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プトレマイオスはマケドニアの貴族{{仮リンク|ラゴス (プトレマイオス1世の父)|label=ラゴス|en|Lagus}}と{{仮リンク|アルシノエ (プトレマイオス1世の母)|label=アルシノエ|en|Arsinoe of Macedon}}の間の子である<ref name="松原2010pプトレマイオス">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], pp. 1033-1038 「プトレマイオス(エジプト王室の)」の項目より</ref>。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|フィリッポス2世]]の[[妾]]であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人([[ヘタイロイ]])として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。 |
プトレマイオスはマケドニアの貴族{{仮リンク|ラゴス (プトレマイオス1世の父)|label=ラゴス|en|Lagus}}と{{仮リンク|アルシノエ (プトレマイオス1世の母)|label=アルシノエ|en|Arsinoe of Macedon}}の間の子である<ref name="松原2010pプトレマイオス">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], pp. 1033-1038 「プトレマイオス(エジプト王室の)」の項目より</ref>。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|フィリッポス2世]]の[[妾]]であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人([[ヘタイロイ]])として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。 |
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エジプトはギリシア人である[[ナウクラティスのクレオメネス]]の管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われた[[バビロン会議]]の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄[[ピリッポス3世|アリダイオス]]と遺児[[アレクサンドロス4世]]を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したの対し、プトレマイオスはアンティゴノス、[[ヘレスポントス]]を支配する[[リュシマコス]]、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref>。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共に[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に作った仮墓に埋葬した<ref name="シャムー2011p64">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 64</ref><ref name="ウォールバンク1988p65">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 65</ref>。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「[[セマ]]」に安置され、[[水晶]]の棺に納められたという<ref name="山花2010p163">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 163</ref>。また、西方のギリシア人植民市[[キュレネ]]も征服して[[キレナイカ|リビュア]]方面を確保した<ref name="山花2010p166">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 166</ref>。ペルディッカスは前321年{{efn2|ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref>、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。}}にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したが[[ナイル川]]の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された<ref name="シャムー2011p65">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 65</ref><ref name="ウォールバンク1988p66"/>。 |
