の二人とされる姿についても、3人の人物は平均的な身長だとすると、フェンスのかなり後ろに位置しなくてはならず、さらにはしごの上に登らなければならないので、見当違いの説であると結論づけている<ref>{{Cite web |title=SECRETS OF A HOMICIDE: BADGE MAN |url=https://www.jfkfiles.com/jfk/html/badgeman_6.htm |website=www.jfkfiles.com |access-date=2023-01-22}}</ref>。 |
モーマン写真のバッジマンについてもデール・K・マイヤーズ氏によるCG分析が行われており、バッジマンの位置からザプルーダーフィルム番号313のケネディ大統領の頭は、コンクリートの壁によって遮られており、ケネディの頭に命中するような銃弾を発射することはできなかったと結論づけている<ref>{{Cite web |title=SECRETS OF A HOMICIDE: BADGE MAN |url=https://www.jfkfiles.com/jfk/html/badgeman_3.htm |website=www.jfkfiles.com |access-date=2023-01-22}}</ref>。バッジマンを含めそれ以外の二人とされる姿についても、3人の人物は平均的な身長だとすると、フェンスのかなり後ろに位置しなくてはならず、さらにはしごの上に登らなければならないので、見当違いの説であると結論づけている<ref>{{Cite web |title=SECRETS OF A HOMICIDE: BADGE MAN |url=https://www.jfkfiles.com/jfk/html/badgeman_6.htm |website=www.jfkfiles.com |access-date=2023-01-22}}</ref>。 |
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ダラス市の北西部にある[[パークランド記念病院]]は、隣りにテキサス大学医学部があって、病院はその付属病院であり、医師たちは全てテキサス大学の教授ないし助教授であった。また、当時この病院は、1日に300件<ref group="注釈">ネリン・E・ガン著﹃ダラスの紅いバラ﹄では病院の平均急患は1日273件としている。112P参照</ref> の急患を取り扱うことができる、全米でも屈指の設備を擁していた<ref>﹁ケネディ大統領暗殺事件﹂仲 晃著 43P</ref>。そこへ瀕死のケネディ大統領らを乗せたリムジンがパトカーや白バイの先導で慌ただしく病院に到着したのは、12時37分頃<ref group="注釈">ドキュメンタリー﹃JFK アメリカを変えた三発の銃弾﹄では12時37分だが、ウォーレン報告書では12時35分と掲載されている。クリント・ヒルがこれより50年後に書いた﹁ミセスケネディ﹂によると12時34分になっている。また﹁ケネディ暗殺50年目の真実﹂ではパークランド記念病院に直前の緊急連絡が入ったのは12時33分であった。ちなみに撃たれたディーリープラザからパークランド記念病院まで6.5キロメートル︵4マイル余り︶の距離である。</ref> で、この時に後ろの車から駆け付けたパワーズ補佐官は、ジャクリーン夫人が大統領の頭を胸の中に隠すようにうずくまる姿を見て﹁Oh My God︵おお神よ︶﹂と呻き、ジャクリーンは﹁Dave, He is dead︵デーブ、彼は死んでいるわ︶﹂と語って、大統領の顔を誰にも見せようとはしなかった。
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ダラス市の北西部にある[[パークランド記念病院]]は、隣りにテキサス大学医学部があって、病院はその付属病院であり、医師たちは全てテキサス大学の教授ないし助教授であった。また、当時この病院は、1日に300件<ref group="注釈">ネリン・E・ガン著﹃ダラスの紅いバラ﹄では病院の平均急患は1日273件としている。112P参照</ref> の急患を取り扱うことができる、全米でも屈指の設備を擁していた<ref>﹁ケネディ大統領暗殺事件﹂仲 晃著 43P</ref>。そこへ瀕死のケネディ大統領らを乗せたリムジンがパトカーや白バイの先導で慌ただしく病院に到着したのは、12時37分頃<ref group="注釈">ドキュメンタリー﹃JFK アメリカを変えた三発の銃弾﹄では12時37分だが、ウォーレン報告書では12時35分と掲載されている。クリント・ヒルがこれより50年後に書いた﹁ミセスケネディ﹂によると12時34分になっている。また﹁ケネディ暗殺50年目の真実﹂ではパークランド記念病院に直前の緊急連絡が入ったのは12時33分であった。ちなみに撃たれたディーリープラザからパークランド記念病院まで6.5キロメートル︵4マイル余り︶の距離である。</ref> で、この時に後ろの車から駆け付けたパワーズ補佐官は、ジャクリーン夫人が大統領の頭を胸の中に隠すようにうずくまる姿を見て﹁Oh My God︵おお神よ︶﹂と呻き、ジャクリーンは﹁Dave, He is dead︵デーブ、彼は死んでいるわ︶﹂と語って、大統領の顔を誰にも見せようとはしなかった。
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車のドアに近かったコナリー知事を運び出した後に、大統領を担ぎ出そうとしたが動転したジャクリーンが動かなかったので、クリント・ヒルが自分のスーツを大統領の頭に掛けて他の誰にも見せないようにして、やっと車から大統領の身体を降ろした。そしてケネディ大統領は救急室の第1手術室に運び込まれて、神経外科ウイリアム・クラーク部長<ref group="注釈">ウイリアム・ケンプ・クラーク教授。「ケネディ大統領暗殺事件」(仲晃 著) では最初から室内に入っていたとしているが、「ダラスの紅いバラ」(ネリン・E・ガン著)では彼はこの時に学生に講義をしていて、大統領の治療を開始してから5分後に室内に入ったと記している。</ref>、麻酔科M・T・ジェンキンス主任らが見守る中で外科手術担当のジム・カリコ医師<ref group="注釈">チャールズ・ジェームズ・カリコ。28歳のインターン。この1年前に博士号を取った。なおキャリコと表記する資料もある。</ref> が最初に大統領を診察した。この時12時43分であった<ref>ネリン・E・ガン著『ダラスの紅いバラ』114P参照。</ref>。 |
車のドアに近かったコナリー知事を運び出した後に、大統領を担ぎ出そうとしたが動転したジャクリーンが動かなかったので、クリント・ヒルが自分のスーツを大統領の頭に掛けて他の誰にも見せないようにして、やっと車から大統領の身体を降ろした。そしてケネディ大統領は救急室の第1手術室に運び込まれて、神経外科ウイリアム・クラーク部長<ref group="注釈">ウイリアム・ケンプ・クラーク教授。﹁ケネディ大統領暗殺事件﹂︵仲晃 著︶ では最初から室内に入っていたとしているが、﹁ダラスの紅いバラ﹂︵ネリン・E・ガン著︶では彼はこの時に学生に講義をしていて、大統領の治療を開始してから5分後に室内に入ったと記している。</ref>、麻酔科M・T・ジェンキンス主任らが見守る中で外科手術担当のジム・カリコ医師<ref group="注釈">チャールズ・ジェームズ・カリコ。28歳のインターン。この1年前に博士号を取った。なお、キャリコと表記する資料もある。</ref> が最初に大統領を診察した。この時12時43分であった<ref>ネリン・E・ガン著﹃ダラスの紅いバラ﹄114P参照。</ref>。
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大統領はすでに昏睡状態で呼吸は非常に微弱、心臓の鼓動は聴診器で当てなければ聞こえない。後頭部︵パークランドの医師たちは皆、後頭部と思い込んでいたが、実際は後頭部ではなく右前頭部・側頭部である︶は砕かれて、血がどくどくと流れ、手押し車の上を流れて床を濡らしていた。銃弾がどんな損傷を引き起こしたかは想像出来なかった。すぐに2つの外傷を認めた。1つ目は頸部の基底、2つ目は大きくて脳の繊維質の細片が飛び出している状態で頭蓋の前壁に孔を開けたと考えられた<ref group="注釈">ネリン・E・ガン著﹃ダラスの紅いバラ﹄ではこのように述べているが、これは前から撃たれたと見ていると考えられる。</ref>。カリコ医師はまず以前に大統領が副腎機能低下症にかかっていると新聞記事で読んだことを思い出してハイドロコーチゾンを注射した。
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大統領はすでに昏睡状態で呼吸は非常に微弱、心臓の鼓動は聴診器で当てなければ聞こえない。後頭部︵パークランドの医師たちは皆、後頭部と思い込んでいたが、実際は後頭部ではなく右前頭部・側頭部である︶は砕かれて、血がどくどくと流れ、手押し車の上を流れて床を濡らしていた。銃弾がどんな損傷を引き起こしたかは想像出来なかった。すぐに2つの外傷を認めた。1つ目は頸部の基底、2つ目は大きくて脳の繊維質の細片が飛び出している状態で頭蓋の前壁に孔を開けたと考えられた<ref group="注釈">ネリン・E・ガン著﹃ダラスの紅いバラ﹄ではこのように述べているが、これは前から撃たれたと見ていると考えられる。</ref>。カリコ医師はまず以前に大統領が副腎機能低下症にかかっていると新聞記事で読んだことを思い出してハイドロコーチゾンを注射した。
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CBSテレビとABCテレビも、13時(東部標準時14時)には通常番組を切り替えてスタジオからの報道体制に入った。ABCテレビは夕方のイブニングニュースのアンカーマンであるロン・コーチャンが、レストランで食事中に速報を受けて急遽スタジオに入り、13時08分から報道していた。 |
CBSテレビとABCテレビも、13時(東部標準時14時)には通常番組を切り替えてスタジオからの報道体制に入った。ABCテレビは夕方のイブニングニュースのアンカーマンであるロン・コーチャンが、レストランで食事中に速報を受けて急遽スタジオに入り、13時08分から報道していた。 |
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CBSテレビは昼食会場であった「ダラス・トレードマートセンター」にカメラを配置していたので、そこから当時CBSダラス支局長であった[[ダン・ラザー]]がレポートしていた<ref group="注釈">元AP通信記者であったこのダン・ラザーはこの日、大統領のパレードをデイリー広場で見ていた。そしてすぐにダラス・トレードマートセンターに向かい、昼食会場でマイクを握って13時からの中継を行った。なお彼は |
CBSテレビは昼食会場であった「ダラス・トレードマートセンター」にカメラを配置していたので、そこから当時CBSダラス支局長であった[[ダン・ラザー]]がレポートしていた<ref group="注釈">元AP通信記者であったこのダン・ラザーはこの日、大統領のパレードをデイリー広場で見ていた。そしてすぐにダラス・トレードマートセンターに向かい、昼食会場でマイクを握って13時からの中継を行った。なお、彼は後にニューヨーク本部勤務となり、これより18年後の1981年3月9日に[[ウォルター・クロンカイト]]の後任としてCBSイブニングニュースのアンカーマンに就任し、2005年まで務めている。</ref>。そしてダン・ラザーはジャクリーン夫人付きの警護担当者が語ったケネディ大統領死去の第一報を伝えている。この時はまだ公式な情報ではなかった。ニューヨーク本部にいたウォルター・クロンカイトは「ダラス・トレードマートセンター」からのレポート以外は報道室からずっと喋っていた。 |
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CBSの報道体制が整った時に、これより前にすでにジャクリーン夫人付きの警護担当者がケネディが死亡した模様だと語ったと[[UPI通信]]が打電し、地元ダラスのテレビ局WFAA-TVのジェイ・ワトソン<ref group="注釈">彼は狙撃現場のディーリー・プラザにいた人間で、すぐに目撃したニューマン夫妻をスタジオに運び、8ミリカメラで撮影したザブルーダーもスタジオに運んでインタビューしている。</ref> が12時58分に伝えている<ref group="注釈">このジャックリーン夫人の警護担当者が大統領が死亡したようだと語ったというUPI通信からの速報メモが手元に来た時に、思わず「少しお待ちを‥」と言ってしばらく目で速報文を確認して、心を落ち着かせてからゆっくりと伝えている。これが大統領死去の最初のテレビ報道であった。</ref>。 |
CBSの報道体制が整った時に、これより前にすでにジャクリーン夫人付きの警護担当者がケネディが死亡した模様だと語ったと[[UPI通信]]が打電し、地元ダラスのテレビ局WFAA-TVのジェイ・ワトソン<ref group="注釈">彼は狙撃現場のディーリー・プラザにいた人間で、すぐに目撃したニューマン夫妻をスタジオに運び、8ミリカメラで撮影したザブルーダーもスタジオに運んでインタビューしている。</ref> が12時58分に伝えている<ref group="注釈">このジャックリーン夫人の警護担当者が大統領が死亡したようだと語ったというUPI通信からの速報メモが手元に来た時に、思わず「少しお待ちを‥」と言ってしばらく目で速報文を確認して、心を落ち着かせてからゆっくりと伝えている。これが大統領死去の最初のテレビ報道であった。</ref>。 |
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ケネディ大統領死去の公式発表に、全米は大きな衝撃と深い悲しみに包まれた。 |
ケネディ大統領死去の公式発表に、全米は大きな衝撃と深い悲しみに包まれた。 |
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なおケネディ政権最後の記者会見を行い、大統領死去の発表を行ったマルコム・キルダウ副報道官は、席次でいえば3番目のスポークスマンで、いつもの首席報道官ピエール・サリンジャーは東京での日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機でラスク国務長官らと日本に向かっている時であり(この暗殺事件で途中で急遽引返した)、次席副報道官アンドルー・ハッチャーは首都ワシントンに留守番として残り、普段はあまり記者会見の場で立つことの無い人であった。また、彼が大統領死去の直後にパークランド記念病院内で、発表のタイミングを詰めるためジョンソン副大統領のところへ行った時に、「ミスター…ミスタープレジデント(大…大統領閣下)」と声をかけたことは有名な話である<ref group="注釈">「この時に、こちらを振り向いたジョンソンの顔を私は一生忘れないだろう」とキルダウ副報道官は1ヶ月後のラジオでの会見で語っている。「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 88P</ref>。ここですでに新大統領となったジョンソンと打ち合わせて、ジョンソンがパークランド記念病院を出た直後に記者発表することとなった<ref>「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 89P</ref>。 |
なお、ケネディ政権最後の記者会見を行い、大統領死去の発表を行ったマルコム・キルダウ副報道官は、席次でいえば3番目のスポークスマンで、いつもの首席報道官ピエール・サリンジャーは東京での日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機でラスク国務長官らと日本に向かっている時であり(この暗殺事件で途中で急遽引返した)、次席副報道官アンドルー・ハッチャーは首都ワシントンに留守番として残り、普段はあまり記者会見の場で立つことの無い人であった。また、彼が大統領死去の直後にパークランド記念病院内で、発表のタイミングを詰めるためジョンソン副大統領のところへ行った時に、「ミスター…ミスタープレジデント(大…大統領閣下)」と声をかけたことは有名な話である<ref group="注釈">「この時に、こちらを振り向いたジョンソンの顔を私は一生忘れないだろう」とキルダウ副報道官は1ヶ月後のラジオでの会見で語っている。「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 88P</ref>。ここですでに新大統領となったジョンソンと打ち合わせて、ジョンソンがパークランド記念病院を出た直後に記者発表することとなった<ref>「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 89P</ref>。 |
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=== ケネディ兄弟への通報 === |
=== ケネディ兄弟への通報 === |
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===マフィア壊滅作戦に反発したサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説=== |
===マフィア壊滅作戦に反発したサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説=== |
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「マフィア主犯説」は、かつて[[サム・ジアンカーナ]]らがケネディ本人や父の[[ジョセフ・P・ケネディ|ジョセフ・ケネディ・シニア]]による依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人である[[フランク・シナトラ]]らとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである<ref>ジェイムズ・スパダ著、広瀬順弘訳『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 [[読売新聞社]]刊、[[1992年]]</ref><ref group="注釈">[[ピーター・ローフォード]]はジョン・F・ケネディの妹パトリシアの夫(1954年-1966年)。なお実際に |
