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⚫ | '''九鬼 周造'''(くき しゅうぞう、[[1888年]][[2月15日]] - [[1941年]][[5月6日]])は、[[日本の哲学者]]。[[京都帝国大学]] |
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出身は[[東京府]][[東京市]]<ref>[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-kuki_guidance/ |
出身は[[東京府]][[東京市]]<ref>[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-kuki_guidance/ 宮野真生子﹁思想家紹介﹂]</ref>。[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文科大学︵文学部︶]][[哲学|哲学科]]卒業、[[京都大学|京都帝国大学]][[博士︵文学︶|文学博士]]。[[実存哲学]]の新展開を試み、日本固有の精神構造あるいは[[美意識]]を分析した。日本文化を分析した著書﹃﹁[[いき]]﹂の構造﹄︵1930年︶で知られる。ほかに、﹃偶然性の問題﹄︵1935年︶など。
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== 人物・経歴 == |
== 人物・経歴 == |
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父は[[明治]]を代表する[[文部省|文部]][[官僚]]で[[男爵]]の[[九鬼隆一]]。祖先は[[九鬼水軍]]を率いた[[戦国武将]]の[[九鬼嘉隆]]。母の[[九鬼波津子]]は周造を妊娠中に[[岡倉覚三]]︵天心︶と恋におち︵隆一は岡倉の上司であった︶、隆一と別居︵のち離縁︶するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃、訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
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父は[[明治]]を代表する[[文部省|文部]][[官僚]]で[[男爵]]の[[九鬼隆一]]。祖先は[[九鬼水軍]]を率いた[[戦国武将]]の[[九鬼嘉隆]]。母の[[九鬼波津子]]は周造を妊娠中に[[岡倉覚三]]︵天心︶と恋におち︵隆一は岡倉の上司であった︶、隆一と別居︵のち離縁︶するという事態となった<ref>[https://doi.org/10.14990/00003552 古川雄嗣﹁九鬼周造の人生と哲学﹂]</ref>。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃、訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
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[[1904年]]に[[東京高等師範学校]]附属中学校︵現‥[[筑波大学附属中学校・高等学校]]︶卒業。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]独法科に進むも文科に転じる。[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文科大学]]哲学科では[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に師事した |
[[1904年]]に[[東京高等師範学校]]附属中学校︵現‥[[筑波大学附属中学校・高等学校]]︶卒業。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]独法科に進むも文科に転じる。[[東京大学#沿革|東京帝国大学]][[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文科大学]]哲学科では[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に師事した。
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大学院中退後、妻とともに1921年よりヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学する<ref name=kohama>[http://id.nii.ac.jp/1085/00001251/ 根岸の女 : 九鬼周造と荷風]小浜善信 研究年報 巻48 2012-03-23</ref>。初め[[ドイツ国|ドイツ]]に渡り、[[新カント派]]の[[ハインリヒ・リッケルト]]に師事するが、それでは満たされず、のち[[フランス]]に渡り、[[アンリ・ベルクソン]]と面識を得るなどし、その哲学から強い影響を受ける。と同時に遊興にも走った。パリ時代には、[[フランス語]]の個人教師として、まだ学生だった[[ジャン・ポール・サルトル]]を雇っていた<ref>[https://www.ndl.go.jp/france/jp/column/s1_3.html 九鬼周造―巴里から江戸へ]近代日本とフランス、国立国会図書館</ref>。その後再びドイツに留学すると、今度は[[マルティン・ハイデッガー]]などから、[[現象学]]を学んだ。九鬼は[[三木清]]や[[和辻哲郎]]などとともに日本でハイデッガーの哲学を受容した最初の世代に当たり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデッガー受容において果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデッガーの方も九鬼を高く評価している<ref>ハイデッガー全集第12巻『言葉への途上』、「言葉についての対話より」、[[創文社]]、1996年、など。</ref>。 |