エジプトはギリシア人である[[ナウクラティスのクレオメネス]]の管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われた[[バビロン会議]]の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄[[ピリッポス3世|アリダイオス]]と遺児[[アレクサンドロス4世]]を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したのに対し、プトレマイオスはアンティゴノス、[[ヘレスポントス]]を支配する[[リュシマコス]]、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref>。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共に[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に作った仮墓に埋葬した<ref name="シャムー2011p64">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 64</ref><ref name="ウォールバンク1988p65">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 65</ref>。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「[[セマ]]」に安置され、[[水晶]]の棺に納められたという<ref name="山花2010p163">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 163</ref>。また、西方のギリシア人植民市[[キュレネ]]も征服して[[キレナイカ|リビュア]]方面を確保した<ref name="山花2010p166">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 166</ref>。ペルディッカスは前321年{{efn2|ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref>、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。}}にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したが[[ナイル川]]の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された<ref name="シャムー2011p65">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 65</ref><ref name="ウォールバンク1988p66"/>。 |
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=== 王朝の建設 === |
=== 王朝の建設 === |
2023年1月31日 (火) 11:22時点における版
- プトレマイオス朝エジプト
- Πτολεμαϊκὴ βασιλεία (ギリシャ語)
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← 前305年 - 前30年 →
紀元前235年頃のプトレマイオス朝の領域
緑色のコイレ・シリアは後にセレウコス朝に奪われる-
公用語 古代ギリシア語
古代エジプト語首都 アレクサンドリア - ファラオ
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前305年 - 前283年 プトレマイオス1世ソテル 前246年 - 前222年 プトレマイオス3世エウエルゲテス 前51年 - 前30年 クレオパトラ7世フィロパトル 前44年 - 前30年 プトレマイオス15世カエサル - 変遷
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建国 前305年 シリア戦争 前274年-前168年 アクティウムの海戦 前31年9月2日 滅亡 前30年
古代エジプトの王朝 |
---|
王朝誕生前のエジプト |
エジプト初期王朝 |
第1 第2 |
エジプト古王国 |
第3 第4 第5 第6 |
エジプト第1中間期 |
第7 第8 第9 第10 |
エジプト中王国 |
第11 第12 |
エジプト第2中間期 |
第13 第14 第15 第16 第17 |
エジプト新王国 |
第18 第19 第20 |
エジプト第3中間期 |
第21(並立:アメン大司祭) 第22 第23 第24 第25 第26 |
エジプト末期王朝時代 |
第27 第28 第29 第30 第31 |
グレコ・ローマン時代 |
アレクサンドロス大王 |
プトレマイオス朝 |
アエギュプトゥス |
カテゴリ |
歴史
アレクサンドロス3世とディアドコイ
王朝の建設
王朝の完成
プトレマイオス3世の征服活動