「マフィア主犯説」は、かつて[[サム・ジアンカーナ]]らがケネディ本人や父の[[ジョセフ・P・ケネディ|ジョセフ・ケネディ・シニア]]による依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人である[[フランク・シナトラ]]らとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである<ref>ジェイムズ・スパダ著、広瀬順弘訳『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 [[読売新聞社]]刊、[[1992年]]</ref><ref group="注釈">[[ピーター・ローフォード]]はジョン・F・ケネディの妹パトリシアの夫(1954年-1966年)。なお、実際にケネディによる一方的な関係断絶に対しシナトラは激怒し、ジアンカーナや、ルビーやオズワルドとの面識もあったテキサス州を縄張りとするマフィアの[[カルロス・マルセロ]]らは、マフィア壊滅作戦を進めるケネディの暗殺をほのめかすような発言を繰り返していたことが、FBIの盗聴により明らかになっている。</ref>。 |
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しかし、これには反論もある。大統領をいきなり暗殺することで生じる国家安全保障上のリスクを引き起こしたマフィアに対し軍部、諜報組織などから報復措置が全くとられていないという事実から考えて、彼らが事件の主導者であったとは考えにくいという意見である。
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しかし、これには反論もある。大統領をいきなり暗殺することで生じる国家安全保障上のリスクを引き起こしたマフィアに対し軍部、諜報組織などから報復措置が全くとられていないという事実から考えて、彼らが事件の主導者であったとは考えにくいという意見である。
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「[[軍産複合体]]の意を受けた政府主犯説」は、「ケネディの南ベトナムからの[[アメリカ軍]]による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力(といっても大統領を暗殺という手段で交代させられる以上、事実上の影の政府機関ではないかと見る向きも多い)が、CIAなどの諜報機関の有力者に様々なお膳立てをさせた上で大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」とするものである。 |
「[[軍産複合体]]の意を受けた政府主犯説」は、「ケネディの南ベトナムからの[[アメリカ軍]]による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力(といっても大統領を暗殺という手段で交代させられる以上、事実上の影の政府機関ではないかと見る向きも多い)が、CIAなどの諜報機関の有力者に様々なお膳立てをさせた上で大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」とするものである。 |
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しかし、「軍事顧問」という名目でのアメリカ軍の正規軍の派遣や、重火器の貸与を含む南ベトナムへの軍事支援(これはアイゼンハワー時代から始まっていた)を |
しかし、「軍事顧問」という名目でのアメリカ軍の正規軍の派遣や、重火器の貸与を含む南ベトナムへの軍事支援(これはアイゼンハワー時代から始まっていた)を追認という形ではあるが継続していたケネディが、本気でベトナムからの完全撤退を検討していたかを疑問視するものも多く、後の国務長官で歴史学者でもあり、軍産複合体とも懇意な関係だった[[ヘンリー・キッシンジャー]]をはじめとした歴史学者からは「アメリカの支援が無ければ立ち行かないにもかかわらず、アメリカの意に反する行動を取り続けていた[[ゴ・ディン・ディエム]]大統領率いる南ベトナム政府に対する脅しとして、このような撤退検討を発言したに過ぎない」という指摘がある。 |
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だが、その見方に対する疑問として、当時、軍需産業界にとって旨味のある軍事計画を次々と中断し、 |
だが、その見方に対する疑問として、当時、軍需産業界にとって旨味のある軍事計画を次々と中断し、彼らの利益に挑戦してきたケネディが撤退を口にした場合、それはディエムに対する脅しというよりも軍産複合体側に対するベトナムからの撤収勧告と受け止められる可能性も十分高いとの見方もある。 |
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ただし、仮に軍産複合体がこの事件の黒幕ならば、なぜ、多数の証拠や証言者が出てくるような慌しい形で暗殺を決行しなければならなかったのかという疑問があり、その答えとして、暗殺が無ければ衛星放送によるリアルタイムで海外向けにも発信される予定だったケネディの演説内容(後日公表されたものは特別補佐官が準備した原稿に過ぎず、過去の例から見てケネディのオリジナルな内容になっていたと思われる)に注目が集まっており、それが中央銀行制度の廃止、もしくは[[未確認飛行物体|UFO]]問題に関する重大な事実といったような、既存の国際秩序を揺るがすような情報を開示しようとしたものだとまで囁かれる根拠ともなっている。 |
ただし、仮に軍産複合体がこの事件の黒幕ならば、なぜ、多数の証拠や証言者が出てくるような慌しい形で暗殺を決行しなければならなかったのかという疑問があり、その答えとして、暗殺が無ければ衛星放送によるリアルタイムで海外向けにも発信される予定だったケネディの演説内容(後日公表されたものは特別補佐官が準備した原稿に過ぎず、過去の例から見てケネディのオリジナルな内容になっていたと思われる)に注目が集まっており、それが中央銀行制度の廃止、もしくは[[未確認飛行物体|UFO]]問題に関する重大な事実といったような、既存の国際秩序を揺るがすような情報を開示しようとしたものだとまで囁かれる根拠ともなっている。 |
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* 物的証拠、映像、写真から、最低7発の銃弾が放たれていた事が確認できるとする見解がある{{要出典|date=2023年4月}}。最初の銃弾は逸れ、ケネディ大統領の首、背中、右側頭部、コナリー知事の背中、リムジンのフロントグリル(およびフロントガラス)、見物人の足元の縁石。オズワルド単独での犯行は不可能に思える。一方、車内から発見された銃弾は2発分なので、証拠から考えると、残り5発は蒸発しなければならないので、この考えはあり得ないと言える。 |
* 物的証拠、映像、写真から、最低7発の銃弾が放たれていた事が確認できるとする見解がある{{要出典|date=2023年4月}}。最初の銃弾は逸れ、ケネディ大統領の首、背中、右側頭部、コナリー知事の背中、リムジンのフロントグリル(およびフロントガラス)、見物人の足元の縁石。オズワルド単独での犯行は不可能に思える。一方、車内から発見された銃弾は2発分なので、証拠から考えると、残り5発は蒸発しなければならないので、この考えはあり得ないと言える。 |
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*「パレードルート変更の謎」説:当時のダラス市長、アール・カベルの指示で、事件当日に狙撃されやすいルートにパレードコースが変更されたという説。カベルが[[ピッグス湾事件]]で更迭された CIA 副長官のチャールズ・カベルの弟であったことや、歴代大統領は慣例で直線コースをパレードするにもかかわらず、迂回ルートが車の速度を落とさなければならないルートであったことから、この説が提唱された。 |
*「パレードルート変更の謎」説:当時のダラス市長、アール・カベルの指示で、事件当日に狙撃されやすいルートにパレードコースが変更されたという説。カベルが[[ピッグス湾事件]]で更迭された CIA 副長官のチャールズ・カベルの弟であったことや、歴代大統領は慣例で直線コースをパレードするにもかかわらず、迂回ルートが車の速度を落とさなければならないルートであったことから、この説が提唱された。 |
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: しかしながら、この説は多くの記事ですでに否定されている。パレードが迂回ルートに変更になったのは、直進ルートだった場合、その先の高速道路の入口道路の形状の影響でパレード車列が渋滞してしまうことが予測されたためであり、保安上の理由から妥当なルートであった<ref>Gerald L Posner ''Case Closed'' (Random House Value Publishing ,1995)</ref><ref name="noconspiracy">{{ |
: しかしながら、この説は多くの記事ですでに否定されている。パレードが迂回ルートに変更になったのは、直進ルートだった場合、その先の高速道路の入口道路の形状の影響でパレード車列が渋滞してしまうことが予測されたためであり、保安上の理由から妥当なルートであった<ref>Gerald L Posner ''Case Closed'' (Random House Value Publishing ,1995)</ref><ref name="noconspiracy">{{Cite web|和書|title=陰謀説のデマ:「パレード・ルート変更説」|url=https://ameblo.jp/jfktruth/entry-11894022131.html|publisher=ケネディ暗殺 その陰謀説の嘘を暴く、奥菜秀次のブログ|accessdate=14 August 2016}}</ref>。メインストリートからは分離帯があって、物理的に進入できない。交通ルールを無視すれば、180度Uターンを2回すれば、進入できなくはないが、大統領専用車の大型車では切り返しなしでは難しいと考えられる。その際停車することになるのでより危険性が増す。追走しているプレスの乗ったバスには、180度Uターンを2回は不可能である。 |
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* 事件当日のダラスは快晴だったにもかかわらず、ザプルーダー・フィルムに黒いこうもり傘をさした人物が映っている。この人物は通称'''アンブレラマン''' (The umbrella man) と呼ばれ、映画﹃JFK﹄にも登場する。アンブレラマンを暗殺グループの一員とする説もある。なお、自分がアンブレラ・マンであると主張する人物、ルイス・ウイット (Louis Witt) はケネディ暗殺下院特別調査委員会︵1978年︶ において証言をおこなっている。(cf. [[:en:Umbrella_man_(JFK_assassination)|Umbrella man (JFK assassination)]])
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* 事件当日のダラスは快晴だったにもかかわらず、ザプルーダー・フィルムに黒いこうもり傘をさした人物が映っている。この人物は通称'''アンブレラマン''' (The umbrella man) と呼ばれ、映画﹃JFK﹄にも登場する。アンブレラマンを暗殺グループの一員とする説もある。なお、自分がアンブレラ・マンであると主張する人物、ルイス・ウイット (Louis Witt) はケネディ暗殺下院特別調査委員会︵1978年︶ において証言をおこなっている。(cf. [[:en:Umbrella_man_(JFK_assassination)|Umbrella man (JFK assassination)]])
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* 本来なら大統領の近辺にいなければならない[[シークレットサービス]]が後ろへ退くように命令された(大統領狙撃時に車に飛び乗ったクリント・ヒルによると車両間隔は 5 ft≒1.5m。大統領のリムジンには2人のシークレットサービスが同乗していた(ロイ・ケラーマン、ビル・グリアー)。後続車と白バイ警官はリムジンを追い、クリント・ヒルら4人のシークレットサービスは後続車のサイドステップに立っていた)<ref group="注釈">Globe Magazine(タブロイド誌 [http://www.magazine-agent.com/globe-magazine/magazine])は「運転手ビル・グリアーが発砲した」とする記事を掲載した。この「説」は「Majority 12」関係者も主張したことがある([[MJ-12]]、[[:en:Majestic 12|Majestic 12]]参照。参考:[http://www.nazotoki.com/mj12.html][http://www11.atwiki.jp/voodoo65/pages/26.html])。 |
* 本来なら大統領の近辺にいなければならない[[シークレットサービス]]が後ろへ退くように命令された(大統領狙撃時に車に飛び乗ったクリント・ヒルによると車両間隔は 5 ft≒1.5m。大統領のリムジンには2人のシークレットサービスが同乗していた(ロイ・ケラーマン、ビル・グリアー)。後続車と白バイ警官はリムジンを追い、クリント・ヒルら4人のシークレットサービスは後続車のサイドステップに立っていた)<ref group="注釈">Globe Magazine(タブロイド誌 [http://www.magazine-agent.com/globe-magazine/magazine])は「運転手ビル・グリアーが発砲した」とする記事を掲載した。この「説」は「Majority 12」関係者も主張したことがある([[MJ-12]]、[[:en:Majestic 12|Majestic 12]]参照。参考:[http://www.nazotoki.com/mj12.html][http://www11.atwiki.jp/voodoo65/pages/26.html])。 |
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* 発見された銃弾は本物かという話がある。銃弾([[証拠物件399]]、コナリー知事の担架(stretcher)から発見された)は、垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形していた。弾頭部分は損傷していなかった。水平方向に圧縮された変形は特殊であり捏造する事が難しいと言えるし、なぜありえなさそうな形状にわざわざ捏造するのか意味が不明である。専門家の調査の上で、本物と判定され、証拠物件に採用されている。弾丸が水平方向に圧縮されたのは、ケネディの首を出た後、回転し、下向き(あるいは上向き)でコナリーの背中に入って、肋骨に当たって変形したと考えられる。 |
* 発見された銃弾は本物かという話がある。銃弾([[証拠物件399]]、コナリー知事の担架(stretcher)から発見された)は、垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形していた。弾頭部分は損傷していなかった。水平方向に圧縮された変形は特殊であり捏造する事が難しいと言えるし、なぜありえなさそうな形状にわざわざ捏造するのか意味が不明である。専門家の調査の上で、本物と判定され、証拠物件に採用されている。弾丸が水平方向に圧縮されたのは、ケネディの首を出た後、回転し、下向き(あるいは上向き)でコナリーの背中に入って、肋骨に当たって変形したと考えられる。 |
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* 暗殺事件発生当時、閣僚の大半は外遊しており、また、ケネディ死亡の公式発表から、ジョンソンの宣誓式までの数十分間、いわゆる「権力の空白」時間が流れている。もっと正確に言えばケネディが撃たれて即死に近い状態であったことを考えると12時30分から14時38分まで権力の空白が生じたことになる<ref group="注釈">しかしケネディとジョンソンとの間では1961年8月に「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、大統領が意識不明に陥った場合は副大統領が「大統領代行」を宣言することが出来、死亡した場合は即大統領に昇格することになっている。このダラスの場合は突然の事態であったがケネディが死亡した13時の段階ですでにジョンソンは大統領であった。宣誓の有無は関係なくこれはその後も同じである。なお何らかの非常事態で副大統領以下も同時に死亡した場合は、下院議長・上院仮議長・国務長官・財務長官・国防長官・司法長官・・・というように大統領を継承する順番が決められていて、権力の空白を生じないように定められている。『ケネディ暗殺事件 その背景と真実』98〜99P参照 仲晃 著</ref>。 |
* 暗殺事件発生当時、閣僚の大半は外遊しており、また、ケネディ死亡の公式発表から、ジョンソンの宣誓式までの数十分間、いわゆる「権力の空白」時間が流れている。もっと正確に言えばケネディが撃たれて即死に近い状態であったことを考えると12時30分から14時38分まで権力の空白が生じたことになる<ref group="注釈">しかしケネディとジョンソンとの間では1961年8月に「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、大統領が意識不明に陥った場合は副大統領が「大統領代行」を宣言することが出来、死亡した場合は即大統領に昇格することになっている。このダラスの場合は突然の事態であったがケネディが死亡した13時の段階ですでにジョンソンは大統領であった。宣誓の有無は関係なくこれはその後も同じである。なお何らかの非常事態で副大統領以下も同時に死亡した場合は、下院議長・上院仮議長・国務長官・財務長官・国防長官・司法長官・・・というように大統領を継承する順番が決められていて、権力の空白を生じないように定められている。『ケネディ暗殺事件 その背景と真実』98〜99P参照 仲晃 著</ref>。 |