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[[1929年]]に帰国してから[[1941年]]に没するまで、[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都帝国大学文学部]]哲学科で、[[ルネ・デカルト|デカルト]]、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした当時の現代哲学などを教えた。1929年に京都帝国大学講師に就任、1932年に博士論文﹁偶然性﹂を提出し京都帝国大学[[博士︵文学︶|文学博士]]の学位を取得<ref>[ |
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[[1929年]]に帰国してから[[1941年]]に没するまで、[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都帝国大学文学部]]哲学科で、[[ルネ・デカルト|デカルト]]、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした当時の現代哲学などを教えた。1929年に京都帝国大学講師に就任、1932年に博士論文﹁偶然性﹂を提出し京都帝国大学[[博士︵文学︶|文学博士]]の学位を取得<ref>[https://www.iwanami.co.jp/book/b476474.html 岩波書店﹁九鬼周造略年譜﹂]</ref>、そして1933年助教授となり、1935年から西洋近世哲学史講座の教授となった<ref>http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/denshi/g_works/gw23_kuki.pdf</ref>。
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ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった九鬼は、パリでのちに﹃﹁いき﹂の構造﹄として発行される草稿を完成︵1926年︶。帰国後、その草稿を手直しし、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]から受け、育んだ洞察を活かして﹁いきとは、垢抜けして、張のある、色っぽさ﹂の言葉のある﹃﹁いき﹂の構造﹄︵[[1930年]]︶を発表した。これは、日本の[[江戸時代]]の[[遊廓]]における美意識である﹁[[いき]]﹂︵粋︶を、[[現象学]]という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文で、これを考察の対象にしたということだけで当時は驚きをもって迎えられた。
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ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった九鬼は、パリでのちに﹃﹁いき﹂の構造﹄として発行される草稿を完成︵1926年︶。帰国後、その草稿を手直しし、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]から受け、育んだ洞察を活かして﹁いきとは、垢抜けして、張のある、色っぽさ﹂の言葉のある﹃﹁いき﹂の構造﹄︵[[1930年]]︶を発表した。これは、日本の[[江戸時代]]の[[遊廓]]における美意識である﹁[[いき]]﹂︵粋︶を、[[現象学]]という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文で、これを考察の対象にしたということだけで当時は驚きをもって迎えられた。
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九鬼は[[1941年]]に[[腹膜炎]]で死去し、京都の[[法然院]]で、[[谷崎潤一郎]]や[[内藤湖南]]らとともに眠っている。墓石の[[揮毫]]は同僚の[[西田幾多郎]]によるもので、側面には西田が翻訳も行った[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の﹁さすらい人の夜の歌 |
九鬼は[[1941年]]に[[腹膜炎]]で死去し、京都の[[法然院]]で、[[谷崎潤一郎]]や[[内藤湖南]]らとともに眠っている。墓石の[[揮毫]]は同僚の[[西田幾多郎]]によるもので、側面には西田が翻訳も行った[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の﹁さすらい人の夜の歌﹂ (''Wandrers Nachtlied'') の一節が刻まれている。
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⚫ | 九鬼の遺稿と蔵書は親友の[[天野貞祐]]([[甲南高等学校 (旧制)|旧制甲南高等学校]]校長)に託され、現在は[[甲南大学]]図書館に九鬼周造文庫として保存されている。 |
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== 家族 == |
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⚫ | 九鬼の遺稿と蔵書は親友の[[天野貞祐]]( |
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* 父・[[九鬼隆一]](1852年 - 1931年) - 男爵 |
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* 母・[[九鬼波津子]](1860年 - 1931年) - 元芸妓。[[岡倉天心]]との不倫で騒がれた。 |
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* 妻・九鬼縫子(1895年生) - 周造の亡兄・一造の元妻。[[中橋徳五郎]]の娘、[[中橋武一]]の妹。一造との間に2児あり。1918年に周造と再婚して1921年に周造とともに渡欧、1926年に単身帰国。1931年に長男に反対されたことを理由に周造に離婚を申し出る。[[兵庫県]][[三田市]]の九鬼家の[[菩提寺]][[心月院]]の墓所には一造の妻として葬られている。<ref name=kohama/><ref>[https://puboo.jp/book/73711 九鬼周造年表]荒木優太, ブクログ, 2013年07月15日</ref> |