大王プトレマイオスは父方にはゼウスの子ヘラクレスの子孫より、母方にはゼウスの子ディオニュソスの子孫より生まれし、テオイ・ソテレス(救済神)たるプトレマイオス(一世)と王妃ベレニケ(一世)の子、テオイ・アデルフォイ(愛姉神)たる王プトレマイオス(二世)と王妃アルシノエ(二世)の子にして、父より(中略)王国を受け継ぎ、(中略)アジアへ遠征した。彼はエウフラテス河のこちら側(西岸)の地域、パンピュリア、イオニア、ヘレスポントス、トラキアにわたる全地域と、これらの地域の全軍とインド象の支配者となり、これらの全地域における領主を従属させ、エウフラテス河を渡り、彼自身、バビロニア、スシアナ、ペルシス、メディア、そしてバクトリアにいたるあらゆる地域において、ペルシア人によってエジプトから持ち去られた、いかなる聖物を彼自身が探し出し、この地域から得られた他の財宝とともに、エジプトへと回復し、(ユーフラテス)河に沿って兵を帰還させた(以下、欠損)
後期
エジプトではプトレマイオス(引用注:4世)が全く異なった状態にあった。即ち、近親殺しで王国を手に入れ、両親を殺したのに加えて、さらに兄弟をも殺害して、彼は、あたかも事がうまく運んだかのように思って贅沢に身を任せ、また、王宮全体も王のやり方に従ったのである。その結果、幕僚や長官たちだけでなく、全軍隊も軍事に精励するのをやめて、安逸と無為でだれ切り、腐り果てた。
プトレマイオス(四世)のところでは、この(ラピアの戦いの)すぐあと、エジプト人との戦争が勃発した。この王はアンティオコス(引用注:3世)との戦争に備えてエジプト人に武器を与えていたのだが、これはその場面に限っていえば首肯できる方法ではあっても、将来のためにはつまづきの石となった。というのもラピアの勝利によって自信をふくらませたエジプト人たちは、もはやおとなしく命令に忍従するのをいさぎよしとせず、自分の力で身を守ることのできる人間として、それにふさわしい指導役の人物を求めるようになったのである。この要求はしばらくのちに実現することになる[注 11]。
ローマの拡張
拡大するアンティゴノス朝の脅威に晒され、敗戦と内乱の渦中にあるプトレマイオス朝の支援も当てにできなくなったエーゲ海のギリシア人ポリス、ロドス、ビュザンティオン、キオス、そしてペルガモン王国のアッタロス1世らは対アンティゴノス朝の同盟を結ぶと共に、第二次ポエニ戦争に勝利して地中海に覇権を確立しつつあったローマの支援を求めた[82]。ローマはギリシア情勢に介入し、前197年のキュノスケファライの戦いでアンティゴノス朝の軍団を打ち破ってギリシアにおけるアンティゴノス朝の領土を独立させ、同国の外交権を剥奪した[83][84]。続いてギリシアへと勢力を拡張しようとしたセレウコス朝のアンティオコス3世も前191年のテルモピュライの戦いと前190年のマグネシアの戦いでローマに敗れ、東地中海におけるローマの影響力は一挙に拡大した[85]。慢性的な内紛とローマへの従属
プトレマイオス8世が前116年に死去した後、プトレマイオス朝はその滅亡まで慢性的な内紛と分裂に苦しみ、しかもプトレマイオス8世のように、それを収拾することのできる強力な支配者を見ることもなかった。遺言によってエジプトの支配権を継承したのはプトレマイオス8世の妻クレオパトラ3世であり、彼女は息子のプトレマイオス9世︵在位‥前116年-前110年、前109年-前107年、前88年-前81年︶に王位を授けたが、彼は弟のプトレマイオス10世︵在位‥前110年-前109年、前107年-前88年︶と激しい権力闘争を繰り広げた。そしてプトレマイオス9世は間もなく母親殺しを図ったとして地位を追われ前106年キュプロス島へ逃亡した[103]。これはクレオパトラ3世がプトレマイオス10世を溺愛していたため、彼に王位を与えるための謀略であったとも言われている[103]。クレオパトラ3世は息子のプトレマイオス10世と結婚したが、その溺愛にもかかわらず前101年にプトレマイオス10世によって殺害されたと言われている[103][104]。その後も兄弟は争いを続け、前88年にプトレマイオス10世が殺害されたことでプトレマイオス9世の勝利が確定した[103][104]。 この争いの最中、キュレネではプトレマイオス8世の庶子プトレマイオス・アピオンがキュレネ王を名乗ってプトレマイオス朝の支配から離れた[104]。彼は父親と同じく後継者無きまま死亡した際にはその領土をローマ人に譲渡するという遺言を作成してローマの支持を得たが、実際に後継者の無いまま死去したためキュレネはローマに贈与されることとなった[104]。キュレナイカの各都市は各々自由都市を宣言しローマの元老院がそれを承認したが、当初はローマは直接統治には乗り出さなかった[105]。その後前87年から前86年にかけてキュレナイカで内紛が発生すると、キュレネ人たちはローマの有力者スッラの配下ルクッルスに秩序の回復を求め、キュレナイカは実際にローマの統治下に入っていった[105]。そして前74年、ローマ元老院はキュレナイカ属州の設立を決議し、以降キュレナイカは完全にプトレマイオス朝の支配を離れた[105]。滅亡
前51年、プトレマイオス12世が死去した時、その息子プトレマイオス13世はまだ10歳であった。そのため17歳になる娘のクレオパトラ7世︵在位‥前51年-前30年︶がプトレマイオス13世との結婚を条件に王位についた[111]。このクレオパトラ7世はその美貌と才知によって名高く、数々の伝説的な逸話が現代に至るまで伝えられている[111]。単にクレオパトラと言った場合には通常、このクレオパトラ7世を指す。社会と制度