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*[[2013年]] |
*[[2013年]]のドキュメンタリー"Cold Case JFK"では、専門家たちによりケネディ暗殺の状況を再現する実験が行われた。この中では、ケネディの首を貫いた弾丸がコナリーの背中と右手を貫いてもほぼ変形しない状態に保たれること、オズワルドが単独でケネディとコナリーを銃撃することは可能だったことが実験によって立証されたとする<ref group="注釈">﹁ただし、﹃映像に残る暗殺場面では前から撃たれている﹄という事実は説明できていない。﹂という意見があるが、[[ザプルーダー・フィルム]]によっても、前から撃たれていると断定できるものではない。</ref>。ケネディに致命傷を負わせた弾丸は、背後からの銃撃によるものだったことも専門家の調査によって立証されたとしている<ref group="注釈">ケネディの頭蓋骨の'''骨折線'''は前からの銃撃ではなく、背後からの銃撃によるものということを証明したとしている。</ref>。弾丸の変形は、ケネディの骨には当たっておらず、ケネディの首を出てから、回転し、下向け︵あるいは上向き︶の状態で、コナリーの背中に当たったため、コナリーの背中の傷は、縦長の﹁キーホール︵鍵穴︶﹂型になっている。
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== 未公表のドキュメント == |
== 未公表のドキュメント == |
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* クリント・ヒル、リサ・マッカビン(共著) 白須清美(翻訳)『ミセス・ケネディ~私だけが知る大統領夫人の素顔~』原書房 2013年 |
* クリント・ヒル、リサ・マッカビン(共著) 白須清美(翻訳)『ミセス・ケネディ~私だけが知る大統領夫人の素顔~』原書房 2013年 |
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== ケネディ大統領暗殺事件を扱ったドキュメンタリー |
== ケネディ大統領暗殺事件を扱ったドキュメンタリー == |
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=== 映画 === |
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* 『[[ケネディ大統領・稲妻の二年十カ月]]』(1964年、アメリカ) |
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* 『[[JFK/最後の真実]]』(1992年、アメリカ) |
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* 『[[バーチャル JFK 〜ベトナム戦争は回避できたか〜]]』(2008年、アメリカ) |
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* 『[[JFK/新証言 知られざる陰謀【劇場版】]]』(2021年、アメリカ、[[オリヴァー・ストーン]]監督) |
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* 『[[あの日アメリカで何が 映像記録・ケネディ暗殺60年]]』(2023年、イギリス) |
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=== テレビ番組 === |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8 November 22nd and The Warren Report(1964)]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
* [https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8 November 22nd and The Warren Report(1964)]<ref>{{Citation|和書|title=November 22nd and The Warren Report|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=SI8Vp9Zyfp8|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=Q7A7RjYvfqo Was There More Than One Gunman in the JFK Assassination? The Warren Report Compilation (1967)]<ref>{{Citation|和書|title=Was There More Than One Gunman in the JFK Assassination? The Warren Report Compilation (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=Q7A7RjYvfqo|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
* [https://www.youtube.com/watch?v=Q7A7RjYvfqo Was There More Than One Gunman in the JFK Assassination? The Warren Report Compilation (1967)]<ref>{{Citation|和書|title=Was There More Than One Gunman in the JFK Assassination? The Warren Report Compilation (1967)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=Q7A7RjYvfqo|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=AnAIWMAuJwQ "RUBY AND OSWALD" (1978)]<ref>{{Citation|和書|title="RUBY AND OSWALD" (1978)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=AnAIWMAuJwQ|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref><ref>{{Citation|和書|title="Ruby & Oswald" (1978) Dramatic, Excellent JFK Assassination Movie|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=KUlkKQsG9eI|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
* [https://www.youtube.com/watch?v=AnAIWMAuJwQ "RUBY AND OSWALD" (1978)]<ref>{{Citation|和書|title="RUBY AND OSWALD" (1978)|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=AnAIWMAuJwQ|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref><ref>{{Citation|和書|title="Ruby & Oswald" (1978) Dramatic, Excellent JFK Assassination Movie|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=KUlkKQsG9eI|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
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* |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=PYI4PqtIyE0 Who Was Lee Harvey Oswald? (full documentary) | FRONTLINE(1993)]<ref>{{Citation|和書|title=Who Was Lee Harvey Oswald? (full documentary) {{!}} FRONTLINE|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=PYI4PqtIyE0|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
* [https://www.youtube.com/watch?v=PYI4PqtIyE0 Who Was Lee Harvey Oswald? (full documentary) | FRONTLINE(1993)]<ref>{{Citation|和書|title=Who Was Lee Harvey Oswald? (full documentary) {{!}} FRONTLINE|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=PYI4PqtIyE0|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=8AlKUJHXYxQ The Kennedy Assassination: Beyond Conspiracy by Dale Myers, paid by ABC(2003)]<ref>{{Citation|和書|title=The Kennedy Assassination: Beyond Conspiracy by Dale Myers, paid by ABC|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=8AlKUJHXYxQ|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
* [https://www.youtube.com/watch?v=8AlKUJHXYxQ The Kennedy Assassination: Beyond Conspiracy by Dale Myers, paid by ABC(2003)]<ref>{{Citation|和書|title=The Kennedy Assassination: Beyond Conspiracy by Dale Myers, paid by ABC|year=|url=https://www.youtube.com/watch?v=8AlKUJHXYxQ|language=En|access-date=2023-01-26}}</ref> |
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* 『JFK暗殺のシナリオ』(''Capturing Oswald''/ディスカバリーチャンネル 2013年) |
* 『JFK暗殺のシナリオ』(''Capturing Oswald''/ディスカバリーチャンネル 2013年) |
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* 『コールド・ケース JFK〜暗殺の真相に迫る〜』(''Cold Case JFK''/NHK BS1 2013年) |
* 『コールド・ケース JFK〜暗殺の真相に迫る〜』(''Cold Case JFK''/NHK BS1 2013年) |
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* 『解禁 |
* 『解禁!JFK暗殺事件の未公開ファイル』(''JFK Declassified: The New Files''/ヒストリーチャンネル 2017年) |
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*『[[NHKスペシャル]] [[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]] File.08 JFK暗殺』(NHK 2020年) |
* 『[[NHKスペシャル]] [[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]] File.08 JFK暗殺』(NHK 2020年) |
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* 『JFK:アメリカを襲ったあの日の出来事』(2023年、アメリカ・イギリス) |
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== ケネディ大統領暗殺事件を扱った作品 == |
== ケネディ大統領暗殺事件を扱った作品 == |
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=== 映画 === |
=== 映画 === |
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* 『[[怒りの用心棒]]』 - ''Il prezzo del potere'' 1969年 |
* 『[[怒りの用心棒]]』 - ''Il prezzo del potere'' (1969年) - [[マカロニ・ウェスタン]]。[[ガーフィールド大統領暗殺事件]]と本事件をモチーフとしている。 |
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* 『[[ダラスの熱い日]]』 - ''Executive Action'' (1973) |
* 『[[ダラスの熱い日]]』 - ''Executive Action'' (1973年) |
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* 『[[愛はエーゲ海に燃ゆ]]』 - ''The Greek Tycoon'' (1978) [[アリストテレス・オナシス]]とケネディ夫妻をモデルとした映画。 |
* 『[[愛はエーゲ海に燃ゆ]]』 - ''The Greek Tycoon'' (1978年) - [[アリストテレス・オナシス]]とケネディ夫妻をモデルとした映画。 |
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* 『[[JFK (映画)|JFK]]』 - ''JFK'' (1991年) |
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⚫ | * 『[[ダラスの長い日/ケネディ大統領暗殺事件]]』- ''Ruby and Oswald'' (1978) TVムービー |
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* 『[[ |
* 『[[ジャック・ルビー (映画)|ジャック・ルビー]]』 - ''Ruby'' (1992年) |
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* 『[[ |
* 『[[ザ・シークレット・サービス]]』- ''In the Line of Fire'' (1993年) |
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* 『[[暗殺調書]]』- ''Fatal Deception: Mrs. Lee Harvey Oswald'' (1993年) - オズワルドの妻[[マリーナ・オズワルド・ポーター]]が主人公。 |
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* 『[[ザ・シークレット・サービス]]』- ''In the Line of Fire'' (1993) |
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* 『''[[:en:Timequest (film)|Timequest]]''』- (2000) 日本未公開。 |
* 『''[[:en:Timequest (film)|Timequest]]''』- (2000年) 日本未公開。 |
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* 『[[ウォッチメン (映画)|ウォッチメン]]』 - ''Watchmen'' (2009) オープニングにてヒーローがケネディを暗殺した描写がある。 |
* 『[[ウォッチメン (映画)|ウォッチメン]]』 - ''Watchmen'' (2009年) - オープニングにてヒーローがケネディを暗殺した描写がある。 |
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* 『[[パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間]]』- ''Parkland'' (2013) [[パークランド記念病院]]が舞台。 |
* 『[[パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間]]』- ''Parkland'' (2013年) - [[パークランド記念病院]]が舞台。 |
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* 『[[X-MEN:フューチャー&パスト|X-MEN:フューチャー&パスト]]』 |
