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'''ステファヌ・マラルメ'''('''Stéphane Mallarmé''', [[1842年]][[3月18日]] - [[1898年]][[9月9日]])は、[[アルチュール・ランボー]]と並ぶ[[19世紀]][[フランス]][[象徴派]]の代表的[[詩人]]。代表作に『半獣神の午後』『パージュ』『詩集』『骰子一擲』(とうしいってき、『サイコロの一振り』とも)、評論集『ディヴァガシオン』など。

'''ステファヌ・マラルメ'''(Stéphane Mallarmé, [[1842年]][[3月18日]] - [[1898年]][[9月9日]])は、[[アルチュール・ランボー]]と並ぶ[[19世紀]][[フランス]][[象徴派]]の代表的[[詩人]]。代表作に『半獣神の午後』『パージュ』『詩集』『骰子一擲』(とうしいってき、『サイコロの一振り』とも)、評論集『ディヴァガシオン』など。



==生涯と詩作==

==生涯と詩作==

[[パリ]]に生まれる。本名'''エティエンヌ・マラルメ'''('''Étienne Mallarmé'''なおフランス語の男子名でStéphaneはÉtienneの異形である)。若いうちに[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]らの[[ロマン派]]の影響を受けて詩作を始め、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の作風やアメリカの詩人・作家の[[エドガー・アラン・ポー]]の『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになる。[[フランス第三共和政|第三共和政]]下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴った。

[[パリ]]に生まれる。本名'''エティエンヌ・マラルメ'''(Étienne Mallarmé、フランス語の男子名でStéphaneはÉtienneの異形である)。若いうちに[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]らの[[ロマン派]]の影響を受けて詩作を始め、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の作風やアメリカの詩人・作家の[[エドガー・アラン・ポー]]の『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになる。[[フランス第三共和政|第三共和政]]下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴った。



初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「[[偶然]]」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」Œuvreである。彼の詩集に収められた詩は、幾つかの例外を除いて、ほとんどがこの「作品」(更なる後に「書物」Livreに置き換わる)の制作過程の副産物であったとも考えられる。

初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「[[偶然]]」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」Œuvreである。彼の詩集に収められた詩は、幾つかの例外を除いて、ほとんどがこの「作品」(更なる後に「書物」Livreに置き換わる)の制作過程の副産物であったとも考えられる。

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[[画像:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|thumb|200px|マネ ステファヌ・マラルメの肖像(1876年)]]

[[画像:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|thumb|200px|マネ ステファヌ・マラルメの肖像(1876年)]]

== 交友関係 ==

== 交友関係 ==

マラルメはマネをはじめ、諸芸術家とたいへん親交が深かったことでも有名である。ローマ街にある自宅で開かれた「火曜会」と呼ばれる会合には、数えればキリがないものの、画家の[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、そして[[エドガー・ドガ|ドガ]]などの[[印象派]]をはじめ[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]や[[モーリス・ドニ|ドニ]]、[[ホイッスラー]]、詩人の[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、作家の[[オスカー・ワイルド]]、[[アンドレ・ジッド]]、[[作曲家]]の[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]など、錚々たる芸術家が集まった。

マラルメはマネをはじめ、諸芸術家とたいへん親交が深かったことでも有名である。ローマ街([[17区 (パリ)|パリ17区]][[ローマ|ローム]]通り ([[:fr:Rue de Rome (Paris)|Rue de Rome]]) 87番地(現89番地))にある自宅で開かれた「火曜会」と呼ばれる会合には、数えればキリがないものの、画家の[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、そして[[エドガー・ドガ|ドガ]]などの[[印象派]]をはじめ[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]や[[モーリス・ドニ|ドニ]]、[[ホイッスラー]]、詩人の[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、作家の[[オスカー・ワイルド]]、[[アンドレ・ジッド]]、[[作曲家]]の[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]など、錚々たる芸術家が集まった。



==評価==

==評価==

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**第5巻「書簡 II」 2001年。 

**第5巻「書簡 II」 2001年。 

*『マラルメ詩集』 渡邊守章訳注・解題、岩波書店〈岩波文庫〉、2014年。詳細な注解での新訳版。

*『マラルメ詩集』 渡邊守章訳注・解題、岩波書店〈岩波文庫〉、2014年。詳細な注解での新訳版。

*『マラルメ詩集』 [[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1963年。旧訳版、上記全集の編集委員は鈴木の弟子。

*『マラルメ詩集』 [[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1963年。旧訳版、上記全集の編集委員は弟子。