プトレマイオス朝は伝統的に、整然とした官僚制と社会の細部にわたる統制によって繁栄した中央集権的国家として描かれてきた[131][132]。20世紀の代表的なヘレニズム時代研究者の1人であるウォールバンクはプトレマイオス朝の統治を﹁官僚主義的中央集権制の大規模な実験と描写されて良いものだが、それはまた商取引を統制し、経済を国家権力に従属させることによって、貴金属を蓄積することを狙いとしていた限り、重商主義のそれでもあった。﹂と評しており[133]、19世紀から20世紀にかけてヘレニズム時代研究をリードしたターンは、統計と戸籍を作り整然と徴税を行う強力な官僚機構、国家管理の事業や王領地と4種に分類される贈与地からなる土地制度などを通じ、国家が各種の産業や徴税を隈なく監督するプトレマイオス朝の制度を描いている[134]。20世紀半ば頃まで想定されていたこのようなプトレマイオス朝の姿は近年の研究によってほぼ否定されており、現在では上記のような説明は行われない[131][132][135][136]。 セレウコス朝やアンティゴノス朝に代表されるヘレニズム王国は、多用な歴史的伝統を保有する地域を支配するため、現地の様々な伝統的支配機構を温存したモザイク状の国家を形成していたことが知られている。そしてプトレマイオス朝もまた、中央集権国家という伝統的なイメージとは異なり、地域ごとに中央政府による統制力の差が大きく、神殿などエジプトの伝統的な支配機構を取り込みながら支配を行っていたことが明らかとなっている[137]。その官僚組織も、整然とした中央集権体制を構築するためよりも、むしろ流入したギリシア人、マケドニア人に対して便宜を図るために拡充されていったものであり、厳密に整理されたものではなく、各官僚が利益を求める中でその日その日の不定形な活動の集合体に過ぎなかったと考えられている[131][135]。グレコ・マケドニア人とエジプト人
地方統治
経済
学問
軍事
陸軍
プトレマイオス朝は、その治世を通じて職業軍人︵傭兵も含む︶と新兵で構成された常備軍を維持した。エジプトの支配権を固めるため、プトレマイオス1世はギリシア人、傭兵、エジプト人、さらには戦争捕虜まで募集した軍隊に依存し、彼らはかなりの知略と適応力を示した[177]。プトレマイオス朝の軍隊は多様性に特徴があり、その構成員の民族的起源や国籍に関する記録が残されている[179]。エジプト本国他にもマケドニア、トラキア、ギリシア本土、エーゲ海、小アシア、キレナイカなどから兵士が募集された[180]。前2世紀から1世紀にかけて重なる戦争と拡張、ギリシア系移住民の減少と共にエジプト人が軍隊で占める割合と依存度が高まったが、ギリシア系移住民は依然として王室近衛隊と高位将校団において特権的な地位を維持した。エジプト人は王朝初期から軍隊に存在していたが、不誠実という評判と地域の反乱に同調する傾向のためしばしば無視されたり、不信を受けた[181]。それでも、エジプト人は勇敢な戦士とみなされ、前3世紀初めにプトレマイオス5世の改革を期して将校や騎兵隊員としてよく登用され始めた。また、エジプト軍人は一般住民に比べて高い社会・経済的地位を享受することができた[182]。 信頼でき、忠誠な軍人を確保するために王朝は豊かな財政資源と富に対するエジプトの歴史的評判を活用するいくつかの戦略を開発した。その一環として展開された宣伝は、詩人のテオクリトスが﹁プトレマイオスは自由人が持つことができる最上の雇用人だ﹂と主張したことからも証明されている[177]。傭兵たちは現金と穀物の配給を受ける形で給料をもらった。前3世紀にプトレマイオス軍の歩兵は、約1ドラクマ銀貨の手当を毎日もらったと伝える。このような条件は東地中海各地から新兵を引き入れ、彼らは﹁給料をもらう外国人﹂という意味の﹁ミストフォロイ・ゼノイ︵misthophoroi xenoi︶﹂とも呼ばれた。前2世紀から1世紀に至ると、ミストフォロイは主にエジプト国内で募集された。また、職業軍人には割り当て地という意味の﹁クレーロイ︵kleroi、クレーロスの複数形︶﹂が私有地として与えられ、その土地から産出された生産物を給料に代替するという屯田方式の制度が運営された。クレーロイは軍隊の階級や部隊、宿舎︵stathmoi︶や地域民の居住地によって様々な形で散在していた。遅くとも前230年頃になると、このような私有地はエジプト出身の下級歩兵のマキモイにも提供された[177]。クレーロイの提供は広範囲に行われた。騎兵隊員は少なくとも70アローラ[注 17]の土地を受け取ることができ、歩兵隊員は25-30アローラ、マキモイは一つの家族が生活できる基準に当する5アローラを受けた。プトレマイオス軍での服務が持つ高い収益性の性質は、王朝への忠誠を保障するのに効果的だったと見られる。軍隊の暴動や反乱は珍しく、反乱に加わった兵士たちも土地の下賜と異なるインセンティブにより懐柔されたりした[183]。 他のヘレニズム国家と同様、プトレマイオス軍はマケドニアの教理と組織を承継した[184]。アレクサンドロス大王時代の騎兵は、戦術と数的な面でより大きな役割を担い、ファランクスは歩兵の主力として機能した。プトレマイオス軍の多民族的な性格は、公認された組織の原則だった。兵士たちは出身地域別に訓練を受けたり、作戦に投入された。概してクレタ人は弓手、リビア人は重装歩兵、トラキア人は騎兵として服務した[177]。部隊の編成と武装も民族別に行われた。しかし、実戦では様々な民族の兵士が一緒に戦うよう訓練され、グレコ・マケドニア人将校の一元化された指揮は、ある程度の結束と調整が可能にしてくれてラフィアの戦いでプトレマイオス軍の士気を維持し、戦闘欲を高めるのに多大な役割を果たした[177]。海軍