* 『[[X-MEN:フューチャー&パスト|X-MEN:フューチャー&パスト]]』 ''X-Men: Days of Future Past'' (2014年) |
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* 『[[ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命]]』- ''jackie'' (2016) |
* 『[[ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命]]』- ''jackie'' (2016年) |
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* 『[[LBJ ケネディの意志を継いだ男]]』- ''LBJ'' (2016) |
* 『[[LBJ ケネディの意志を継いだ男]]』- ''LBJ'' (2016年) |
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* 『[[アイリッシュマン]]』- ''The Irishman'' (2019) |
* 『[[アイリッシュマン]]』- ''The Irishman'' (2019年) |
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=== ドラマ === |
=== ドラマ === |
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* 『[[大統領を撃った男/ケネディ暗殺の謎・オズワルドの証言]]』- ''The Trial Of Lee Harvey Oswaldo'' (1977年) - TVムービー |
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⚫ | * 『[[ダラスの長い日/ケネディ大統領暗殺事件]]』- ''Ruby and Oswald'' (1978年) - TVムービー |
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⚫ | * 『[[PAN AM/パンナム]]』 - ''Pan Am'' (2011- ) 第12話(2012年1月放送)で「ケネディ大統領狙撃」に関する当時のニュース映像が使用された。 |
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* 『[[バック・トゥ・ザ・JFK]]』- ''Running Against Time'' (1990年) - TVムービー |
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⚫ | * 『[[PAN AM/パンナム]]』 - ''Pan Am'' (2011年 - ) 第12話(2012年1月放送)で「ケネディ大統領狙撃」に関する当時のニュース映像が使用された。 |
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* 『[[ケネディ大統領を殺した男]]』- ''Killing Kennedy'' (2013年) - TVムービー |
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=== 小説 === |
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* 『''[[11.22.63]]''』 - [[スティーヴン・キング]]の2011年出版の小説。 |
* 『''[[11.22.63]]''』 - [[スティーヴン・キング]]の2011年出版の小説。 |
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=== アニメ === |
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⚫ | * 『[[ルパン三世 アルカトラズコネクション]]』 - アルカトラズ島に眠る財宝の正体に本事件が関わっており、[[ロバート・ケネディ暗殺事件]]も登場する。 |
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* [[ゴルゴ13#劇場アニメ|劇場版『ゴルゴ13』]](1983年) - 後継者最有力候補であった実の息子を狙撃で暗殺され、狙撃手を請け負った犯人である主人公の報復殺害を企てる全米屈指の巨大財閥総帥が実は「ケネディ大統領暗殺事件」に深く関わっていた黒幕の一人であり、主人公への復讐の為に法を犯す事も厭わず暴走する有様を米国政府が掣肘・制止しようにも、大統領暗殺事件に関わる(政府関与を裏付ける)機密情報暴露・脅迫を恐れ、手をこまねいてしまう様が物語の重要な伏線として描かれている。 |
* [[ゴルゴ13#劇場アニメ|劇場版『ゴルゴ13』]](1983年) - 後継者最有力候補であった実の息子を狙撃で暗殺され、狙撃手を請け負った犯人である主人公の報復殺害を企てる全米屈指の巨大財閥総帥が実は「ケネディ大統領暗殺事件」に深く関わっていた黒幕の一人であり、主人公への復讐の為に法を犯す事も厭わず暴走する有様を米国政府が掣肘・制止しようにも、大統領暗殺事件に関わる(政府関与を裏付ける)機密情報暴露・脅迫を恐れ、手をこまねいてしまう様が物語の重要な伏線として描かれている。 |
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⚫ | * 『[[ルパン三世 アルカトラズコネクション]]』(2001年) - アルカトラズ島に眠る財宝の正体に本事件が関わっており、[[ロバート・ケネディ暗殺事件]]も登場する。 |
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=== ゲーム === |
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* [http://www.archives.gov/research_room/jfk/ JFK Collection at the National Archives] |
* [http://www.archives.gov/research_room/jfk/ JFK Collection at the National Archives] |
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* [http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/JFKindex.htm Assassination of President Kennedy Encyclopaedia] |
* [http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/JFKindex.htm Assassination of President Kennedy Encyclopaedia] |
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* [https://www.asahi.com/articles/ASRCK644RRCBUJHB00G.html ケネディ暗殺を伝えた衛星中継から60年 白く巨大なアンテナのいま (朝日新聞、2023年11月22日)] ※日米間の衛星回線によるテレビ中継放送の第一報がこの暗殺事件であった。 |
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{{アメリカ合衆国大統領暗殺事件}} |
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ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件 | |
---|---|
暗殺数分前に撮影されたケネディ大統領とジャクリーン・ケネディ夫人。前列はコナリー・テキサス州知事夫妻。 | |
場所 | アメリカ合衆国テキサス州ダラス |
座標 | 北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度座標: 北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度 |
日付 |
1963年11月22日 午後12時30分(中部標準時) |
概要 | 暗殺事件 |
攻撃手段 | ライフル銃による狙撃 |
攻撃側人数 | リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と推定されている |
武器 | カルカノ・モデル38 |
死亡者 | ジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領 |
負傷者 | ジョン・コナリーテキサス州知事 |
犯人 | リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と推定されている |
動機 | 不明 |
関与者 | 不明 |
対処 | 逮捕 |
概要[編集]
1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中のジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され死亡した。約1時間後に逮捕され犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは2日後にダラス警察署でジャック・ルビーに銃撃されて[1]死亡し、法廷に立つことは無かった。 また、翌年に出されたウォーレン委員会の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して数々の疑惑と反証になるライフル銃弾の軌道や周囲の状況証拠や証言が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の陰謀説が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。事件概要[編集]
事件はこの日に遊説のためテキサス州ダラス市に到着したケネディ大統領夫妻がテキサス州のコナリー知事夫妻の案内で、空港からリムジンに同乗して市内をパレードしていた最中に突然3発の銃弾が撃ち込まれたことで起こった。テキサス遊説の背景[編集]
ケネディ大統領が1963年11月下旬のこの時期にテキサス州を遊説することにしたのは、以下の3つの理由からであった。 ●翌1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。 ●その大統領選挙での再選へ向けての選挙活動の開始。南部諸州は以前は﹁民主党の金城湯池﹂と言われる牙城であったが、前年とこの年の夏にアフリカ系住民に対する人種差別について強硬な姿勢を取ったケネディに対する反感が渦巻き、翌年の大統領選挙で共和党から立候補が確実視されていた超保守派のゴールドウォーター[注釈 1] に南部諸州の全てで敗北するとの予想が秋頃から民主党にはあった。そこで南部の中で唯一民主党が勝利する可能性があるのがテキサス州であった。選挙人数も南部で最大の州であり、ジョンソン副大統領の地元でもあり、最初のテコ入れをテキサス州にして、最低でもテキサスだけは確保するつもりであった[注釈 2]。 ●前回1960年の大統領選挙では、ジョンソンの地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで︵ダラスでは共和党に敗北した︶、しかもテキサス州の民主党内では、保守的なコナリー知事と、ケネディと親しいヤーボロー上院議員が対立しており、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。 行程は11月21日(木)にホワイトハウスを発ち、大統領専用機でテキサス州サンアントニオ[2]からヒューストンを経て、深夜にフォートワースに到着し、翌11月22日金曜日の朝にフォートワースからダラス、最後はオースティンへ行き、そしてオースティン西方のジョンソン牧場でジョンソン副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。ダラス到着[編集]
ルーフのないリムジン[編集]
日本の佐々淳行は、ケネディ側がこのリムジンへのバブルトップ︵透明なルーフ︶設置を拒否したことが暗殺成功の要因だとしたが[3]、この当時のバブルトップとは、雨を防ぐためだけのプラスチック製シールドで[4]、防弾ではなかった[5]。11月22日の午前中、ダラスは雨の心配もなく晴れ渡ったので、バブルトップで雨を防ぐ用意をする必要がなかった[6]。市内パレード[編集]
狙撃[編集]
大統領の被弾[編集]
大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている[注釈 13]。2発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。狙撃の瞬間をたまたま8mmフィルムで撮影していたエイブラハム・ザプルーダーのいわゆるザプルーダーフィルムの映像︵後述︶では、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。 ただし、ザプルーダーフィルムのコマ番号313では血しぶきなどの飛沫は前方に飛び散っているとされている一方、大統領夫妻の乗る車の左後方にバイクで張り付いていた警官は、砕かれた脳の欠片と血しぶきを浴びて横転しそうになったと証言している。夫人の証言[編集]
ジャクリーン夫人は後にウォーレン委員会での証言で﹁銃撃は2発しかなかったと記憶している﹂﹁1発目が当たった時、彼がちょっと訝しげな表情を顔に浮かべていて片手が上がっていた﹂﹁2発目で吹き飛ばされた彼の頭蓋骨を押さえようと彼の髪をしっかり押さえて、彼の頭を膝に載せて車内で伏せていた﹂と述べて、後方に這い出したことは﹁そのことは全く覚えていない﹂と説明している[14]。コナリー知事夫妻の証言[編集]
コナリー知事および知事夫人は1967年のインタビューにて﹁すべての銃撃は右後ろから発射された。[15]﹂と証言している。ザプルーダーの証言[編集]
1967年6月26日テレビのインタビューで﹁私は弾道の専門家ではありませんが、もし右耳から︵グラッシーノールの柵から︶発砲があったなら、違う音が聞こえると思います。私は銃声が--方向はわかりませんが--テキサス教科書倉庫から撃ち込まれたのを聞きましたが、どれも同じような音でした。音にまったく違いがないんです。[16]﹂柵からの銃撃があれば、ほとんど彼の耳元をかすめていったはずだが、彼はグラッシーノールは関係ないということに同意する傾向があった。彼のいた場所と柵とは約6メートルの距離である。彼とその秘書マリリン・シッツマンは、コンクリートの壁の上に立っており、柵の中を見ることができる位置にいた。マリリン・シッツマンの証言[編集]
1966年11月29日インタビューで﹁銃撃の音についてですが、最初の音は、まるで爆竹のような音でした。2発目の音も1発目と同じように聞こえました。2発の音に違いはありませんでした。もし仮に、2発目の銃弾が1発目と違う場所から発射されたとしたら、たとえば、右側のもっと近い場所から発射されたとしたら、私の耳にはもっと大きく聞こえたはずですし頭の横で鐘が鳴るように感じたと思いますが、そんなことはありませんでした。だって、私は木の柵の間近に立っていたんですよ。本当にすぐ近くでした。でも2発の音に違いはありませんでした。その日の出来事でもう一つ覚えているのは、黒人のカップルのことです。彼らは、だいたい18歳から21歳くらいの若い男女で、ちょうど私の右側で、木の柵のすぐ真ん前あたりにあるベンチに座って昼食をとっていました。彼らはそこで昼食を取っていたのです。食事が入った袋を持っていました。そしてコーラを飲んでいました。なぜ、私がそのことを覚えていたかと言いますと、最後の銃声がした後、車がトリプルアンダーパスのほうに消えました。そのとき、ガラスが割れる音がしたのです。そして、音の方向に目をやると、その黒人の男の子がコーラのボトルを投げ落として、投げ落とすと同時に後ろの方に向かって走り出しました。もちろん、その行為自体は、特におかしな点はありませんでした。なぜなら、皆、その方向に走っていたんですから。それから私の左手にいた丘の人々もそちらに向かって走り出していました。私の考えでは、ザプルーダ氏はあの子達が投げたコーラの瓶が割れる音を聞いたのではないでしょうか?そのとき、彼はビクッと飛び上がりましたが、私は銃声ではないと分かりましたので飛び上がることはありませんでした。でも、ガラス瓶の割れる音は、銃声よりも大きかったんですもの。この木の柵と、コンクリートの壁あるいは、遊歩道のあたりを見ましたが、先ほどの黒人のカップル以外誰もいませんでした。[17][18]﹂と証言している[19]。アルトゲンの証言[編集]
大統領の車の近くで絶好の見晴らしの良い場所にいたAP通信のカメラマン、アルトゲンは﹁ケネディ大統領が近づいてきて、ほとんどカメラを目の高さまで持ってきたときに、頭を撃たれたんです。ケネディの頭を吹き飛ばした銃弾が後ろからやってきたことはとても明らか︵so obvious︶だった。というのも、銃弾により彼は前のめりになったからです。[20]﹂﹁人々がグラッシーノールの丘の上へ走っていったのは奇妙だった。[20]﹂と1967年テレビインタビューで証言している。ハーチェル・ジャックスの証言[編集]
副大統領車の運転手であった彼は﹁ライフルの銃撃は、私の後ろからやってきた。振り向いて教科書倉庫を見上げた。柵のエリアから撃たれたという意見には同意しません。そこだとは思いません。私が聞いたのは3発の銃撃、3つの衝撃を感じた。[21]﹂と1967年テレビインタビューで証言している。チャールズ・ブラムの証言[編集]
﹁1発目から3発目までは約7秒。私が警察官に伝えたのは、教科書倉庫かその隣のビルから発射されたと思うと。いずれにせよ、大統領の後ろから銃撃があったのは絶対(Absolutely)です。[22]﹂ウィリアム・ニューマンの証言[編集]
