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{{Infobox 作家

[[Image:Mallarme.jpg|thumb|220px|1896年当時の'''マラルメ''']]

| name = ステファヌ・マラルメ<br />Stéphane Mallarmé

'''ステファヌ・マラルメ'''('''Stéphane Mallarmé''', [[1842年]][[3月18日]] - [[1898年]][[9月9日]])は、[[アルチュール・ランボー]]と並ぶ[[19世紀]][[フランス]][[象徴派]]の代表的[[詩人]]。代表作に『半獣神の午後』『パージュ』『詩集』『骰子一擲』(とうしいってき、『サイコロの一振り』とも)、評論集『ディヴァガシオン』など。

| image = Mallarme.jpg

| image_size = 220px

| caption = 1896年当時の'''マラルメ'''

| pseudonym = <!--ペンネーム-->

| birth_name = <!--出生名-->

| birth_date = {{生年月日|1842|3|18}}

| birth_place = {{FRA1830}}、[[パリ]]

| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1842|3|18|1898|9|9}}

| death_place = {{FRA1870}}、[[セーヌ=エ=マルヌ県]]、ヴァルヴァン

| resting_place = <!--墓地、埋葬地-->

| occupation = 詩人

| language = フランス語

| nationality =

| ethnicity = <!--民族-->

| citizenship = <!--市民権-->

| education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->

| alma_mater = <!--出身校、最終学歴-->

| period = <!--作家としての活動期間、デビュー作出版から最終出版まで-->

| genre = 詩

| subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->

| movement = [[象徴主義]]、[[高踏派]]

| debut_works = <!--デビュー作-->

| notable_works = <!--代表作-->

| spouse = <!--配偶者-->

| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)-->

| children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する-->

| relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->

| production = <!--所属-->

| influences = <!--影響を受けた作家名-->

| influenced = <!--影響を与えた作家名-->

| awards = <!--主な受賞歴-->

| signature = <!--署名・サイン-->

| years_active = <!--活動期間-->

}}


'''ステファヌ・マラルメ'''(Stéphane Mallarmé, [[1842年]][[3月18日]] - [[1898年]][[9月9日]])は、[[アルチュール・ランボー]]と並ぶ[[19世紀]][[フランス]][[象徴派]]の代表的[[詩人]]。代表作に『半獣神の午後』『パージュ』『詩集』『骰子一擲』(とうしいってき、『サイコロの一振り』とも)、評論集『ディヴァガシオン』など。



==生涯と詩作==

==生涯と詩作==

[[パリ]]に生まれる。本名'''エティエンヌ・マラルメ'''('''Étienne Mallarmé'''なおフランス語の男子名でStéphaneはÉtienneの異形である)。若いうちに[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]らの[[ロマン派]]の影響を受けて詩作を始め、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の作風やアメリカの詩人・作家の[[エドガー・アラン・ポー]]の『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになる。[[フランス第三共和政|第三共和政]]下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴った。

[[パリ]]に生まれる。本名'''エティエンヌ・マラルメ'''(Étienne Mallarmé、フランス語の男子名でStéphaneはÉtienneの異形である)。若いうちに[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]らの[[ロマン派]]の影響を受けて詩作を始め、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の作風やアメリカの詩人・作家の[[エドガー・アラン・ポー]]の『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになる。[[フランス第三共和政|第三共和政]]下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴った。



初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「[[偶然]]」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」OEuvreである。彼の詩集に収められた詩は、幾つかの例外を除いて、ほとんどがこの「作品」(更なる後に「書物」Livreに置き換わる)の制作過程の副産物であったとも考えられる。

初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「[[偶然]]」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」Œuvreである。彼の詩集に収められた詩は、幾つかの例外を除いて、ほとんどがこの「作品」(更なる後に「書物」Livreに置き換わる)の制作過程の副産物であったとも考えられる。