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== 哲学 == |
== 哲学 == |
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日本哲学研究者[[宮野真生子]] |
日本哲学研究者[[宮野真生子]](1977年 - 2019年)執筆の「思想家紹介」(2003年)において、九鬼の哲学は「二元性」という言葉によって説明されている。 |
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……九鬼の哲学は「二元性」という特徴を持つ。まず、西洋と日本との伝統のあいだでの二元性。この問題は『「いき」の構造』へと結実していく。さらに、「偶然性」と「必然性」あるいは「自己」と「他者」の二元性。この問題から結実するのが、主著『偶然性の問題』である。そこには、この世に偶然生まれ落ちた「この私」の個体性と実存への眼差しと、論理では語り尽くせない「この私」のあり方を如何に語り出すのか、という問いがある。それゆえ、西洋哲学の根幹に存するイデア中心主義に対して、論理からこぼれおちる「偶然性」を取り上げた九鬼の哲学は徹底して個体にこだわる実存哲学であった。さらに、自己と他者の「独立の二元の邂逅」から偶然性と個体性を語る九鬼哲学は、現代哲学における「差異」という観点とも響き合い、現在注目を集めている。 |
……九鬼の哲学は「二元性」という特徴を持つ。まず、西洋と日本との伝統のあいだでの二元性。この問題は『「いき」の構造』へと結実していく。さらに、「偶然性」と「必然性」あるいは「自己」と「他者」の二元性。この問題から結実するのが、主著『偶然性の問題』である。そこには、この世に偶然生まれ落ちた「この私」の個体性と実存への眼差しと、論理では語り尽くせない「この私」のあり方を如何に語り出すのか、という問いがある。それゆえ、西洋哲学の根幹に存するイデア中心主義に対して、論理からこぼれおちる「偶然性」を取り上げた九鬼の哲学は徹底して個体にこだわる実存哲学であった。さらに、自己と他者の「独立の二元の邂逅」から偶然性と個体性を語る九鬼哲学は、現代哲学における「差異」という観点とも響き合い、現在注目を集めている。 |
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*九鬼は留学中、フランスで若き[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]から個人的に[[フランス語]]の練習を兼ねてフランス哲学について歓談したという逸話がある。一方でサルトルの方も、この時九鬼から現象学などの哲学についての影響を受けたのではないか、という説がある。 |
*九鬼は留学中、フランスで若き[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]から個人的に[[フランス語]]の練習を兼ねてフランス哲学について歓談したという逸話がある。一方でサルトルの方も、この時九鬼から現象学などの哲学についての影響を受けたのではないか、という説がある。 |
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*九鬼は嫂︵亡くなった次兄・九鬼一造の妻︶の縫子︵[[中橋徳五郎]]の長女︶と30歳の時に結婚するも、この結婚は破綻した。2度目に結婚した相手は[[祇園]]の芸妓であった。これには彼の生い立ちや独特の美意識が影響していたのではないかと思われるが、周囲では﹁九鬼先生が講義にたびたび遅刻してくるのは、毎朝祇園から[[人力車]]で帝大に乗り付けてこられるからだ﹂という噂がまことしやかに話されていたとのことである。
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*九鬼は嫂︵亡くなった次兄・九鬼一造の妻︶の縫子︵[[中橋徳五郎]]の長女︶と30歳の時に結婚するも、この結婚は破綻した。2度目に結婚した相手は[[祇園]]の芸妓であった。これには彼の生い立ちや独特の美意識が影響していたのではないかと思われるが、周囲では﹁九鬼先生が講義にたびたび遅刻してくるのは、毎朝祇園から[[人力車]]で帝大に乗り付けてこられるからだ﹂という噂がまことしやかに話されていたとのことである。
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*主な弟子に、日本で最初に医学を主題に哲学講座「医学概論」を開いた[[澤瀉久敬]](大阪大学名誉教授などを歴任 |
*主な弟子に、日本で最初に医学を主題に哲学講座「医学概論」を開いた[[澤瀉久敬]](大阪大学名誉教授などを歴任)がおり、澤瀉は九鬼全集編集委員(他の編集委員には[[天野貞祐]]ら)でもあった。 |
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== 著作 == |
== 著作 == |
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=== 全集 === |
=== 全集 === |
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*『九鬼周造全集』(全11巻+別巻 資料・年譜)、岩波書店、1981年-1982年 |
*『九鬼周造全集』(全11巻+別巻 資料・年譜)、岩波書店、1981年-1982年 |
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**著作・講義録 |