パーゴラの北側を指示して﹁銃撃が来た方向はだいたいこの辺りです。[23]﹂、﹁1963年11月22日に﹃大統領が撃たれた直後、立ち上がった。﹄と証言したのは間違いで、両腕をあげた動作だった。﹂と証言している[24]。ビューエル・ウェズリー・フレージャーの証言[編集]
﹁前日、オズワルドから下宿に取り付けるカーテンロッドを取りに行きたいから、ペイン宅まで車に乗せて欲しいと依頼された。翌朝、カーテンロッドが入っているとする紙袋を持ったオズワルドと共に教科書倉庫へ出勤した。[25]﹂だが、オズワルドの下宿には既にカーテンロッドがついておりカーテンもあった。﹁発砲は3発だった。発砲は、パーゴラの裏、北西の角から聞えた。﹂マリオン・ベイカーの証言[編集]
﹁ケネディ大統領のリムジンが左折したあと、3発の銃撃を聞いた。教科書倉庫からだった。[26]﹂ユージン・ブーンの証言[編集]
﹁銃撃後、メイン通りから芝生を超えてエルム通りへ渡り、最終的には、柵とコンクリートの壁を越えて、グラッシーノールの駐車場へ入りました。グラッシーノールにも鉄道エリアにも狙撃者も足跡も焼けた葉っぱなどの痕跡もなかった。[27]﹂記録された暗殺︵ザプルーダー・フィルム︶[編集]
大統領一行がダラスに到着した時に、地元のラジオおよびテレビ局は空港での到着の模様は中継放送したが、市内パレードの中継はしなかった。そして目的地のダラス・トレードセンターの昼食会の会場にテレビカメラを設置して昼食会を中継する予定であった。後にKBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方の車に乗車した各メディアの記者やカメラマン[注釈 14] を除いて、ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディの到着を待っていた。 しかしながら、ディーリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの 8mmフィルムに26.6秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった[注釈 15]。 FBIはザプルーダーが使っていた8ミリカメラが毎秒18.3コマで動いていたことから、暗殺時の大統領のリムジンの速度は時速11.2マイル[28]︵18キロ︶であったと推測した。そしてザプルーダーフィルム全486コマから各コマに番号を確定して、大統領が頭部に致命傷を負った弾を被弾したコマを番号313[注釈 16] と指定した。そして大統領が1発目の銃弾を受けたのが番号210から224の間と確定した。1発目は道路標識に遮られて、被弾した瞬間の大統領の様子は写っていない。大統領の顔が再び写っていたのは番号225で明らかに撃たれている様子であったため、それ以前に撃たれたと見られている。そしてコナリー知事が被弾した反応を示したのは番号240であることが分かった[29]。被弾した反応であって被弾から反応までタイムラグが生じる。被弾した際、後ろから殴られたような衝撃を感じたが、病院に着くまで痛みは一切感じていなかったとコナリー知事はウォーレン委員会で証言している。 これは事件直後にFBIが3発撃ち込まれて、1発目が大統領へ、2発目が知事へ、3発目が再び大統領へ当たったという報告と矛盾することとなった。オズワルドが撃ったとされるライフル銃[注釈 17] で連射した場合、﹁好機をとらえた二発の命中弾﹂の最低限の時間は2.3秒でザプルーダーフィルムで42コマが必要であった[30]。ここに当初考えられた単独の狙撃犯ではなく、別に狙撃犯がいたのではと考えられることとなった。だが、車内から見つかった銃弾は2発分しかなく、FBIの報告は誤りであると結論づけられた。 暗殺を現場で目撃し記録した者は、ザプルーダーだけではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている[31]。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている[注釈 18]。写真︵静止画︶撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、ジェームス・アルトゲンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトゲンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。 JFK暗殺事件の専門家として知られているエミー賞受賞者のデール・K・マイヤーズ(Dale K. Myers)氏による、ザプルーダーフィルム等を使用してケネディ暗殺事件を再現したCG分析により、3発の銃弾による二人の反応が番号157、番号223-224、番号313と特定されている[32]。3発の発砲にかかった時間は、少なくとも約8.5秒と算定できるが、これには銃撃音が二人まで届くのにかかった時間とそれを聞いて反応するのにかかる時間は含まれていない。223-224フレームでの二人の位置関係とその後の動きが、テキサス教科書倉庫の6階窓の狙撃手の巣と呼ばれる場所から発射された1発の弾丸が2人を襲ったという説を裏付けている[33]。グラッシーノールから発射された弾丸が大統領の頭蓋骨の右前を直撃し、右後方から出たという仮説は無効であると結論づけている[34]。すべてのフィルム映像を分析することで下院暗殺特別委員会における4発の銃声音とされるものの存在を否定している[35]。沿道の負傷者[編集]
暗殺を目撃した市民の1人であるジェームズ・ターグ︵James Tague︶は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。後年の書籍の中には、﹁ただし、これは発射された弾の破片ではなく、弾が近くの橋の支柱に当り、その支柱のコンクリートの破片が飛んできたものであった[36][注釈 19]。﹂と記載があるが間違いである。ウォーレン委員会報告書によれば、頬に当たったのは、道路わきのコンクリートでできた縁石の破片である。当時のニュース映像[37]や2013年のインタビュー[38]などでも確認できる。彼はすぐに地元警察に報告し、午後12時40分頃に無線で連絡した内容が記録され、FBIの専門家がメイン通りの南縁石のマークを科学的に金属分析調査したと、ウォーレン委員会報告書に記載がある[39]。スペクトル分析の結果、縁石の跡は弾丸の鉛芯に由来する可能性があるが、銅がないことから、一度別の場所に当たった破片が飛んできて縁石に当たったと考えられる。狙撃の目撃者[編集]
ティピット巡査の死とオズワルドの逮捕[編集]
パークランド記念病院[編集]
ダラス市の北西部にあるパークランド記念病院は、隣りにテキサス大学医学部があって、病院はその付属病院であり、医師たちは全てテキサス大学の教授ないし助教授であった。また、当時この病院は、1日に300件[注釈 39] の急患を取り扱うことができる、全米でも屈指の設備を擁していた[68]。そこへ瀕死のケネディ大統領らを乗せたリムジンがパトカーや白バイの先導で慌ただしく病院に到着したのは、12時37分頃[注釈 40] で、この時に後ろの車から駆け付けたパワーズ補佐官は、ジャクリーン夫人が大統領の頭を胸の中に隠すようにうずくまる姿を見て﹁Oh My God︵おお神よ︶﹂と呻き、ジャクリーンは﹁Dave, He is dead︵デーブ、彼は死んでいるわ︶﹂と語って、大統領の顔を誰にも見せようとはしなかった。 車のドアに近かったコナリー知事を運び出した後に、大統領を担ぎ出そうとしたが動転したジャクリーンが動かなかったので、クリント・ヒルが自分のスーツを大統領の頭に掛けて他の誰にも見せないようにして、やっと車から大統領の身体を降ろした。そしてケネディ大統領は救急室の第1手術室に運び込まれて、神経外科ウイリアム・クラーク部長[注釈 41]、麻酔科M・T・ジェンキンス主任らが見守る中で外科手術担当のジム・カリコ医師[注釈 42] が最初に大統領を診察した。この時12時43分であった[69]。 大統領はすでに昏睡状態で呼吸は非常に微弱、心臓の鼓動は聴診器で当てなければ聞こえない。後頭部︵パークランドの医師たちは皆、後頭部と思い込んでいたが、実際は後頭部ではなく右前頭部・側頭部である︶は砕かれて、血がどくどくと流れ、手押し車の上を流れて床を濡らしていた。銃弾がどんな損傷を引き起こしたかは想像出来なかった。すぐに2つの外傷を認めた。1つ目は頸部の基底、2つ目は大きくて脳の繊維質の細片が飛び出している状態で頭蓋の前壁に孔を開けたと考えられた[注釈 43]。カリコ医師はまず以前に大統領が副腎機能低下症にかかっていると新聞記事で読んだことを思い出してハイドロコーチゾンを注射した。 そしてジョーンズ医師がカテーテルを挿入するために大統領の左腕に入り口を開けて、カーチス医師が左足[注釈 44] にも同じ処置をして、血液銀行から大統領と同じ血液型のRhマイナス型の血液が届き、すぐに輸血が開始された。その時、カリコ医師が大統領の首の傷のところから泡が出ていることを見つけた。これは肺の中に穴が空いていることを意味して、急ぎマルコム・ペリー医師[注釈 45] が気道を確保するために気管切開を行った[注釈 46][注釈 47]。 その時にのどの内部を喉頭鏡で調べながら彼は喉頭の下の気管に恐るべき傷を見たが、この破損部にもすぐにチューブが差し込まれた。気管の傷はひどいもので、肺の中に血と空気が圧縮していた。そしてピータース医師とチャールズ・バクスター医師が胸の右上部にチューブを挿入した。これは肺から血液と空気を取り除く処置である。人工呼吸はすぐに行われ、大統領の肺に電気ポンプで空気が注入された。もっと早めるため手でポンプを持った。神経外科のクラーク部長が大統領の両眼を見て﹁目が膨張して凝固している﹂と述べた。アキレス腱はほんの少しの反応も示さなかった。この時に心電図は取り付けられていたが微動だにしない状態であった。ペリー医師が心臓マッサージを行ったが、心電図の画面は空しく波がなく横にただ移動するだけであった。クラーク部長は﹁もう手遅れだ。手の施しようがない﹂とペリー医師に語り、大統領の死亡を告げた[注釈 48]。この時12時50分であった[70][注釈 49]。 パークランド記念病院第一外傷室の係員は、後に病院に担ぎ込まれた時にすでにケネディが﹁瀕死﹂状態だったと語った。ある医師は﹁我々には彼の命を救う希望が持てなかった﹂と語った。これは病院に到着したときすでに生存の可能性がなかったことを意味する[71]。大統領が瀕死状態で到着して、死亡宣告、そして司祭が終油の秘蹟を与え終わるまで、わずか23分間の短い時間であった。そして大統領の治療に当たった医師たち[注釈 50] が、銃撃による入口と出口の傷の判定や死因の法医学的な評価を十分くだせるような診断も、検査測定も、写真撮影も、病院では行われなかった[72]。そのため、パークランドの医師たちの間では、頭部の傷が後頭部であると思い込みが生じた。実際には右前頭部・側頭部である。 死亡が確認されてジャクリーン夫人の希望で地元ダラスのカトリック教会のヒューバー司祭とトンプソン神父が病院に呼ばれ、枕元でケネディに病者の塗油︵終油の秘蹟︶を与えた後、医師団の判断で儀式を終えた13時00分を大統領の死亡時刻とすることが決まり、大統領の死亡診断書にはクラーク神経外科部長が署名した。ケネディに終油の秘蹟を行ったヒューバー司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたと後にニューヨーク・タイムズに語った。 後年の書籍で﹁なお、治療に当たったペリー医師は、直後の記者会見で﹃大統領は前方から撃たれたようだ﹄ と語り、後に﹃銃弾がどこからきたか判断に必要な傷を調べていない﹄として取り消している[73]。﹂と記載があるが、これは不正確である。 ペリー医師は当日の記者会見で、一般的には入口より出口の傷が大きくなるので﹁首と頭、2つの傷をみた。一発の弾丸が喉から入って背骨に当たり、上方にそれて頭から出たために大統領の傷を負わせた可能性がある。﹂とあくまでその時点で様々な可能性の一つを述べたに過ぎないことを再度会見内で強調した[74]。1963年11月23日のニューヨークヘラルドトリビューン紙には﹁パークランド病院の外科医で大統領に付き添ったマルコム・ペリー医師︵34歳︶は、2つの傷を見た、と言った。一つは喉仏の下で、もう一つは後頭部である。弾丸が2発入っているかどうかは分からない。首の傷は弾の入口で、もう一方は出口だった可能性があるという。﹂旨の記事が出た。当時、ペリー医師は大統領の首の後ろの傷も後頭部の小さな弾痕の傷も知らなかった。当然医師たちは、ケネディの救命措置を最優先したため、うつぶせにすることは一度もなかった。背中を見ることは一度もなかった。また、頭部の小さな穴は、大統領の頭部を覆う大量の血液によって見えなくなっていた。当日の記者会見と同じく、ウォーレン委員会での証言でも﹁首の傷は入口でも出口でもあり得るし、記者会見時はあくまで可能性の話をしたに過ぎない﹂と一貫した証言を行った[75]。 一方大統領のリムジンに同乗していたコナリー知事[注釈 51] は救急室の第2手術室に運び込まれ、その日の内に2度の手術が行われて、一命を取り止めた[注釈 52]。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した︵同一の弾丸によるものと考えられたが、これには疑問が提示され議論の対象となっている。﹁魔法の銃弾﹂参照︶。その後医師は、コナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷︵傷口から直接肺へ空気が流入していた︶が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったと語った。 パークランド記念病院に大統領が担ぎ込まれた時に、シークレットサービスの2人が急ぎ軽機関銃を持って病院内に入り、手術室まで入って関係者以外の出入りを禁止したが、1人の平服の男が入ってきたので、あわてて胸ぐらを掴んで殴り倒す一幕があった。この殴り倒された男は直後に身分証明書を見せて﹁FBIだ﹂と名乗り、病院から急ぎFBIのフーバー長官に電話で報告した。誰もが興奮して殺気だっていた[76]。ケネディ狙撃の速報と死去報道[編集]
ダラス市内でのパレードで大統領が狙撃されてから数分後には、全米のラジオとテレビで﹁ケネディ大統領が撃たれて重傷を負った﹂との速報が相次いで出された。 大統領の車がパークランド記念病院に向かっている時に、パレードの後ろの車に乗っていたUPI通信の記者メリマン・スミスが﹁ケネディ撃たれる﹂の速報を打電し、12時35分には地元ダラスのラジオ局KBOXが放送中に﹁何か、パレード中に起こったようです﹂と最初にアナウンスしている。 12時36分にはABCがラジオで臨時ニュースで報道し、後に暗殺事件調査委員会委員長となるウォーレン最高裁長官は、12時37分にMBSラジオ[注釈 53] でその第一報を聞いた。 12時38分、CBSのニューヨーク本局にいたウォルター・クロンカイトは、スミスの打電を受けてすぐにテレビで速報を出す決意をしていたが、テレビカメラを動かすのに時間がかかるので、ラジオのスタジオに入り、音声だけで﹁CBS NEWS BULLETIN﹂(CBSニュース速報)をテレビに流した[注釈 54]。この時、ダラス時刻12時40分︵東部標準時13時40分︶でケネディ大統領がパークランド病院に担ぎ込まれた時であった。それは次のレポートであった。 Here is a bulletin from CBS News. In Dallas, Texas, three shots were fired at President Kennedy's motorcade in downtown Dallas. The first reports say that President Kennedy has been seriously wounded by this shooting. ︵CBSから速報です。テキサス州ダラスでケネディ大統領の車列に3発の銃弾が撃ちこまれました。第一報によりますと、ケネディ大統領はこの銃撃で重傷を負ったとのことです。︶ ほぼ同じUPI通信のレポートをNBCテレビは12時45分に最初の速報で放送している。この頃には全米で大きな混乱が巻き起こり、ワシントンD.C.では、12時43分︵東部標準時13時43分︶から電話網が59分間散発的になった。回線はニューヨークを経由させることとなったが、結局つながらなかった。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。ニューヨークでは車のカーラジオに歩行者が集まって来て、刻々とニュースが流れるのを聞き入っていた。 12時53分︵東部標準時13時53分︶には、NBCテレビがニューヨークのスタジオからの報道体制に入ったが、テレビカメラが動かないので、しばらくは固定画面で音声だけのもので、12時57分に画面が3人のアンカーマン[注釈 55] を映し出し、3人が揃って各通信社の打電文とダラスからの電話レポート、ラジオが伝える情報を次々と報道した。 CBSテレビとABCテレビも、13時︵東部標準時14時︶には通常番組を切り替えてスタジオからの報道体制に入った。ABCテレビは夕方のイブニングニュースのアンカーマンであるロン・コーチャンが、レストランで食事中に速報を受けて急遽スタジオに入り、13時08分から報道していた。 CBSテレビは昼食会場であった﹁ダラス・トレードマートセンター﹂にカメラを配置していたので、そこから当時CBSダラス支局長であったダン・ラザーがレポートしていた[注釈 56]。そしてダン・ラザーはジャクリーン夫人付きの警護担当者が語ったケネディ大統領死去の第一報を伝えている。この時はまだ公式な情報ではなかった。ニューヨーク本部にいたウォルター・クロンカイトは﹁ダラス・トレードマートセンター﹂からのレポート以外は報道室からずっと喋っていた。 CBSの報道体制が整った時に、これより前にすでにジャクリーン夫人付きの警護担当者がケネディが死亡した模様だと語ったとUPI通信が打電し、地元ダラスのテレビ局WFAA-TVのジェイ・ワトソン[注釈 57] が12時58分に伝えている[注釈 58]。 そしてケネディ大統領に終油の秘蹟を行った司祭がパークランド病院を出た直後に、取り囲まれた報道陣の質問に答えて大統領の死亡を伝え、これが直接大統領の死去を確認したものであったので、13時30分過ぎにこの情報はすぐにテレビやラジオを駆け巡った。ABCテレビではこの情報が入った13時33分に、大統領死去︵ケネディの顔写真と下に1917〜1963と記されていた︶と伝えた。