1866年、その「作品」の重要な位置を担うはずの『エロディヤード』(古序曲)を書き進めていくうちに「形而上学的危機」(友人に宛てた手紙の中で「幸いにも私は完全に死んだ」との文言を書き記すが、これが[[モーリス・ブランショ]]の思索に強く影響を与える)と呼ばれる精神状態をもたらす。この世の一切が虚無であることに遭遇し、[[キリスト教]]における[[神]]の死を悟り、[[ロゴス]]と[[コギト・エルゴ・スム|コギト]]が解体され、[[存在]]の根拠を失う。しかし詩の根源的なあり方へとその思索と魂の探求を深めていくなかで、詩人は「美」Beauを発見し、それを詩と宇宙の中心原理とする。

1866年、その「作品」の重要な位置を担うはずの『エロディヤード』(古序曲)を書き進めていくうちに「形而上学的危機」(友人に宛てた手紙の中で「幸いにも私は完全に死んだ」との文言を書き記すが、これが[[モーリス・ブランショ]]の思索に強く影響を与える)と呼ばれる精神状態をもたらす。この世の一切が虚無であることに遭遇し、[[キリスト教]]における[[神]]の死を悟り、[[ロゴス]]と[[コギト・エルゴ・スム|コギト]]が解体され、[[存在]]の根拠を失う。しかし詩の根源的なあり方へとその思索と魂の探求を深めていくなかで、詩人は「美」Beauを発見し、それを詩と宇宙の中心原理とする。

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[[画像:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|thumb|200px|マネ ステファヌ・マラルメの肖像(1876年)]]

[[画像:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|thumb|200px|マネ ステファヌ・マラルメの肖像(1876年)]]

== 交友関係 ==

== 交友関係 ==

マラルメはマネをはじめ、諸芸術家とたいへん親交が深かったことでも有名である。ローマ街にある自宅で開かれた「火曜会」と呼ばれる会合には、数えればキリがないものの、画家の[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、そして[[エドガー・ドガ|ドガ]]などの[[印象派]]をはじめ[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]や[[モーリス・ドニ|ドニ]]、[[ホイッスラー]]、詩人の[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、作家の[[オスカー・ワイルド]]、[[アンドレ・ジッド]]、[[作曲家]]の[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]など、錚々たる芸術家が集まった。

マラルメはマネをはじめ、諸芸術家とたいへん親交が深かったことでも有名である。ローマ街([[17区 (パリ)|パリ17区]][[ローマ|ローム]]通り ([[:fr:Rue de Rome (Paris)|Rue de Rome]]) 87番地(現89番地))にある自宅で開かれた「火曜会」と呼ばれる会合には、数えればキリがないものの、画家の[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、そして[[エドガー・ドガ|ドガ]]などの[[印象派]]をはじめ[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]や[[モーリス・ドニ|ドニ]]、[[ホイッスラー]]、詩人の[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、作家の[[オスカー・ワイルド]]、[[アンドレ・ジッド]]、[[作曲家]]の[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]など、錚々たる芸術家が集まった。



==評価==

==評価==

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== 日本語訳 ==

== 日本語訳 ==

*『マラルメ全集』全5巻、[[筑摩書房]]、1989年-2010年。

*『マラルメ全集』、[[筑摩書房]](全5巻)、1989年-2010年。

*:[[渡邊守章]]、[[清水徹]]、[[阿部良雄]]、[[菅野昭正]]、[[松室三郎]]編集委員 

*:編集委員:[[渡邊守章]]、[[清水徹]]、[[阿部良雄]]、[[菅野昭正]]、[[松室三郎]] 

**第1巻「詩・イジチュール」 2010年 。

**第1巻「詩・イジチュール」 2010年 。

**第2巻「ディヴァガシオンほか 散文作品」別冊解題・註解、1989年。

**第2巻「ディヴァガシオンほか 散文作品」別冊解題・註解、1989年。

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**第4巻「書簡 I」 1991年。

**第4巻「書簡 I」 1991年。

**第5巻「書簡 II」 2001年。 

**第5巻「書簡 II」 2001年。 

*『マラルメ詩集』 渡邊守章訳注・解題、岩波書店〈岩波文庫〉、2014年。詳細な注解での新訳版。

*『マラルメ詩集』 [[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1963年。旧訳版、上記全集の編集委員は弟子。