一部の歴史家はプトレマイオス朝のエジプトが海軍力の伝統的な様式を革新したおかげで地中海の制海権を掌握し、歴代統治者が前例のない方式により権力と影響力を行使できたと描写する。キプロス島、クレタ島、エーゲ海の諸島、トラキアなどの東地中海全域にエジプトの領土と封臣たちが散在しており、セレウコス朝とマケドニアからこれを防御するためにも大規模な海軍を必要とした。一方、エジプト海軍は収益性のよい海上貿易を保護したり、ナイル川に沿って海賊を掃討する任務も務めた[185]。プトレマイオス朝の海軍の起源と伝統はアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争が起こった前320年頃にさかのぼる。多くのディアドコイがエーゲ海と東地中海の制海権をめぐって争うと[186]、プトレマイオス1世はエジプト本土を防御し、外部からの侵入に備えて自分の支配権を強固にする過程で海軍を創設した。プトレマイオス1世を始めとする王朝の歴代統治者は、ギリシアやアジアに陸上帝国を建設するよりも、海軍力を増強させて海外に進出することを好んだ[187]。前306年にサラミスの海戦で大敗したにもかかわらず、エジプト海軍は以後の数十年間、エーゲ海と東地中海における支配的な軍事力となった。プトレマイオス2世はエジプトを同地域の最も優れた海軍大国にするという父王の政策を継承した。彼の治世にエジプト海軍はヘレニズム世界の最大規模に成長し、古代に製作された最大の戦艦の一部も保有していた[187]。第一次シリア戦争期にエジプト海軍はセレウコス朝とマケドニア海軍を撃退させ、エーゲ海と東地中海を掌握した。クレモニデス戦争でもエジプトはマケドニアを封鎖し、ギリシャ本土に対するアンティゴノス朝の野心を牽制することに成功した[188]。 絶頂期であったプトレマイオス2世の時代にエジプト海軍は336隻の戦艦で構成され[189]、輸送船と同盟国の艦船まで含めておよそ4千隻以上の艦船を保有していたとされる[189]。このような大規模の艦隊を維持するのにかかった多くの費用はエジプトの莫大な富と資源によって裏付けられた[189]。海軍の主要基地はアレクサンドリアとキプロスのネアパフォスにあった。エジプト海軍は東地中海、エーゲ海、レバント海、ナイル川などの各地で活動したほか、インド洋方面に向けた紅海にても定期的にパトロールを行った。このため海軍はアレクサンドリア艦隊、エーゲ海艦隊、紅海艦隊、ナイル川艦隊にそれぞれ編成された。第二次シリア戦争が始まると、エジプト海軍は一連の敗北を経験し、海外領土の喪失とともに制海権が緩んだことで、海軍の軍事的な重要性もまた低下した。その後、2世紀にわたってエジプト海軍は海上路の保護や海賊の掃討を中心に運営されてから、末期にローマ帝国が台頭する中にクレオパトラ7世によって部分的に復活した。エジプト海軍はアクティウムの海戦に参加したが、致命的な惨敗を喫し、王朝の滅亡と同時に消滅した。﹁宗教﹂と王権
歴史上のあらゆる国家と同様にプトレマイオス朝においても﹁宗教﹂、神々への崇拝は重要な意義を持っていた。プトレマイオス朝の﹁宗教﹂にはそれを特徴づける複数の要因があった。1つは伝統的なギリシア人たちの共同体にとって欠かす事ができなかった神々への崇拝であり[190][191]、いま1つは長い伝統を持ち、また﹁並外れて信心深い﹂︵ヘロドトス︶と評される土着のエジプト人たちの神々である[190]。さらにヘレニズム時代に東地中海のマケドニア系王朝の全てで進行していた支配者崇拝の隆盛[192]が大きな影響を及ぼした。セラピス
支配者祭儀
王の神格化
エジプトの神々
ユダヤ教
プトレマイオス朝はユダヤ教の発展の重要な舞台であった。コイレ・シリアをはじめとして、プトレマイオス朝の領域には相当数のユダヤ人が居住しており[227]、また貢納の義務を負ってはいたものの、エルサレムを中核とするコイレ・シリア︵パレスチナ︶のユダヤ人たちの共同体は、ハカーマニシュ朝︵アケメネス朝︶以来の自治的単位︵ユダイア︶を維持していた[228]。ユダヤ人たちの統治は大祭司と長老会議︵ギリシア風にGerousiaと呼ばれた︶が行っており、王に対する税を徴収する義務も大祭司が負った[228]。 自発的な移動、または強制移住、あるいはその両方によってエジプト本国、特にアレクサンドリアにユダヤ人達が移住した[229][230]。アレクサンドリアのユダヤ人知識階層はプトレマイオス朝時代に支配的地位にあったギリシア人の社会との関わりを求め、ヘレニズム文化を摂取しギリシア語を用いるようになっていった[231]。彼らは、もはやヘブライ語を理解できない同胞たちのためか、あるいはギリシア系知識人に対してユダヤの歴史の古さ、あるいは優越性を訴えるためか、ユダヤ教の聖典︵﹃旧約聖書﹄︶のギリシア語訳を行うことを決意した[232]。このアレクサンドリアで作成されたと見られるギリシア語訳聖書は今日、一般に﹃七十人訳聖書︵セプトゥアギンタ︶﹄と呼ばれている[注 18]。この七十人訳版は、明らかに読者の中にギリシアの知識人がいることを想定し、地名を極めて説明的に翻訳する他︵ヘブライ語の音をそのままギリシア語風の発音にするのではなく、地名の語源をギリシア語訳する[234]︶、ヘブライ語版の﹁原文﹂に様々な意訳を行って、ギリシア人の宗教的習慣への配慮や、ユダヤ人の起源の古さ、偉大さを強調するような一種の﹁改変﹂が施されている[235]。この﹃七十人訳聖書﹄は後世の宗教思想に大きな影響を残し、後の初期キリスト教の著作家たちの中から、﹁翻訳版﹂というよりももはや﹁聖書﹂そのものとして扱う人物すら出すようになる[236]。歴代ファラオ
在位年が重複している箇所はすべて複数のファラオによる共同統治である。ファラオ | 画像 | 続柄・備考 | 在位 |
---|---|---|---|
プトレマイオス1世 | 初代。 | 前305−前283年 | |