ただいずれも非公式な情報で、生存説と死亡説が両方飛び交う状況が続いた。NBCテレビは13時35分に、この司祭からの情報とダラス警察の情報から、ダラスのWBAPテレビのチャールズ・マーフィー記者が﹁The President kennedy died﹂と伝えた。 この時とほぼ同時の13時33分、パークランド病院の一室で、今回の大統領一行の随員であったホワイトハウスのマルコム・キルダフ副報道官が報道陣を集めて﹁ケネディ大統領は本日午後1時に死去しました﹂と公式発表を行った。キルダフは顔面蒼白で今にも泣きだしそうな表情で、わずか3分の短いケネディ政権最後の記者会見であった。 死亡した同じ時刻13時︵東部標準時14時︶から大統領狙撃の報道特別番組を放送していたCBSのウォルター・クロンカイトは、それまで死亡説の情報が入っても未確認情報として慎重な姿勢で﹁still alive﹂﹁critical condition﹂と伝えていたのが、13時38分︵東部標準時14時38分︶に報道室に届いたこの公式発表のAP通信至急電を読み、途中メガネをはずして﹁ケネディ大統領は中部標準時の午後1時に亡くなりました﹂と述べたのに続けて、報道室の右上の掛け時計︵この時、午後2時38分を指していた︶を見ながら、﹁東部標準時では午後2時ですので38分前のことです﹂と言って絶句し涙ぐんだ。 From Dallas, Texas, the flash, apparently official: "President Kennedy died at 1 pm. Central Standard Time." 2 o'clock Eastern Standard Time, some 38 minutes ago. ︵テキサス州ダラスから速報です。公式発表によりますと、ケネディ大統領が中部標準時午後1時に亡くなったそうです。東部標準時では午後2時ですので、いまから38分前のことです。︶ ﹁大統領撃たれる﹂の第一報が入ってからその対応で報道室から1人で喋り続け、寒い11月下旬なのにスーツの上着を着る余裕もなくワイシャツ姿で伝え続けたこの時のテレビ映像は、その後﹁ケネディ暗殺﹂の象徴的映像となった。 同じ時刻にNBCテレビでは、パークランド記念病院の電話回線を使っていたが、電話の相手側の声がどうしてもテレビの音声に入らないのでキャスターのフランク・マギーがNBCロバート・マクニール記者の電話報告を一言一句繰り返し復唱して公式発表を伝え[注釈 59]、レポートが終わって受話器を置いた瞬間にショックから涙をこぼした。 ケネディ大統領死去の公式発表に、全米は大きな衝撃と深い悲しみに包まれた。 なお、ケネディ政権最後の記者会見を行い、大統領死去の発表を行ったマルコム・キルダウ副報道官は、席次でいえば3番目のスポークスマンで、いつもの首席報道官ピエール・サリンジャーは東京での日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機でラスク国務長官らと日本に向かっている時であり︵この暗殺事件で途中で急遽引返した︶、次席副報道官アンドルー・ハッチャーは首都ワシントンに留守番として残り、普段はあまり記者会見の場で立つことの無い人であった。また、彼が大統領死去の直後にパークランド記念病院内で、発表のタイミングを詰めるためジョンソン副大統領のところへ行った時に、﹁ミスター…ミスタープレジデント︵大…大統領閣下︶﹂と声をかけたことは有名な話である[注釈 60]。ここですでに新大統領となったジョンソンと打ち合わせて、ジョンソンがパークランド記念病院を出た直後に記者発表することとなった[77]。ケネディ兄弟への通報[編集]
司法長官であった実弟のロバート・ケネディは自宅で、FBIのフーバー長官[注釈 61] からの電話で、狙撃の第一報を知らされた。フーバー長官のもとへ第一報が入ったのは、病院からの報告より早くFBIダラス支局からのもので、長官はすぐにワシントン郊外のヒッコリーヒルのロバートのもとへ電話した。最初に出たエセル夫人からロバートにフーバーからの電話と知った時、それがFBI長官からの初めての電話であったのですぐに重要な話であることを感じたが、フーバーの口調はかなり事務的な雰囲気でそれほど興奮したものでなかった、と後にロバートは苦々しく回想している[78][注釈 62]。その直後にパークランド記念病院に電話して、警護官のクリント・ヒルを呼び出している。この時に﹁クリント、そっちで何があった?﹂﹁重傷とはどういうことだ?どれくらい悪いんだ?﹂と聞いてクリント・ヒルは﹁最悪です﹂と答えている[79]。 ロバート・ケネディはこの直後にジョン・マコーンCIA長官に電話してすぐ来るように要請し、暗殺のショックがさめやらぬ時に来訪したCIA長官に対して、﹁CIAが兄を殺したのか?﹂と詰問し、マコーンは即座に暗殺には無関係だと否定している[80]。2年前の第1次キューバ危機からケネディとCIAの関係は冷え込んでいたのである。この暗殺事件直後に、CIA内部では世界中のCIA支局に打電して暗殺事件に関するどんな些細な情報も含めて情報収集に取りかかっていった。そしてすぐにオズワルドと名乗る男が10月1日にメキシコシティのソ連大使館に電話して申請した旅行ビザについて尋ねていたことを記録したファイルが見つかった。オズワルドが逮捕されたという報道が流れてわずか2分後のことであった[81]。そしてこの日の深夜に興奮状態が続く中で会議が延々6時間続き、﹁オズワルドがメキシコのソ連大使館を訪ねていたことをCIAは前もって知っていた﹂ことを聞かされたマコーン長官は激怒した。そしてCIA内部の事件調査はこの後に混乱と猜疑のために挫折して、今日に至るまで消えない疑念の影を残すことになったのである[82]。 エドワード・ケネディはこの日、上院本会議の議長席にいて、13時42分︵東部標準時・ダラス時刻12時42分︶に通信社からの至急電を持った議会スタッフのリチャード・リーデルより伝えられた。すぐに休会が宣言されてマンスフィールド[注釈 63] 民主党院内総務の提案で議会付きの牧師を呼んで祈りを捧げ﹁…彼の命脈が未だ尽きざらんことを﹂で言葉を結んだ。この日の審議がなぜ中断されたのか議会議事録には何も記録されていない。 ホワイトハウスに大統領の死が伝えられたのは、終油の秘蹟を行った時にロイ・ケラーマンからクリント・ヒルに大統領が亡くなったことが伝えられ、その時にちょうどクリント・ヒルがホワイトハウスの大統領付き警護官ジェリー・ベーンと電話中で、ベーンが﹁どうしたクリント。今ケラーマンは何と言ったんだ?﹂と電話の向こうで聴いていて、クリントが﹁大統領が亡くなりました。ジェリー﹂と伝えたのが最初であった[83]。ほぼ14時︵ダラス時刻13時︶前後であった。ベーンはこの直後に大統領警護官として、6名の部下に命じて国会議事堂に向かわせ、シークレットサービスの面々は下院議長室に馳せ参じた。ジョン・W・マコーマックの警護であった。大統領が死去して副大統領の昇格後に大統領継承の第1位に繰り上がるのは下院議長であった。テキサス州でもリンドン・ジョンソンの長女ルーシーを自宅に隔離し、オースチンでも次女リンダを大学キャンパスで確保した[84]。この二人はこの時点で大統領令嬢であった。ケネディ家の動き[編集]
ワシントンで留守番の当時6歳であった大統領の愛娘キャロラインには乳母のモード・ショーが﹁お父様はパトリック[注釈 64] のお世話をしに行ってしまわれた。﹂と伝えた。ロバート・ケネディはこの後に、空港に向かった。ロバートの妻エセルは沢山の子供たちに彼女自身が知らせるため車で回った[85]。 ハイアニスポートの別荘地では父ジョセフと母ローズが、感謝祭が近づいてきたのでいつもの通りケネディ一族が集まってくることを楽しみにしていた。父ジョセフは2年前に脳梗塞に襲われて半身不随となり、母ローズが看病しながら、昼食後に病身の夫を昼寝に寝かしつけたところで、階下で姪のアン・ガーガンが大きな音量でラジオにかじりついていたので注意すると、アンはスタッフから大統領が撃たれたというニュースがあったと聞いたと答えた。ローズは自室に上がり、行ったり来たりして、またアンの部屋に戻るとニュースが一層深刻さを増し、やがてロバートから電話が掛かってきて﹁もうだめらしい﹂とローズに伝えた。ローズは夫に告げないことにして室内のあらゆるテレビやラジオのプラグを抜いてジョセフにニュースが聞こえないようにした[86]。しばらくして大統領専用機から緊急電話が入り、ジョンソン副大統領夫妻からのお悔やみの電話であった[注釈 65]。 この時に父ジョセフには誰も知らせなかったが、暗殺されたこの日のうちに、エドワード議員と妹ユーニスがハイアニスポートにやって来た。父にジョンの死を告げたのは妹ユーニスで﹁お父さん、事故があったのよ。でもジャックは大丈夫よ。ジャックは事故にあったのよ。ああ お父さん ジャックは死んでしまったわ。ジャックは死んだけど天国にいるわ。ああ神様 お父さん ジャックは大丈夫。そうよね﹂とショックで打ちひしがれた心のままに父に伝えていた[87][注釈 66]。 父ジョセフはずっとテレビの前に座っていた。そして国葬には結局参列出来なかった。 ケネディ家の人間でジョンの死を伝えられなかった人がローズマリー・ケネディを除いてもう1人いた。母ローズの実母メアリーでこの時98歳であった。ローズの厳命で事件を一切伝えないこととした。テレビも見ず新聞も読まない日々の彼女にとって翌年亡くなるまで孫のジョンはずっとアメリカ大統領であった[88]。空港への遺体搬送[編集]
14時前に、遺体をダラスで解剖しようとするダラス警察のアール・ローズ検視官と、首都ワシントンに遺体を一刻も早く搬送しようとするシークレット・サービスのロイ・ケラーマンらとの間で10〜15分間、一悶着があった。大統領が暗殺されてもテキサス州法が適用[注釈 67] されて遺体の解剖はテキサス州で行うと説明しても、シークレット・サービスにとっては何よりも遺体をワシントンに戻すことが優先されると考えていた。結局ローズ検視官[注釈 68] は引き下がった[注釈 69]。そして後に彼は遺体解剖はやはりダラスで行うべきであった、遺体を州外に持ち出したことが陰謀説を生み出していると語っている[89]。そして皮肉にも、ワシントンに戻ってから司法解剖を行ったベセスダ海軍病院の病理医も後に同じ意見を述べている。 14時05分にケネディ大統領の遺体はパークランド記念病院からエアフォース・ワンに搬送された。死去の発表から30分過ぎて全米が重苦しい雰囲気に包まれていた。パークランド記念病院から遺体が搬出された際は白い遺体袋で搬出され、灰色の金属製の棺に収納されたものが、エアフォースワンに搬入された際にはいつの間にか銅色の棺に変わっており、パークランド記念病院から空港まで搬送されている間にどのような形で棺が交換されたのか明らかにされていない。ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途[編集]
司法解剖[編集]
時系列[編集]
6月6日 | ケネディにジョンソンとコナリーがテキサス遊説を提案する |
9月 | テキサス遊説が発表される |
9月25日 | オズワルドがメキシコシティに行く |
10月第3週 | オズワルドがテキサス教科書倉庫に職を得る |
11月19日 | 自動車パレードのコースを発表する |
11月21日 | 大統領一行がテキサス遊説に出発。サンアントニオ、ヒューストンを経てフォートワースに夜に到着する。 |
11月22日 | |
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朝 | 大統領一行がテキサス州フォートワースで商工会議所主催の朝食会に列席。ケネディ最後の演説を行う。そして専用機でフォートワースからダラスに向かう。この日の朝にDallas Morning News紙上にケネディをお尋ね者とする広告が掲載される。 |
11:40 | ケネディ大統領夫妻がダラスのラブ・フィールド空港に到着する |
11:50 | ラブ・フィールド空港を出発して市内へパレードを開始する |
12:15-20 | 昼休みで休憩中のオズワルドがカフェテリアで目撃される |
12:15-16 | 武装した男が教科書倉庫ビルの西側窓と東側窓で目撃される |
12:29 | パレードの車列がディーリー・プラザに進入し、教科書倉庫ビルの前を左折する。 |
12:30 | ケネディが銃撃される |
74-90秒後 | すぐにダラス市警が教科書倉庫ビルを捜索。オズワルドとダラス市警とが最初に遭遇する。 |
12:30-39 | 大通り沿いにある草深い丘の駐車場と鉄道操車場を捜索する |
12:37 | 狙撃された大統領の車がパークランド記念病院に到着。この頃からテレビ・ラジオでニュース速報が放送される |
12:53 | NBCテレビがスタジオからケネデイ大統領重体の速報体制に入る。他のCBS、ABCも13:00からスタジオからのニュースに切り替える。 |
13:00 | パークランド記念病院で二人の神父により終油の秘蹟が行われる |
13:05 | 教科書倉庫ビルの捜索でライフル銃が発見される。 |
13:15 | ティピット巡査がオズワルドとされる人物に撃たれて死去。 |
13:30 | テキサス劇場の案内係の女性から不審な男が入ったと警察に連絡。 |
13:33 | パークランド記念病院の一室でキルダフ副報道官が大統領死去の公式発表を行う。ほぼ同時刻に終油の秘蹟を行った二人の神父が取り囲まれた記者に「大統領は亡くなられた」と語ったと各局が相次いで報道。 |
13:37-38 | 大統領死去の公式発表がテレビ・ラジオで一斉に伝えられる。 |
13:50 | 警官がテキサス劇場内のオズワルドを逮捕。 |
14:05 | ケネディの遺体がパークランド記念病院から運び出されてエアフォース・ワンに向う。 |
14:15 | ケネディの遺体がエアフォース・ワンに搬送される。 |
14:38 | ジョンソンが機内で第36代大統領就任宣誓を行う。 |
17:05 | エアフォース・ワンがワシントンD.C.近くのアンドルーズ空軍基地に到着し、海軍病院に移送する |
18:30 | オズワルドがティピット巡査殺害の罪で告発される |
23:36 | オズワルドがケネディ大統領暗殺の罪で告発される |
11月23日早朝 | 遺体を海軍病院からホワイトハウスに移送する |
11月24日 11:21 |
オズワルドがジャック・ルビーに撃たれる |
13:07 | オズワルドの死亡が発表される |
暗殺事件の反応[編集]
オズワルド殺害とジャック・ルビー[編集]
国葬[編集]
映像外部リンク | |
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ケネディ大統領の国葬(カラー映像) (43分04秒) tapsbuglerによるアップロード動画 |
政府による公式調査[編集]
ケネディ大統領暗殺の翌日11月23日にFBIのフーバー長官からジョンソン新大統領に事件の報告が行われ、オズワルドの単独犯行の可能性が強いことが伝えられたが、11月25日にジョンソンはフーバー長官に改めて大統領暗殺事件の全容についての公式報告を求めた。これはこの時点でFBIからの詳細な公式報告を受けてそのまま国民に公表することで事件の調査を終了するつもりであった。 ところがテキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表し、翌26日に合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表し、そして翌27日には合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。大統領の衝撃的な暗殺、犯人とされた被疑者を警察署内で殺されるという異常な展開、そして動機も背後関係も一切謎のままとされて、事件があったテキサス州は連邦に対する強い州権意識から、そして議会は三権分立の立場から独自に調査に入る構えを示した。 これに対してジョンソンは11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することを決めた。これで上下両院の独自調査は結局延期されて、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出することとなった。そしてこの調査委員会の委員長に起用されたのが当時の連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンであった[106]。 この委員会はウォーレン委員会と呼ばれ、1963年12月5日にスタートして、翌1964年9月24日に調査報告をジョンソン大統領に提出した。この調査報告はウォーレン報告と言われている。委員会の構成メンバーは最高裁判所長官︵ウォーレン︶、上下両院の与野党議員︵リチャード・ラッセル[注釈 96]、ジョン・クーパー[注釈 97]、ヘイル・ボッグズ[注釈 98]、ジェラルド・フォード[注釈 99]︶、前CIA長官︵アレン・ダレス[注釈 100]︶、民間人︵ジョン・J・マックロイ[注釈 101]︶の7名であった。 FBIは捜査を行った最初の機関だった。暗殺のわずか17日後、1963年12月9日にFBIの報告書はウォーレン委員会に提出された。FBIは3発だけが暗殺時に発射されたと報告して、1発目はケネディ大統領に命中し、2発目がコナリー知事に命中、3発目が大統領の頭部に命中し彼に致命傷を与えた。そして3発ともリー・ハーヴェイ・オズワルドが発射したと報告した。FBIは総計で25,000回の面接、約2,300項目と25,400頁にわたる報告書を委員会に提出[107] した。シークレットサービスについては1,550回の面接、約800項目と4,600頁にわたる報告書を委員会に提出[107] している。 委員会はこの後に独自調査として延べ552人の証人喚問を行い︵委員が出席して行う証人尋問は94名︶[注釈 102]、この中には、ジャクリーン夫人、コナリー知事夫妻、オズワルドの母マルガリート、そして妻マリーナも喚問している。やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた[108]。ウォーレン報告[編集]