*『西脇順三郎コレクション3 翻訳詩集 マラルメ詩集 ほか』 [[新倉俊一 (アメリカ文学者)|新倉俊一]]編、[[慶応義塾大学出版会]]、2007年。

**旧版『世界詩人選07 マラルメ詩集』 [[西脇順三郎]]訳、[[小沢書店]]〈小沢クラシックス 世界の詩〉、1996年。

*ステファヌ・マラルメ『詩集』 [[柏倉康夫]]訳、[[月曜社]]〈叢書・エクリチュールの冒険〉、2018年。

*『ステファヌ・マラルメ 賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう』

*:フランソワーズ・モレル編著、柏倉康夫訳、行路社、2009年。原稿と校正刷、編者による出版 考察・解題

**改訂新版『賽の一振り』 [[月曜社]]〈叢書・エクリチュールの冒険〉、2022年

*『骰子一擲』 [[秋山澄夫]]訳、[[思潮社]]、1972年(改訂版1984年、版1991年)新装縮刷

*『マラルメ詩集』 [[佐藤朔]]・[[立仙順朗]]共訳、ほるぷ出版、1983年



== 伝記・作品研究 ==

*『マラルメ詩集』 [[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1963年。上記全集の編集委員は鈴木の弟子。

*『マラルメ集』 [[佐藤]], [[立仙順朗]]共訳、ほるぷ出、1983

*[[ポール・ヴァレリー]] 『マラルメ論叢 ヴァレリー全7 [[佐藤正彰]]ほか訳、筑摩書房、増補1978

*[[アルベール・ティボーデ]] 『マラルメ論』 [[田中淳一 (フランス文学)|田中淳一]]・[[立仙順朗]]訳、[[沖積舎]]、1991年。

*『マラルメ詩集』 渡邊守章訳注・解題、岩波書店〈岩波文庫〉、2014年。詳細な注解での新訳版。

*[[ギィ・ミショー]] 『ステファヌ・マラルメ』 田中成和訳、[[水声社]]、1993年。

*[[新倉俊一 (アメリカ文学者)|新倉俊一]]編 [[西脇順三郎]]コレクション3 翻訳詩集 マラルメ詩集 ほか』 [[慶応義塾大学出版会]]、2007年。

*[[ジャン=ピエール・リシャール]] 『マラルメの想像的宇宙』 田中成和訳、水声社、2004年。

**旧版 『世界詩人選07 マラルメ詩集』 西脇順三郎訳、[[小沢書店]]〈小沢クラシックス 世界の詩〉、1996年。

*[[ジャン=リュック・ステンメッツ]] 『マラルメ伝-絶対と日々』 柏倉康夫・永倉千夏子・宮嵜克裕訳、筑摩書房、2004年。

*[[イヴ・ボヌフォワ]] 『マラルメの詩学』 阿部良雄・菅野昭正訳、筑摩書房、2003年。

*[[ゴードン・ミラン]] 『マラルメの火曜会-神話と現実』 柏倉康夫訳、行路社、2012年。

*[[柏倉康夫]] 『生成するマラルメ』[[青土社]]、2005年。

*柏倉康夫 『マラルメ探し』青土社、1992年。

*柏倉康夫 『マラルメの火曜会-世紀末パリの芸術家たち』[[丸善]]〈丸善ブックス〉、1994年。

*『臨時増刊 [[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]-総特集ステファヌ・マラルメ』青土社、1986年9月。

*菅野昭正 『ステファヌ・マラルメ』[[中央公論新社|中央公論社]]、1985年。[[読売文学賞]]受賞。前半生まで



== 脚注 ==

*[[フランソワーズ・モレル]]編著 『ステファヌ・マラルメ 賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう-原稿と校正刷 フランソワーズ・モレルによる出版と考察』 [[柏倉康夫]]訳、[[行路社]]、2009年。