**著作・講義録などを収録。新版復刊1990年-1991年、2011-2012年。 |
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*2021年になって、全集に収録されていない、九鬼の自筆書簡草稿や九鬼宛の書簡が発見されたと報じられた<ref>[https://www.asahi.com/sp/articles/ASPCF36FFPC1PIHB02F.html 朝日新聞デジタル「九鬼周造の書簡草稿見つかる 西田幾多郎、林芙美子からの書簡も」]</ref><ref>[https://digital.asahi.com/sp/articles/photo/AS20211113000881.html 林芙美子からの書簡]</ref>。 |
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== 関連文献 == |
== 関連文献 == |
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*[[安田武]]・[[多田道太郎]]『「いき」の構造』を読む』[[朝日選書]]、1979年/[[ちくま学芸文庫]]、2015年。 |
*[[安田武]]・[[多田道太郎]]『「いき」の構造』を読む』[[朝日選書]]、1979年/[[ちくま学芸文庫]]、2015年。 |
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*[[野田又夫]]「九鬼先生の哲学」『思想』1980年2月号、[[岩波書店]]、1980年。 |
*[[野田又夫]]「九鬼先生の哲学」『思想』1980年2月号、[[岩波書店]]、1980年。 |
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*[[坂部恵]]『不在の歌 九鬼周造の世界』TBSブリタニカ、1990年。 |
*[[坂部恵]]『不在の歌 九鬼周造の世界』[[TBSブリタニカ]]、1990年。 |
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*[[カール・レーヴィット]] 『ナチズムと私の生活 仙台からの告発』法政大学出版局、1990年。 |
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*奈良博訳・全注釈『対訳 「いき」の構造』[[講談社インターナショナル]]、2008年。 |
*奈良博訳・全注釈『対訳 「いき」の構造』[[講談社インターナショナル]]、2008年。 |
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*[[田中久文]]『九鬼周造 偶然と自然』[[ぺりかん社]]、1992年、新版2001年。 |
*[[田中久文]]『九鬼周造 偶然と自然』[[ぺりかん社]]、1992年、新版2001年。 |
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**新版『九鬼周造』講談社学術文庫、2022年。 |
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*[[大東俊一]]『九鬼周造と日本文化論』梓出版社、1996年。 |
*[[大東俊一]]『九鬼周造と日本文化論』梓出版社、1996年。 |
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*[[坂部恵]]・[[藤田正勝]]・[[鷲田清一]]編『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房、2002年。 |
*[[坂部恵]]・[[藤田正勝]]・[[鷲田清一]]編『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房、2002年。 |
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*小浜善信『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』昭和堂、2006年。 |
*小浜善信『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』昭和堂、2006年。 |
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*[[大久保喬樹]]編・解説『九鬼周造「いきの構造」』[[角川ソフィア文庫]]、2011年。 |
*[[大久保喬樹]]編・解説『九鬼周造「いきの構造」』[[角川ソフィア文庫]]、2011年。 |
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*[[ |
*[[古川雄嗣]]『偶然と運命 九鬼周造の倫理学』ナカニシヤ出版、2015年。 |
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*[[藤田正勝]]『九鬼周造 理知と情熱のはざまに立つ〈ことば〉の哲学』[[講談社]]選書メチエ、2016年。 |
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*『総特集・九鬼周造 [[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』[[青土社]]、2017年1月臨時増刊号(第四四巻・第二三号)、2016年12月。 |
*『総特集・九鬼周造 [[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』[[青土社]]、2017年1月臨時増刊号(第四四巻・第二三号)、2016年12月。 |
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*『特集九鬼周造 理想』理想社(第698号)、2017年3月。 |
*『特集九鬼周造 理想』理想社(第698号)、2017年3月。 |
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* [[粋]]・[[野暮]] |
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* [[甲南大学]] |
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* [[フランス現代思想]] |
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== 外部リンク == |