9か月の調査後、1964年9月27日にウォーレン委員会報告書が公表された。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。委員会の結論の骨子は ●ケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である。 ●オズワルドはまた、ダラス市警のチピット巡査をも殺害した。 ●そのオズワルドはジャック・ルビーに単独で殺害された。 ●この暗殺事件に絡む陰謀は内外を問わず一切発見できなかった。 ●大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射された。 ●大統領に向かって発射された銃弾は合計3発である。1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。あとの1発は命中しなかった[109]。オズワルドの単独犯行[編集]
オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリー[注釈 103] と呼ばれる。 2つの公式調査が、ディーリー・プラザのテキサス教科書倉庫[注釈 104] 従業員リー・ハーヴェイ・オズワルドが暗殺者だったと結論を下した。一つの調査︵ウォーレン委員会︶はオズワルドが単独で行動したと結論を下し[注釈 105]、1976年に別の調査︵下院暗殺調査委員会︶が開始されて2年後に発表された調査結果では﹁2人の銃撃者が大統領に発砲する可能性を排除するものではない﹂と結論付けた。[注釈 106]。3発の銃弾[編集]
委員会は暗殺時に3つの弾丸が発射され、2発の弾丸がケネディ大統領とコナリー知事に命中した。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下した[注釈 107]。 委員会の判断はケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くを貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。1発は車列から外れたと考えられる︵クリント・ヒルは2発目が外れた弾丸であるとしている[12]︶。そして最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となった。委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目していた。ライフル銃は近くに隠されていたことが判明した。ケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。弾丸はほとんど形状を保ったまま[注釈 108] 担架︵stretcher︶[注釈 109] から発見されたとされる。この説はシングル・ブレット・セオリーとして知られるようになった。 銃弾の入口とされるコナリー知事の背部︵右半身︶の鍵穴型の縦長の傷は、出口とされる胸部︵右半身︶の傷より小さかった。銃弾の入口とされる右手首︵甲側︶の傷は出口︵掌側︶よりも大きかった[注釈 110]。この問題について、胸部を貫通した銃弾が回転し、前後逆に手首に侵入したとする﹁回転説︵Tumbling Theory︶﹂がある[110]。1982年のジャーナリストとの私的な会話の中でコナリー知事は﹁︵オズワルドが単独でケネディ大統領を暗殺したという事実は︶絶対にない。一瞬たりとも、ウォーレン委員会の結論を信じた事はない﹂と語っている[要出典]。その後の調査[編集]
1976年に、下院で1960年代のケネディ兄弟とキング牧師らの相次いだ暗殺事件について真相解明のための特別委員会下院暗殺調査委員会が設置されて2年間︵1976年-78年︶の調査が行われた。このケネディ暗殺から13年後の調査によると、暗殺前後の数分間、ダラス警察の白バイ警官のマクレーン︵H・B・McLain︶の無線は﹁送信﹂状態にされ、警察無線の通信指令席でレコーダー︵プラスチックベルト︶に記録されたとされる[注釈 111]。下院暗殺調査委員会は、この口述録音機用録音テープの証拠の研究から、銃声は4発であるとして、狙撃者はオズワルド以外にもう一人いた可能性が高いと結論した。このテープはアメリカ国立公文書記録管理局に保管されているが、証拠能力には議論がある[注釈 112]。下院暗殺調査委員会は音声記録の証拠認定を後に取り消している[注釈 113]。ウォーレン報告の評価[編集]
この報告書が出てから9年後の1973年1月にジョンソン前大統領が世を去ったが、亡くなる前に﹁自分はオズワルドが引き金を引いたことまでは承服できる。だが委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかは確信がない。私のカンだが、オズワルドは失敗に終わったキューバ侵攻作戦への復讐を狙うキューバ人と関連があったのではないか﹂と語っている[注釈 114]。また、1975年4月25日の夕方のCBSイブニングニュースでウォルター・クロンカイトは、ジョンソンがケネディ暗殺がオズワルドの単独犯行だとは一度も考えたことがないとそれよりも6年前の1969年にインタビューで述べていたことを明らかにした[111]。 また、最初にCIAを疑ったロバート・ケネディだが、50年後の2013年1月に息子のロバート・ケネディ・ジュニアがテレビでのインタビューで、父親がウォーレン委員会の答申を全く受け入れていなかったことを明らかにした[112]。陰謀論および仮説[編集]
オズワルドによる単独の犯行であったとする政府の公式説明に納得せず、何らかの陰謀があったと主張するものも多い。2003年の世論調査では、70パーセントの人々がケネディ暗殺は単独犯ではなく複数犯による犯行であったと考えている。実行犯についてもオズワルド以外に狙撃したものがいたとする説もある。証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、大規模な証拠隠滅が行われたと主張するものもいる。リー・ハーヴェイ・オズワルドがダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺され、さらにジャック・ルビーが服役中に病死したのは口封じのためであるとする意見もある。陸井三郎は目撃証言者12人が変死または怪死していると主張している[113][注釈 115]。 今日までに下記のような仮説、陰謀説が提示されている。マフィア壊滅作戦に反発したサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説[編集]
﹁マフィア主犯説﹂は、かつてサム・ジアンカーナらがケネディ本人や父のジョセフ・ケネディ・シニアによる依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人であるフランク・シナトラらとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを﹁裏切り﹂と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、﹁裏切り﹂への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである[114][注釈 116]。 しかし、これには反論もある。大統領をいきなり暗殺することで生じる国家安全保障上のリスクを引き起こしたマフィアに対し軍部、諜報組織などから報復措置が全くとられていないという事実から考えて、彼らが事件の主導者であったとは考えにくいという意見である。 第一、彼らがどれほどケネディを憎んでいたとしても、犯罪組織としての利益のみで核戦争のリスクに関わる事態を引き起こすことは自らをテロ組織として位置づけることとなり、国家安全保障上の脅威としてアメリカのみならず全世界から一斉に弾圧の対象にされてもおかしくないリスクとなるはずであり、マフィアがその問題をどう解決できるのかという疑問が生じてしまうのである。 このため、この事件ではマフィアは実行部隊の中心としては動くことは出来ても、計画と手配を推し進める政治力に欠けており、計画の立案から証拠の揉み消しを含めた論議の沈静化を図れるほどの実力は無く、事件に関与はできても主導する組織とはなりえないとする意見が多い。ピッグス湾事件の失敗を恨む亡命キューバ人主犯説[編集]
ピッグス湾事件の失敗を、﹁当時大統領に就任して間もないケネディが、土壇場でアメリカ正規軍の投入を中止したため﹂と考える者が、亡命キューバ人を中心とした実行部隊の遺族に多く、この失敗によりキューバにおける利権を取り戻すことが永遠にできなくなった亡命キューバ人やマフィアが、実行部隊の遺族らと団結してケネディの暗殺を行ったという説。 これはマフィア主犯説と同様の理由で根拠薄弱と見なされている。そもそも難民集団でしかない彼らには事件後見られたような証拠の揉み消しや政治工作と疑われるようなことを為す力は無く、やろうとすれば、アメリカ政府機関の反発を買い、自分達の政治的立場をさらに弱めてアメリカからも出て行かねばならない状況に陥るはずである。軍産複合体の意を受けた政府主犯説[編集]
﹁軍産複合体の意を受けた政府主犯説﹂は、﹁ケネディの南ベトナムからのアメリカ軍による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が﹃軍産複合体の利益を損ねる﹄と恐れた政府の中の一部勢力︵といっても大統領を暗殺という手段で交代させられる以上、事実上の影の政府機関ではないかと見る向きも多い︶が、CIAなどの諜報機関の有力者に様々なお膳立てをさせた上で大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ﹂とするものである。 しかし、﹁軍事顧問﹂という名目でのアメリカ軍の正規軍の派遣や、重火器の貸与を含む南ベトナムへの軍事支援︵これはアイゼンハワー時代から始まっていた︶を追認という形ではあるが継続していたケネディが、本気でベトナムからの完全撤退を検討していたかを疑問視するものも多く、後の国務長官で歴史学者でもあり、軍産複合体とも懇意な関係だったヘンリー・キッシンジャーをはじめとした歴史学者からは﹁アメリカの支援が無ければ立ち行かないにもかかわらず、アメリカの意に反する行動を取り続けていたゴ・ディン・ディエム大統領率いる南ベトナム政府に対する脅しとして、このような撤退検討を発言したに過ぎない﹂という指摘がある。 だが、その見方に対する疑問として、当時、軍需産業界にとって旨味のある軍事計画を次々と中断し、彼らの利益に挑戦してきたケネディが撤退を口にした場合、それはディエムに対する脅しというよりも軍産複合体側に対するベトナムからの撤収勧告と受け止められる可能性も十分高いとの見方もある。 ただし、仮に軍産複合体がこの事件の黒幕ならば、なぜ、多数の証拠や証言者が出てくるような慌しい形で暗殺を決行しなければならなかったのかという疑問があり、その答えとして、暗殺が無ければ衛星放送によるリアルタイムで海外向けにも発信される予定だったケネディの演説内容︵後日公表されたものは特別補佐官が準備した原稿に過ぎず、過去の例から見てケネディのオリジナルな内容になっていたと思われる︶に注目が集まっており、それが中央銀行制度の廃止、もしくはUFO問題に関する重大な事実といったような、既存の国際秩序を揺るがすような情報を開示しようとしたものだとまで囁かれる根拠ともなっている。その他[編集]
上記の説以外にも、 ●解任されたことを根に持った元CIA長官のアレン・ダレス主犯説[要出典] ●FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァー主犯説[要出典] ●ケネディによる不正選挙により負けたリチャード・ニクソン主犯説[要出典] ●ケネディの愛人として提供したマリリン・モンローを、自殺に見せかけて殺されたことに怒ったジアンカーナの主犯説[要出典] ●宇宙人の存在を明らかにしようとしたケネディを消そうとした﹁影の政府︵ディープ・ステート︶﹂主犯説[要出典] ●コナリー知事を暗殺しようとしたが、間違えてケネディを殺してしまったテキサスマフィア主犯説[要出典] ●モルデハイ・ヴァヌヌが主張する、イスラエルの核兵器開発の実態を知られたくないダヴィド・ベン=グリオン政権が主導して犯行を行ったという説[要出典] など、ウォーレン委員会などで調査の対象になったものから、ほとんど根拠の無い荒唐無稽なものまでがある。クレイ・ショー裁判[編集]
ケネディ暗殺事件が法廷上で検討された唯一の例がクレイ・ショー裁判であった。ニューオリンズのジム・ギャリソン検事は、1967年3月2日、ニューオリンズの実業家クレイ・ショー︵Clay Shaw︶を大統領暗殺に関わる陰謀罪で逮捕した。ギャリソンはクレイ・ショーがCIA経由でケネディ暗殺事件に関わっており、事件はCIA、軍部、国家の関与するクーデターであると主張した。裁判はギャリソンが敗北するが、後に、CIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたこと、クレイ・ショーが実際にCIAのために働いていたことが公的に示された[注釈 117][115]。だが、単なる情報提供協力者に過ぎず、ビジネスマンやジャーナリストなど150万人もいる協力者の一人にすぎない。CIAと親密な関係はなかった。1991年に公開された映画﹃JFK﹄はクレイ・ショー裁判をモデルにした作品である[注釈 118]。米国政府による公式発表の不可解な問題点への疑問を否定する内容[編集]
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その他の指摘された問題点[編集]
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未公表のドキュメント[編集]
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その他の情報[編集]
暗殺の瞬間をザプルーダーよりも間近でフィルム撮影していたと思われる身元不明の女性がおり、研究家により、バブーシュカ・レディーと呼ばれている。他のフィルムや写真には、メアリー・モーマンとジーン・ヒルの右後方で、彼女がフィルム撮影をしている姿がはっきりと映っている。この女性の身許は特定されておらず、フィルムも確認されていない。1970年に、自分がバブーシュカ・レディーであると主張する女性が現れているが、その証言には複数の矛盾点が指摘されている。そもそも、この女性が暗殺事件に何の関係があるのか誰も明らかにしていない。 暗殺当日に撮影された それまで未公開だったカラーフィルム が、テキサス市の Sixth Floor Museum によって新たに2007年2月20日に公開された。フィルムは実際の暗殺の90秒ほど前に、ジョージ・ジェフリーズ (George Jefferys) によって現場から数ブロック離れた地点で撮影されたものである。ロバート・ケネディ暗殺事件[編集]
ケネディ大統領暗殺事件の文献資料[編集]
●﹃アサヒグラフ ケネディ大統領暗殺される 1963年12月6日号﹄ 朝日新聞社 1963年 ●﹃週刊朝日 緊急増刊 ケネディ大統領暗殺 1963年12月10日号﹄ 朝日新聞社 1963年 ●﹃現代の眼﹄1964年1月号︵陸井三郎﹁ケネディ暗殺の背景﹂︶現代評論社 1964年 ●陸井三郎﹃現代のアメリカ﹄ 三一書房 1964年 ●AP通信社(編集)、朝日新聞社︵翻訳︶﹃ダラスの金曜日 ケネディ最後の四日間﹄ 朝日新聞社 1964年 ●トーマス・ブキャナン︵著︶、内山敏︵翻訳︶﹃誰が大統領を殺したか?﹄ 文藝春秋新社 1964年 ●大森実監修﹃ケネディ暗殺の真相 ウォーレン報告﹄ 弘文社 1964年 ●仲晃﹃ケネディ暗殺事件 その背景と真実﹄ 弘文堂 1964年 ●レオ・ソヴァージュ︵著︶、西川一郎︵翻訳︶﹃ケネディ暗殺事件﹄ 上巻・下巻 合同出版 1967、68年 ●ウイリアム・マンチェスター︵著︶、宮川毅︵翻訳︶﹃ある大統領の死﹄ 上・下 恒文社 1967年 ●ネリン・E・ガン︵著︶内山敏 訳﹁ダラスの紅いバラ﹂ 筑摩書房 ﹃現代世界ノンフィクション全集24﹄ 1967年 ●マーク・レーン︵著︶、中野国雄︵翻訳︶﹃ケネディ暗殺の謎 オズワルド弁護人の反証 ﹄ 徳間書店 1967年 ●バートランド・ラッセル﹁ケネディ暗殺事件に疑問を持つ﹂<﹃ラッセル自伝﹄︵理想社,1971年︶所収> ●マーク・レーン︵著︶、ドナルド・フリード︵著︶、井上一夫 (翻訳)﹃ダラスの熱い日 ﹄ 立風書房 1974年︵フィクション︶ ●アメリカ合衆国CIA国内活動調査委員会︵著︶、毎日新聞社外信部︵翻訳︶﹃CIA アメリカ中央情報局の内幕 ロックフェラー委員会報告﹄ 毎日新聞社 1975年 ●ロバート・サム・アンソン︵著︶、和田敏彦︵翻訳︶﹃彼らは大統領を撃った ケネディ暗殺の謀略を追う﹄ 角川書店 1976年 ●バート・R・シュガー︵著︶、長沼芳夫︵翻訳︶﹃暗殺の構図 米国指導者暗殺の系譜﹄ 荒地出版社 1978年 ●落合信彦﹃二〇三九年の真実 ケネディを殺った男たち﹄ 集英社 1979年 ●ジェームズ・マッキンレー︵著︶、和田敏彦︵翻訳︶﹃アメリカ暗殺の歴史 ﹄ 集英社 1979年 ●エドワード・J・エプスタイン︵著︶、高田正純︵翻訳︶﹃アメリカを撃った男 オズワルドの謎 ﹄ 早川書房 1981年 ●ディヴィッド・S・リフトン︵著︶、土田宏(翻訳)﹃ベスト・エヴィデンス ケネディ暗殺の虚実﹄ 上巻・下巻 彩流社 1985年、1986年 ●広瀬隆﹃億万長者はハリウッドを殺す﹄ 下巻 第11章 講談社 1989年 ●コンノケンイチ﹃ケネディ暗殺とUFO﹄ たま出版 1989年 ●土田宏﹃ケネディ兄弟の光と影﹄ 彩流社 1992年 ●ジェイムズ・スパダ(著)、広瀬順弘︵翻訳︶﹃ピーター・ローフォード ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男﹄上・下 読売新聞社 1992年 ●マーク・レーン(著)、飯塚忠雄︵翻訳︶﹃大がかりな嘘 だれがケネディを殺ったのか ﹄ 扶桑社 1992年 ●チャールズ・クレンショー︵著︶、岩瀬孝雄︵翻訳︶﹃JFK謀殺 医師たちの沈黙﹄ 早川書房 1992年 ●文藝春秋︵編集︶﹃JFK暗殺の真実 ケネディ解剖医、28年間の沈黙を破る!