プトレマイオス2世 | プトレマイオス1世とベレニケ1世の子。 | 前285−前246年 | |
プトレマイオス3世 | プトレマイオス2世とアルシノエ1世の子。 | 前246−前222年 | |
プトレマイオス4世 | プトレマイオス3世とベレニケ2世の子。 | 前222/221−前204年[注 9] | |
プトレマイオス5世 | プトレマイオス3世とアルシノエ3世の子。 | 前204−前180年 | |
プトレマイオス6世 | プトレマイオス5世とクレオパトラ1世の子。 | 前180−前164年 | |
プトレマイオス8世 | プトレマイオス6世及びクレオパトラ2世の同母弟。兄姉と共同統治。 | 前170−前163年 | |
プトレマイオス6世 | 復位。 | 前163−前145年 | |
プトレマイオス7世 | プトレマイオス6世の子。8世に殺害されたとされる。 | 前145年 | |
プトレマイオス8世 | 前145−前116年 | ||
プトレマイオス9世 | プトレマイオス8世とクレオパトラ3世の子。 | 前116−前110年 | |
プトレマイオス10世 | プトレマイオス9世の同母弟。母クレオパトラ3世に擁立されるが、対立し廃位。 | 前110−前109年 | |
プトレマイオス9世 | 復位。母クレオパトラ3世により廃位。 | 前109−前107年 | |
プトレマイオス10世 | 復位。母クレオパトラ3世を暗殺し、ベレニケ3世と結婚。 | 前107−前88年 | |
プトレマイオス9世 | 弟プトレマイオス10世の死により復位。 | 前88−前81年 | |
ベレニケ3世 (女王) | プトレマイオス9世とクレオパトラ・セレネ1世の娘。プトレマイオス10世の后。のちにプトレマイオス11世と強制的に結婚させられ、その19日後に殺される。 | 前81−前80年 | |
プトレマイオス11世 | プトレマイオス10世の子。ベレニケ3世殺害に怒った群衆により虐殺される。在位80日。プトレマイオス朝直系最後の王。 | 前80年 | |
プトレマイオス12世 | プトレマイオス9世の子。 | 前80−前58年 | |
ベレニケ4世 (女王) | プトレマイオス12世とクレオパトラ5世 (6世) の娘。父の国外追放後、母と共同統治。 | 前58−前55年 | |
プトレマイオス12世 | 復位。娘ベレニケ4世を処刑。 | 前55−前51年 | |
クレオパトラ7世 (女王) | ベレニケ4世の妹。一般にクレオパトラとして知られる女王。 | 前51−前30年 | |
プトレマイオス13世 | クレオパトラ7世の弟であり夫。後に両者は対立した。 | 前51−前47年 | |
プトレマイオス14世 | クレオパトラ7世とプトレマイオス13世の弟。 | 前47−前44年 | |
プトレマイオス15世(カエサリオン) | クレオパトラ7世とユリウス・カエサルの子。3歳のときクレオパトラ7世が共同統治者に指名。プトレマイオス朝最後の王。 | 前44−前30年 |
系図
マケドニア将軍 アンティパトロス |
| マケドニア貴族 プトレマイオス1世 |
| アルシノエ |
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エウリュディケー |
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| プトレマイオス1世 (在位 前305年 - 前285年) |
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| ベレニケ1世 (? - 前285年) |
| フィリッポス マケドニア貴族 | |||||||||||||||||||||||||||||
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| リュシマコス |
| アルシノエ2世 (前277年 - 前270/268年) |
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| キュレネ王 マガス |
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| アルシノエ1世 (前284年 - 前274年) |
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| プトレマイオス2世 (前285年 - 前246年) |
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マケドニア王 プトレマイオス・ケラウノス |
| マケドニア王 メレアグロス |
| プトレマイオス3世 (前246年 - 前222年) |
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| ベレニケ2世 (前244年 - 前222年) |
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| シリア王 アンティオコス3世 |
| アルシノエ3世 (前220年 - 前204年) |
| プトレマイオス4世 (前222/221年 - 前204年) |
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| クレオパトラ1世 (前193年 - 前176年) |