*『西脇順三郎コレクション3 翻訳詩集 マラルメ詩集 ほか』 [[新倉俊一 (アメリカ文学者)|新倉俊一]]編、[[慶応義塾大学出版会]]、2007年。

*『西脇順三郎コレクション3 翻訳詩集 マラルメ詩集 ほか』 [[新倉俊一 (アメリカ文学者)|新倉俊一]]編、[[慶応義塾大学出版会]]、2007年。

**旧版『世界詩人選07 マラルメ詩集』 [[西脇順三郎]]訳、[[小沢書店]]〈小沢クラシックス 世界の詩〉、1996年。

**旧版『世界詩人選07 マラルメ詩集』 [[西脇順三郎]]訳、[[小沢書店]]〈小沢クラシックス 世界の詩〉、1996年。

*ステファヌ・マラルメ『詩集』 [[柏倉康夫]]訳、[[月曜社]]〈叢書・エクリチュールの冒険〉、2018年。

*ステファヌ・マラルメ『詩集』 [[柏倉康夫]]訳、[[月曜社]]〈叢書・エクリチュールの冒険〉、2018年。

*『ステファヌ・マラルメ 賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう-原稿と校正刷 フランソワーズ・モレルによる出版と考察フランソワーズ・モレル編著、柏倉康夫訳、行路社、2009年。

*『ステファヌ・マラルメ 賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう』

*:フランソワーズ・モレル編著、柏倉康夫訳、行路社、2009年。原稿と校正刷、編者による出版 考察・解題

*『骰子一擲』 [[秋山澄夫]]訳、[[思潮社]]、1972年(改訂版1984年、再訂新装縮刷)版1991年)

**改訂新版『賽の一振り』 [[月曜社]]〈叢書・エクリチュールの冒険〉、2022年

*『骰子一擲』 [[秋山澄夫]]訳、[[思潮社]]、1972年(改訂版1984年、再訂版1991年)新装縮刷

*『マラルメ詩集』 [[佐藤朔]]・[[立仙順朗]]共訳、ほるぷ出版、1983年

*『マラルメ詩集』 [[佐藤朔]]・[[立仙順朗]]共訳、ほるぷ出版、1983年



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*菅野昭正 『ステファヌ・マラルメ』[[中央公論新社|中央公論社]]、1985年。[[読売文学賞]]受賞。前半生まで

*菅野昭正 『ステファヌ・マラルメ』[[中央公論新社|中央公論社]]、1985年。[[読売文学賞]]受賞。前半生まで



==外部リンク==

== 脚注 ==

<references/>


== 外部リンク ==

* {{青空文庫著作者|1708|マラルメ ステファヌ}}

* {{青空文庫著作者|1708|マラルメ ステファヌ}}

* [https://www.project-archive.org/0/108.html ステファヌ・マラルメ「双賽一擲」(田邊元訳)] - ARCHIVE。哲学者・[[田邊元]]による「骰子一擲」の訳出



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{{Wikiquote|fr:Stéphane Mallarmé|ステファヌ・マラルメ}}

{{Wikisource author}}

{{Normdaten}}

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{{DEFAULTSORT:まらるめ すてふあぬ}}

[[Category:フランスの詩人]]

[[Category:ステァヌ・マルメ|*]]

[[Category:19世紀フランスの詩人]]

[[Category:象徴派の詩人]]

[[Category:象徴派の詩人]]

[[Category:フランスの文芸評論家]]

[[Category:フランスの文芸評論家]]


2024年5月16日 (木) 19:19時点における最新版

ステファヌ・マラルメ
Stéphane Mallarmé
1896年当時のマラルメ
誕生 (1842-03-18) 1842年3月18日
フランスの旗 フランス王国パリ
死没 (1898-09-09) 1898年9月9日(56歳没)
フランスの旗 フランス共和国セーヌ=エ=マルヌ県、ヴァルヴァン
職業 詩人
言語 フランス語
ジャンル
文学活動 象徴主義高踏派
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

Stéphane Mallarmé, 1842318 - 18989919

[]


Étienne MallarméStéphaneÉtienne

1860ŒuvreLivre

1866Beau



1870187318741876

1880

西"UN COUP DE DÉS JAMAIS N'ABOLIRA LE HASARD"

1898

[]




189720


 1876

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17 (Rue de Rome) 8789

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 41997

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51989-2010
 

1 2010 

2 1989

31998

4I 1991

5II 2001 

 ︿2014

 ︿1963

西3   2007
07 西︿ 1996

 ︿2018

 
2009稿 

 ︿2022

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 1983

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  7 1978

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  2004

 - 2004

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 - 2012

 2005

 1992

 -︿1994

 -19869

 1985

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外部リンク[編集]