﹄ 文藝春秋 1992年 ●クレイグ・ジーベル︵著︶、石川順子︵翻訳︶﹃テキサス・コネクション JFK暗殺 ジョンソンの最も危険な賭け﹄ 竹書房 1992年 ●堀田宗路﹃ジョン・F・ケネディの謎 権力の陰謀とアメリカの悪夢﹄ 日本文芸社 1992年 ●ジム・ギャリソン︵著︶、岩瀬孝雄︵翻訳︶﹃JFK ケネディ暗殺犯を追え﹄ 早川書房 1992年 ●仲晃﹃パクス・アメリカーナの転回 ジャーナリストの見た現代史﹄ 岩波書店 1992年 ●オリバー・ストーン、ザカリー・スクラー︵著︶、中俣真知子、袴塚紀子︵翻訳︶﹃JFK ケネディ暗殺の真相を追って﹄ テンプリント 1993年 ●桧山良昭﹃ケネディを撃った男たち 現代史の謎﹄ 東京書籍 1993年 ●井上一馬﹃ケネディ その実像を求めて﹄第1章、第9章 講談社 1994年 ●ジョン・H・デイヴィス︵著︶、市雄貴︵翻訳︶﹃マフィアとケネディ一族﹄ 朝日新聞出版 1994年 ●松尾弌之﹃JFK 大統領の神話と実像﹄ ちくま書房 1994年 ●仲晃﹃ケネディはなぜ暗殺されたか﹄ 日本放送協会 1995年 ●瀬戸川宗太﹃﹁JFK﹂悪夢の真実 ベトナム戦争とケネディ暗殺のシネマ学﹄ 社会思想社 1995年 ●ロバート・D・モロー︵著︶、河合洋一郎︵翻訳︶﹃ケネディ暗殺 アメリカに殺されたJFK ﹄ 原書房 1996年 ●小池英夫﹃ケネディ暗殺事件見聞録﹄ ラ・テール出版局 1996年 ●﹃週間 マーダーケースブック ケネディ暗殺﹄ デアゴスティーニ 1996年 ●﹃週刊YEARBOOK 1963 昭和38年日録20世紀 ケネディ大統領暗殺!﹄ 講談社 1997年 ●サム&チャック・ジアンカーナ︵著︶、落合信彦︵翻訳︶﹃アメリカを葬った男﹄ 光文社 1997年 ●ジョン・ニューマン︵著︶、浅野輔、池村千秋︵翻訳︶﹃オズワルド ﹁ケネディ暗殺犯﹂と疑惑のCIAファイル﹄ TBSブリタニカ 1997年 ●宮本倫好﹃大統領たちのアメリカ 指導者たちの現代史﹄ 丸善 1997年 ●フリッツ・スプリングマイヤー︵著︶、太田龍︵翻訳︶﹃イルミナティ 悪魔の13血流 世界を収奪支配する巨大名家の素顔﹄第6章 ベストセラーズ 1998年 ●ジョナサン・バンキン、ジョン・ウェイレン︵著︶、石谷尚子︵翻訳︶﹃﹁超陰謀﹂60の真実﹄ 徳間書店 1998年 ●落合信彦﹃決定版 2039年の真実﹄ 集英社 1999年 ●布施泰和﹃ジョン・F・ケネディ暗殺の動機﹄ 近代文芸社 2000年 ●藤本一美︵編︶﹃ケネディとアメリカ政治﹄ EXP 2000年 ●奥菜秀次﹃ケネディ暗殺 隠蔽と陰謀﹄ 鹿砦社 2000年 ●柘植久慶﹃JFKを撃った男 テロリストの眼から暗殺のナゾを解く﹄ 小学館 2000年︵フィクション︶ ●柘植久慶﹃歴史を変えた﹁暗殺﹂の真相 時代を動かした衝撃の事件史﹄第42章 PHP研究所 2003年 ●土田宏﹃秘密工作 ケネディ暗殺 天国からのメッセージ﹄ 彩流社 2003年 ISBN 4-88202-855-7 ●三浦二三男﹃J・F・Kダブルステイツ﹄新風舎 2003年 ●浜田和幸﹃黒いホワイトハウス 今なお消えぬケネディ家の呪い﹄ 祥伝社 2004年 ●ウィリアム・レモン、ビリー・ソル・エステス︵著︶、広田明子︵翻訳︶﹃JFK暗殺40年目の衝撃の証言﹄ 原書房 2004年 ●バー・マクレラン︵著︶、赤根洋子︵翻訳︶﹃ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力﹄ 文藝春秋 2005年 ISBN 4-16-367680-5 ●エドワード・クライン︵著︶、金重紘︵翻訳︶﹃ケネディ家の呪い﹄ 綜合社 2005年 ●渡邉良明﹃J.F.ケネディvs.二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘﹄ 熊本出版文化会館 2006年 ●マイケル・コリンズ・パイパー︵著︶、太田龍︵翻訳︶﹃ケネディとユダヤの秘密戦争﹄ 成甲書房 2006年 ●海野弘﹃陰謀の世界史﹄文春文庫 2006年 ●﹃世界史未解決事件ファイル﹄第二章 PHP研究所 2006年 ●ギャレス・ジェンキンズ(著) 澤田澄江(翻訳)﹁ジョン・F・ケネディ フォトバイオグラフィ﹂原書房 2006年 ●﹃未解決事件の謎と暗号﹄第二章 青春出版社 2007年 ●土田宏﹃ケネディ ﹁神話﹂と実像﹄第七章 中央公論新社 2007年 ●奥菜秀次﹃捏造の世界史﹄第三章 祥伝社 2008年 ●大澤正道﹃暗殺の世界史﹄ 第九章 PHP研究所 2008年 ●ティム・ワイナー︵著︶、藤田博司、山田侑平、佐藤信行︵翻訳︶﹃CIA秘録﹄上 第3部 文藝春秋 2008年 ●ジョン・コールマン︵著︶、太田龍︵翻訳︶﹃新版 300人委員会︵下︶陰謀中枢の正体﹄第14章 成甲書房 2008年 ●週刊﹃歴史のミステリー﹄5号︵歴史検証ファイル ケネディ暗殺事件の首謀者は誰だったのか︶デアゴスティーニ 2008年 ●﹃週刊朝日百科 週刊昭和 2009年1月18日号﹄ ﹁特集 ケネディ暗殺の衝撃﹂朝日新聞出版 2009年 ●﹃歴史108のミステリー 暗殺・闇の真実﹄ コスミック出版 2009年 ●﹃世界中が凍りついた疑惑の大事件﹄第三章 河出書房新社 2009年 ●﹃ケネディ暗殺 暗殺の検証と最期の2日間﹄︵DVD︶ コスミック出版 2009年 ●アーサー・ゴールドワグ︵著︶、住友進︵翻訳︶﹃カルト・陰謀・秘密結社大事典﹄ 河出書房新社 2010年 ●グループSKIT﹃世界の見方が変わる﹁陰謀の事件史﹂﹄PHP研究所 2010年 ●小田桐一﹃歴史を震撼させた暗殺事件﹄彩図社 2010年 ●﹃検証 陰謀論はどこまで真実か﹄第三章 文芸社 2011年 ●奥菜秀次﹃アメリカ陰謀論の真相﹄第三章 文芸社 2011年 ●小川謙治﹃ケネディ暗殺の真犯人とUFOアポロ疑惑﹄ 学研パブリッシング 2013年 ●ジム・マース︵著︶、 渡辺 亜矢︵翻訳︶﹃マスメディア・政府機関が死にもの狂いで隠蔽する 秘密の話﹄ 河出書房新社 2013年 ●フィリップ・シノン(著)、村上和久︵翻訳︶﹃ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜﹄上下巻 文藝春秋 2013年 ●クリント・ヒル、リサ・マッカビン(共著) 白須清美(翻訳)﹃ミセス・ケネディ~私だけが知る大統領夫人の素顔~﹄原書房 2013年ケネディ大統領暗殺事件を扱ったドキュメンタリー[編集]
映画[編集]
●﹃ケネディ大統領・稲妻の二年十カ月﹄︵1964年、アメリカ︶ ●﹃JFK/最後の真実﹄︵1992年、アメリカ︶ ●﹃バーチャル JFK 〜ベトナム戦争は回避できたか〜﹄︵2008年、アメリカ︶ ●﹃JFK/新証言 知られざる陰謀︻劇場版︼﹄︵2021年、アメリカ、オリヴァー・ストーン監督︶ ●﹃あの日アメリカで何が 映像記録・ケネディ暗殺60年﹄︵2023年、イギリス︶テレビ番組[編集]
●November 22nd and The Warren Report(1964)[132] ●Was There More Than One Gunman in the JFK Assassination? The Warren Report Compilation (1967)[133] ●"RUBY AND OSWALD" (1978)[134][135] ●Who Was Lee Harvey Oswald? (full documentary) | FRONTLINE(1993)[136] ●The Kennedy Assassination: Beyond Conspiracy by Dale Myers, paid by ABC(2003)[137] ●JFK Beyond The Magic Bullet (2004)[138] ●﹃疑惑の陰謀 JFK暗殺容疑者の殺害﹄︵Conspiracy?Jack Ruby/ヒストリーチャンネル 2004年︶ ●﹃発掘テープが語る ケネディ暗殺﹄︵The Lost JFK Tapes -The Assassination/NHK BS 2009年︶ ●﹃JFK アメリカを変えた三発の銃弾﹄︵JFK-3 Shots That Changed America/ヒストリーチャンネル 2009年︶ ●﹃ケネディ大統領暗殺後の24時間﹄︵The Kennedy Assassination: 24 Hours After/ヒストリーチャンネル 2009年︶ ●﹃ケネディ大統領を殺した男﹄︵Killing Kennedy/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年︶ ●﹃ケネディ大統領暗殺の真相﹄︵JFK: The Lost Bullet/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年︶ ●﹃JFK‥その時すべてが変わった﹄︵JFK‥ The Day That Changed Everything/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年︶ ●﹃JFK‥人生を変えた七つの岐路﹄︵JFK- Seven Days That Made A President/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年︶ ●﹃決定版‥JFK暗殺 最新レポート﹄︵JFK Assassination: The Definitive Guide/ヒストリーチャンネル 2013年︶ ●﹃オズワルド〜最後の48時間〜﹄︵Lee Harvey Oswald: 48 Hours to Live/ヒストリーチャンネル 2013年︶ ●﹃JFK暗殺のシナリオ﹄︵Capturing Oswald/ディスカバリーチャンネル 2013年︶ ●﹃コールド・ケース JFK〜暗殺の真相に迫る〜﹄︵Cold Case JFK/NHK BS1 2013年︶ ●﹃解禁!JFK暗殺事件の未公開ファイル﹄︵JFK Declassified: The New Files/ヒストリーチャンネル 2017年︶ ●﹃NHKスペシャル 未解決事件 File.08 JFK暗殺﹄︵NHK 2020年︶ ●﹃JFK:アメリカを襲ったあの日の出来事﹄︵2023年、アメリカ・イギリス︶ケネディ大統領暗殺事件を扱った作品[編集]
映画[編集]
●﹃怒りの用心棒﹄ - Il prezzo del potere (1969年) - マカロニ・ウェスタン。ガーフィールド大統領暗殺事件と本事件をモチーフとしている。 ●﹃ダラスの熱い日﹄ - Executive Action (1973年) ●﹃愛はエーゲ海に燃ゆ﹄ - The Greek Tycoon (1978年) - アリストテレス・オナシスとケネディ夫妻をモデルとした映画。 ●﹃JFK﹄ - JFK (1991年) ●﹃ジャック・ルビー﹄ - Ruby (1992年) ●﹃ザ・シークレット・サービス﹄- In the Line of Fire (1993年) ●﹃暗殺調書﹄- Fatal Deception: Mrs. Lee Harvey Oswald (1993年) - オズワルドの妻マリーナ・オズワルド・ポーターが主人公。 ●﹃Timequest﹄- (2000年) 日本未公開。 ●﹃ウォッチメン﹄ - Watchmen (2009年) - オープニングにてヒーローがケネディを暗殺した描写がある。 ●﹃パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間﹄- Parkland (2013年) - パークランド記念病院が舞台。 ●﹃X-MEN‥フューチャー&パスト﹄ X-Men: Days of Future Past (2014年) ●﹃ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命﹄- jackie (2016年) ●﹃LBJ ケネディの意志を継いだ男﹄- LBJ (2016年) ●﹃アイリッシュマン﹄- The Irishman (2019年)ドラマ[編集]
●﹃大統領を撃った男/ケネディ暗殺の謎・オズワルドの証言﹄- The Trial Of Lee Harvey Oswaldo (1977年) - TVムービー ●﹃ダラスの長い日/ケネディ大統領暗殺事件﹄- Ruby and Oswald (1978年) - TVムービー ●﹃バック・トゥ・ザ・JFK﹄- Running Against Time (1990年) - TVムービー ●﹃ダークスカイ﹄ - Dark Skies (1996年) ●﹃PAN AM/パンナム﹄ - Pan Am (2011年 - ) 第12話︵2012年1月放送︶で﹁ケネディ大統領狙撃﹂に関する当時のニュース映像が使用された。 ●﹃ケネディ大統領を殺した男﹄- Killing Kennedy (2013年) - TVムービー小説[編集]
●﹃11.22.63﹄ - スティーヴン・キングの2011年出版の小説。アニメ[編集]
●劇場版﹃ゴルゴ13﹄︵1983年︶ - 後継者最有力候補であった実の息子を狙撃で暗殺され、狙撃手を請け負った犯人である主人公の報復殺害を企てる全米屈指の巨大財閥総帥が実は﹁ケネディ大統領暗殺事件﹂に深く関わっていた黒幕の一人であり、主人公への復讐の為に法を犯す事も厭わず暴走する有様を米国政府が掣肘・制止しようにも、大統領暗殺事件に関わる︵政府関与を裏付ける︶機密情報暴露・脅迫を恐れ、手をこまねいてしまう様が物語の重要な伏線として描かれている。 ●﹃ルパン三世 アルカトラズコネクション﹄︵2001年︶ - アルカトラズ島に眠る財宝の正体に本事件が関わっており、ロバート・ケネディ暗殺事件も登場する。ゲーム[編集]
●﹃JFK: Reloaded﹄- イギリスのWindows用ゲームソフト。事件から41年目の2004年11月22日発売。ダウンロードによる販売。プレイヤーはオズワルドになり、ケネディを狙撃する。最初に﹁暗殺﹂したプレイヤーに賞金をかけたこともあり、不謹慎であると物議をかもした。2011年現在ではサイトも閉鎖されている。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献︵英語版︶[編集]
●Josiah Thompson Six Seconds in Dallas: A Micro-Study of the Kennedy Assassination ︵Bernard Geis / Random House Inc; 1st edition ,1967︶ ●Jim Garrison A Heritage of Stone ︵Berkley Medallion; 4th printing edition ,1975︶ ●Edward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend︵Carroll & Graf Pub 1992︶ ●Alan J Weberman, Michael Canfield Coup d'Etat in America: The CIA and the Assassination of John F. Kennedy ︵Quick American Archives ,1992︶ ●Jim Marrs Crossfire: The Plot That Killed Kennedy ︵Basic Books; Carroll & Graf Pub. 1993︶ ●Robert J. Groden The Killing of a President: The Complete Photographic Record of the JFK Assassination, the Conspiracy, and the Cover-Up (Studio. 1994︶ ●Gerald L Posner Case Closed ︵Anchor,2003 Random House Value Publishing ,1995︶ ●L. Fletcher Prouty JFK: The Cia, Vietnam, and the Plot to Assassinate John F. Kennedy ︵Citadel Pr; Upd Sub, 1996︶ ●Harrison Edward Livingstone , Robert J. Groden High Treason: The Assassination of JFK & the Case for Conspiracy ︵Carroll & Graf Publishers, 1998︶︶ ●James H Fetzer︵editor︶ The Great Zapruder Film Hoax: Deceit and Deception in the Death of JFK ︵Open Court Pub Co; illustrated edition, 2003︶ ●Antoinette Giancana, John R. Hughes, Thomas H. Jobe JFK And Sam: The Connection Between the Giancana And Kennedy Assassinations ︵Cumberland House ,2005︶ ●E Howard Hunt, Greg Aunapu American Spy: My Secret History in the CIA, Watergate, and Beyond ︵John Wiley & Sons Inc, 2007︶ ●Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President ︵Basic Books, 2009︶関連項目[編集]
●ジョン・F・ケネディの国葬に出席した要人の一覧 ●リンカーン大統領とケネディ大統領の共通点 ●ケネディ家の呪い ●テカムセの呪い ●ノースウッズ作戦 ●フレッチャー・プラウティ ●石田武 - 当時NHKアナウンサーで、本事件の第一報を伝えた。石田純一の実父。 ●カリン・カプシネット - 事件の翌日に変死した女優。彼女の死が事件と関連しているという陰謀論もある。 ●ケネディ大統領暗殺に使用された銃外部リンク[編集]
- Dave Perry's John F. Kennedy Assassination Pages
- JFKII The Bush Connection - Complete Documentary
- JFK/The Kennedy Assassination Home Page
- JFK Assassination FAQ
- JFK Assassination Resources Online
- John F. Kennedy Assassination Homepage
- Frontline: Who Was Lee Harvey Oswald?
- JFK Collection at the National Archives
- Assassination of President Kennedy Encyclopaedia
- ケネディ暗殺を伝えた衛星中継から60年 白く巨大なアンテナのいま (朝日新聞、2023年11月22日) ※日米間の衛星回線によるテレビ中継放送の第一報がこの暗殺事件であった。