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| プトレマイオス5世 (前204年 - 前180年) |
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| クレオパトラ2世 (前173年 - 前164年、前163年 - 前127年、前124年 - 前116年) |
| プトレマイオス6世 (前180年 - 前164年、前163年 - 前145年) |
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プトレマイオス8世 (前171年 - 前163年、前145年 - 前131年、前145年 - 前131年) |
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| プトレマイオス・メンフィティス (前131年) |
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| クレオパトラ3世 (前142年 - 前131年、前142年 - 前131年) |
| プトレマイオス7世 (前145年) |
| クレオパトラ・テア | ||||||||||||||||||||||||||
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クレオパトラ4世 (前116年 - 前115年) |
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| プトレマイオス9世 (前116年 - 前110年、前109年 - 前107年、前88年 - 前81年) |
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| クレオパトラ・セレネ (クレオパトラ5世説あり、前115年 - 前107年) |
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| プトレマイオス10世 (前110年 - 前109年、前107年 - 前88年) | |||||||||||||||||||||||||||
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| プトレマイオス12世 (前80年 - 前58年、前55年 - 前51年) |
| クレオパトラ5(6)世※ (前79年 - 前57年) |
| ベレニケ3世 (前81年 - 前80年) |
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| プトレマイオス11世 (前80年) |
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| ベレニケ4世 (前58年 - 前55年) |
| クレオパトラ6世 (※と同一人物説あり、?年 - 前57年) |
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アルシノエ4世 (前48年 - 前47年) |
| プトレマイオス13世 (前51年 - 前47年) |
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| プトレマイオス14世 (前47年 - 前44年) |
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| クレオパトラ7世 (前51年 - 前30年) |
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| ローマ独裁官 ユリウス・カエサル |
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| ローマ軍人 マルクス・アントニウス |
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| プトレマイオス15世 (カエサリオン、前44年 - 前30年) |
| アレクサンドロス・ヘリオス |
| クレオパトラ・セレネ |
| プトレマイオス・フィラデルフォス | |||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
出典
- ^ アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3、大牟田訳 p. 191
- ^ 森谷 2000, p. 7
- ^ 桜井 1997, p. 191
- ^ 森谷 2000, p. 6
- ^ a b エル=アバディ 1991, p. 20
- ^ a b c 山花 2010, p. 158
- ^ 森谷 2000, p. 150
- ^ 桜井 1997, p. 192
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- ^ a b ウォールバンク 1988, p. 139
- ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 66
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- ^ ウォールバンク 1988, p. 65
- ^ 山花 2010, p. 163
- ^ 山花 2010, p. 166