<references/>

**『骰子一擲』 [[秋山澄夫]]訳、[[思潮社]]、1972年(改訂版1984年、訂新装縮刷版1991年)。


== 伝記・作品研究 ==

*[[ポール・ヴァレリー]] 『マラルメ論叢 ヴァレリー全集7』 [[佐藤正彰]]ほか訳、筑摩書房、増補版1978年。

*[[アルベール・ティボーデ]] 『マラルメ論』 [[田中淳一 (フランス文学)|田中淳一]]・[[立仙順朗]]訳、[[沖積舎]]、1991年。

*[[ギィ・ミショー]] 『ステファヌ・マラルメ』 [[田中成和]]訳、[[水声社]]、1993年。

*[[ジャン=ピエール・リシャール]] 『マラルメの想像的宇宙』 田中成和訳、水声社、2004年。

*[[ジャン=リュック・ステンメッツ]] 『マラルメ伝-絶対と日々』 柏倉康夫・[[永倉千夏子]][[宮嵜克裕]]訳、筑摩書房、2004年。

*[[イヴ・ボヌフォワ]] 『マラルメの詩学』 阿部良雄・菅野昭正訳、筑摩書房、2003年。

*[[ゴードン・ミラン]] 『マラルメの火曜会-神話と現実』 柏倉康夫訳、行路社、2012年。

*柏倉康夫 『生成するマラルメ』 [[青土社]]、2005年。

*柏倉康夫 『マラルメ探し』 青土社、1992年。

*柏倉康夫 『マラルメの火曜会-世紀末パリの芸術家たち』 [[丸善]]〈丸善ブックス〉、1994年。

*『臨時増刊 [[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]-総特集ステファヌ・マラルメ』 青土社、1986年9月。

*菅野昭正 『ステファヌ・マラルメ』 [[中央公論社]]、1985年。[[読売文学賞]]受賞。



==外部リンク==

== 外部リンク ==

* {{青空文庫著作者|1708|マラルメ ステファヌ}}

* {{青空文庫著作者|1708|マラルメ ステファヌ}}

* [https://www.project-archive.org/0/108.html ステファヌ・マラルメ「双賽一擲」(田邊元訳)] - ARCHIVE。哲学者・[[田邊元]]による「骰子一擲」の訳出



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[[Category:フランスの詩人]]

[[Category:ステァヌ・マルメ|*]]

[[Category:19世紀フランスの詩人]]

[[Category:象徴派の詩人]]

[[Category:象徴派の詩人]]

[[Category:フランスの文芸評論家]]

[[Category:フランスの文芸評論家]]


2024年5月16日 (木) 19:19時点における最新版

ステファヌ・マラルメ
Stéphane Mallarmé
1896年当時のマラルメ
誕生 (1842-03-18) 1842年3月18日
フランスの旗 フランス王国パリ
死没 (1898-09-09) 1898年9月9日(56歳没)
フランスの旗 フランス共和国セーヌ=エ=マルヌ県、ヴァルヴァン
職業 詩人
言語 フランス語
ジャンル
文学活動 象徴主義高踏派
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

Stéphane Mallarmé, 1842318 - 18989919

[]


Étienne MallarméStéphaneÉtienne

1860ŒuvreLivre

1866Beau



1870187318741876

1880

西"UN COUP DE DÉS JAMAIS N'ABOLIRA LE HASARD"

1898

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189720


 1876

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17 (Rue de Rome) 8789

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 41997

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51989-2010
 

1 2010 

2 1989

31998

4I 1991

5II 2001 

 ︿2014

 ︿1963

西3   2007
07 西︿ 1996

 ︿2018

 
2009稿 

 ︿2022

 197219841991

 1983

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  7 1978

  1991

  1993

  2004

 - 2004

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 2005

 1992

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 -19869

 1985

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外部リンク[編集]