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[[和歌山県]]出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に[[逓信省]]に入り、退官後は実業家として活動する傍ら[[東京学園高等学校|東京商業学校]]の創設に関わった。 |
[[和歌山県]]出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に[[逓信省]]に入り、退官後は実業家として活動する傍ら[[東京学園高等学校|東京商業学校]]の創設に関わった。 |
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[[和歌山県桐蔭高等学校|和歌山中学]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]から[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業し、[[明治]]31年︵[[1898年]]︶に[[逓信省]]へ入省。[[郵便貯金]]の実務を学びに[[ベルギー]]へ留学し帰国後に為替貯金局長︵[[1913年]]・[[大正]]2年︶。大正4年︵[[1915年]]︶に[[台湾総督府]]の[[明石元二郎]]に招かれて民政長官となり、更に総務長官︵[[1919年]]・大正8年︶となる。
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[[和歌山県立桐蔭高等学校|和歌山中学]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]から[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業し、[[明治]]31年︵[[1898年]]︶に[[逓信省]]へ入省。[[郵便貯金]]の実務を学びに[[ベルギー]]へ留学し帰国後に為替貯金局長︵[[1913年]]・[[大正]]2年︶。大正4年︵[[1915年]]︶に[[台湾総督府]]の[[明石元二郎]]に招かれて民政長官となり、更に総務長官︵[[1919年]]・大正8年︶となる。
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大正10年︵[[1921年]]︶に台湾総督府を退官すると[[朝日新聞|朝日新聞社]]に入社、専務・副社長を歴任した。 昭和12年︵[[1937年]]︶に[[貴族院議員]]に勅選され、同時に[[日本体育協会]]会長に就任。昭和18年︵[[1943年]]︶に[[日本放送協会]]会長となり、昭和20年︵[[1945年]]︶に[[鈴木貫太郎内閣]]で[[国務大臣]]︵[[内閣情報局]]総裁︶となる。終戦直後[[戦犯]]として一時拘留された後に[[公職追放]]を受け、東京商業学校→[[東京学園高等学校|東京学園]]の運営に関わりながら[[第3回参議院議員通常選挙|1953年の参院選]]に無所属で出馬するも落選に終わっている。
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大正10年︵[[1921年]]︶に台湾総督府を退官すると[[朝日新聞|朝日新聞社]]に入社、専務・副社長を歴任した。 昭和12年︵[[1937年]]︶に[[貴族院議員]]に勅選され、同時に[[日本体育協会]]会長に就任。昭和18年︵[[1943年]]︶に[[日本放送協会]]会長となり、昭和20年︵[[1945年]]︶に[[鈴木貫太郎内閣]]で[[国務大臣]]︵[[内閣情報局]]総裁︶となる。終戦直後[[戦犯]]として一時拘留された後に[[公職追放]]を受け、東京商業学校→[[東京学園高等学校|東京学園]]の運営に関わりながら[[第3回参議院議員通常選挙|1953年の参院選]]に無所属で出馬するも落選に終わっている。
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2015年5月29日 (金) 09:46時点における版
下村 宏 しもむら ひろし | |
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下村宏 | |
生年月日 | 1875年5月11日 |
出生地 | 和歌山県 |
没年月日 | 1957年12月9日(82歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
前職 | 日本放送協会会長 |
内閣情報局総裁 | |
内閣 | 鈴木貫太郎内閣 |
在任期間 | 1945年4月7日 - 1945年8月17日 |
下村 宏︵しもむら ひろし、明治8年︵1875年︶5月11日 - 昭和32年︵1957年︶12月9日︶は、明治・大正・昭和の官僚、新聞経営者、政治家、歌人。号は海南︵かいなん︶。
玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られている。拓殖大学第6代学長。
和歌山県串本町潮岬の下村宏歌碑
歌人としては大正4年に佐佐木信綱主宰の竹柏会に入会し、竹柏会の﹁心の花﹂に多くの作品を寄せると共に生涯に5冊の歌集を出した。大正10年、兵庫県西宮市の苦楽園に邸宅を構え﹁海南荘﹂と称して約15年間ここに住み、その間、佐佐木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて歌会や各種集会を催した。
略歴
和歌山県出身。父・房次郎︵1856年5月7日 - 1913年2月21日︶は﹁和歌山日日新聞﹂を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、明治31年︵1898年︶に逓信省へ入省。郵便貯金の実務を学びにベルギーへ留学し帰国後に為替貯金局長︵1913年・大正2年︶。大正4年︵1915年︶に台湾総督府の明石元二郎に招かれて民政長官となり、更に総務長官︵1919年・大正8年︶となる。 大正10年︵1921年︶に台湾総督府を退官すると朝日新聞社に入社、専務・副社長を歴任した。 昭和12年︵1937年︶に貴族院議員に勅選され、同時に日本体育協会会長に就任。昭和18年︵1943年︶に日本放送協会会長となり、昭和20年︵1945年︶に鈴木貫太郎内閣で国務大臣︵内閣情報局総裁︶となる。終戦直後戦犯として一時拘留された後に公職追放を受け、東京商業学校→東京学園の運営に関わりながら1953年の参院選に無所属で出馬するも落選に終わっている。 息子に劇団東演を主宰した演出家下村正夫︵1913年 - 1977年︶がいる。歌人
玉音放送
昭和20年︵1945年︶8月15日正午、昭和天皇による玉音放送に際し、情報局総裁として本放送の前後に言葉を述べた。栄典
●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章[1] ●1945年︵昭和20年︶5月17日 - 勲一等瑞宝章[2]著作等
著書 ●﹃新聞に入りて﹄日本評論社、1926年 ●﹃人口問題講話﹄朝日新聞社 朝日常識講座第1巻、1928年 ●﹃終戦秘史﹄大日本雄弁会講談社、1950年、講談社学術文庫、1985年 ●﹃我等の暮し方考え方﹄ 池田書店、1953年 ほか多数 講演 ●﹁新聞の功罪﹂(1925年3月、東京放送局より放送) 社団法人東京放送局編﹃ラヂオ講演集 第一輯﹄日本ラジオ協会、1925年11月、23~30頁参考文献
●坂本慎一 ﹃ラジオの戦争責任﹄ PHP新書 2008年 ●坂本慎一 ﹃玉音放送をプロデュースした男 - 下村宏﹄ PHP研究所 2010年下村を描いた作品
●アニメンタリー 決断 - 太平洋戦争編の最終回﹁最後の決断﹂は下村の視点でポツダム宣言受諾から宮城事件、玉音放送までを描いている。 ●日本の一番長い日ギャラリー
下村 宏
脚注
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 内田嘉吉 |
台湾総督府民政長官・総務長官 第7代:1915 - 1921 |
次代 賀来佐賀太郎 |
学職 | ||
先代 宇垣一成 |
拓殖大学総長(学長) 第6代:1945 - 1946 |
次代 高垣寅次郎 |
その他の役職 | ||
先代 大島又彦 |
日本体育協会会長 第4代:1937 - 1942 |
次代 平沼亮三 |