- ^ a b c シャムー 2011, p. 65
- ^ シャムー 2011, p. 67
- ^ ウォールバンク 1988, pp. 62-81
- ^ シャムー 2011, pp. 59-95
- ^ シャムー 2011, p. 71
- ^ シャムー 2011, p. 72
- ^ ウォールバンク 1988, p. 74
- ^ 波部 2014, p. 108
- ^ シャムー 2011, p. 76
- ^ a b c シャムー 2011, p. 77
- ^ ウォールバンク 1988, p. 76
- ^ ウォールバンク 1988, p. 79
- ^ a b ウォールバンク 1988, p. 80
- ^ シャムー 2011, p. 100
- ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 101
- ^ 拓殖 1982, p. 24
- ^ 波部 2014, p. 16
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 102
- ^ 波部 2014, pp. 79-87
- ^ a b 波部 2014, p. 88
- ^ a b ターン 1987, p. 21
- ^ 波部 2014, p. 96
- ^ a b c d シャムー 2011, p. 104
- ^ a b 拓殖 1982, p. 25
- ^ シャムー 2011, p. 103
- ^ エル=アバディ 1991, p. 66
- ^ a b 桜井 1997, p. 203
- ^ エル=アバディ 1991, p. 24
- ^ 拓殖 1982, p. 29
- ^ a b c d e 拓殖 1982, p. 27
- ^ a b c d e f g シャムー 2011, p. 105
- ^ 拓殖 1982, p. 28
- ^ 波部 2014, pp. 192-193の引用より孫引き
- ^ アッピアノス『シリア戦争』No.13§65
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 107
- ^ クレイトン 1999, p. 269
- ^ a b 『バビロニア年代誌』BHCP11
- ^ 『バビロニア年代誌』BHCP11、訳者サマリーより
- ^ 波部 2014, pp. 192-193
- ^ 波部 2014, p. 183
- ^ a b c d シャムー 2011, p. 108
- ^ ユスティヌス『地中海世界史』第30巻§1, 合阪訳p. 349
- ^ 波部 2014, p. 18
- ^ 山花 2010, p. 169
- ^ a b c d e 波部 2014, pp. 18-21
- ^ 波部 2014, p. 287
- ^ 西洋古典学事典,p. 1436「プトレマイオス朝エジプト王家の系図」より
- ^ ユスティヌス『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注4
- ^ a b 山花 2010, pp. 169-170
- ^ クレイトン 1999, p. 265
- ^ ユスティヌス、『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注5
- ^ a b シャムー 2011, p. 145
- ^ クレイトン 1999, p. 270
- ^ a b c シャムー 2011, p. 146
- ^ a b c d 山花 2010, p. 170
- ^ a b c 波部 2014, p. 238
- ^ ポリュビオス『歴史』第5巻§107, 城江訳、p. 276
- ^ a b c シャムー 2011, p. 147
- ^ a b ウォールバンク 1988, p. 167
- ^ 周藤 2014a, p. 6
- ^ 周藤 2014a, p. 1
- ^ a b 周藤 2014a, p. 9
- ^ a b シャムー 2011, p. 150
- ^ シャムー 2011, p. 151
- ^ シャムー 2011, p. 152
- ^ 本村 1997a, p. 203
- ^ シャムー 2011, pp. 158-159
- ^ a b c 周藤 2014a, p. 10
- ^ ポリュビオス、『歴史3』第18巻, 城江訳、p. 495, 訳注7
- ^ a b 山花 2010, p. 171
- ^ a b c d e f g h i j k l クレイトン 1999, p. 271
- ^ 周藤 2014a, pp. 7,12
- ^ a b 山花 2010, p. 172
- ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 170
- ^ クレイトン 1999, p. 272
- ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 190
- ^ a b c d e シャムー 2011, p. 191
- ^ a b c d e f 山花 2010, p. 173
- ^ a b c シャムー 2011, p. 192
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- ^ 拓殖 1982, p. 34
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