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*{{青空文庫著作者|65}} |
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*[https://www.iwanami.co.jp/book/b476474.html 岩波書店「九鬼周造略年譜」] |
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*[https://www.project-archive.org/0/029.html 九鬼周造「偶然の諸相」] - ARCHIVE |
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2024年1月10日 (水) 07:47時点における版
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生誕 |
1888年2月15日![]() |
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死没 |
1941年5月6日(53歳没)![]() |
時代 | 20世紀の哲学 |
地域 | 日本哲学 |
出身校 | 東京帝国大学文科大学 |
学派 | 大陸哲学、実存主義、京都学派 |
研究分野 | 形而上学、存在論、時間論、偶然性、美学、いき、倫理学 |
主な概念 | 原始偶然(絶対的形而上的必然、形而上的絶対者)、偶然性、いきの構造、実存 |
人物・経歴
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼水軍を率いた戦国武将の九鬼嘉隆。母の九鬼波津子は周造を妊娠中に岡倉覚三︵天心︶と恋におち︵隆一は岡倉の上司であった︶、隆一と別居︵のち離縁︶するという事態となった[2]。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃、訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。 1904年に東京高等師範学校附属中学校︵現‥筑波大学附属中学校・高等学校︶卒業。第一高等学校独法科に進むも文科に転じる。東京帝国大学文科大学哲学科ではラファエル・フォン・ケーベルに師事した。 大学院中退後、妻とともに1921年よりヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学する[3]。初めドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、それでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、その哲学から強い影響を受ける。と同時に遊興にも走った。パリ時代には、フランス語の個人教師として、まだ学生だったジャン・ポール・サルトルを雇っていた[4]。その後再びドイツに留学すると、今度はマルティン・ハイデッガーなどから、現象学を学んだ。九鬼は三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデッガーの哲学を受容した最初の世代に当たり、﹁実存﹂といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデッガー受容において果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデッガーの方も九鬼を高く評価している[5]。 1929年に帰国してから1941年に没するまで、京都帝国大学文学部哲学科で、デカルト、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした当時の現代哲学などを教えた。1929年に京都帝国大学講師に就任、1932年に博士論文﹁偶然性﹂を提出し京都帝国大学文学博士の学位を取得[6]、そして1933年助教授となり、1935年から西洋近世哲学史講座の教授となった[7]。 ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった九鬼は、パリでのちに﹃﹁いき﹂の構造﹄として発行される草稿を完成︵1926年︶。帰国後、その草稿を手直しし、ハイデッガーから受け、育んだ洞察を活かして﹁いきとは、垢抜けして、張のある、色っぽさ﹂の言葉のある﹃﹁いき﹂の構造﹄︵1930年︶を発表した。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である﹁いき﹂︵粋︶を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文で、これを考察の対象にしたということだけで当時は驚きをもって迎えられた。 九鬼は1941年に腹膜炎で死去し、京都の法然院で、谷崎潤一郎や内藤湖南らとともに眠っている。墓石の揮毫は同僚の西田幾多郎によるもので、側面には西田が翻訳も行ったゲーテの﹁さすらい人の夜の歌﹂ (Wandrers Nachtlied) の一節が刻まれている。 九鬼の遺稿と蔵書は親友の天野貞祐︵旧制甲南高等学校校長︶に託され、現在は甲南大学図書館に九鬼周造文庫として保存されている。家族
●父・九鬼隆一︵1852年 - 1931年︶ - 男爵 ●母・九鬼波津子︵1860年 - 1931年︶ - 元芸妓。岡倉天心との不倫で騒がれた。 ●妻・九鬼縫子︵1895年生︶ - 周造の亡兄・一造の元妻。中橋徳五郎の娘、中橋武一の妹。一造との間に2児あり。1918年に周造と再婚して1921年に周造とともに渡欧、1926年に単身帰国。1931年に長男に反対されたことを理由に周造に離婚を申し出る。兵庫県三田市の九鬼家の菩提寺心月院の墓所には一造の妻として葬られている。[3][8]哲学
日本哲学研究者宮野真生子︵1977年 - 2019年︶執筆の﹁思想家紹介﹂︵2003年︶において、九鬼の哲学は﹁二元性﹂という言葉によって説明されている。 ……九鬼の哲学は﹁二元性﹂という特徴を持つ。まず、西洋と日本との伝統のあいだでの二元性。この問題は﹃﹁いき﹂の構造﹄へと結実していく。さらに、﹁偶然性﹂と﹁必然性﹂あるいは﹁自己﹂と﹁他者﹂の二元性。この問題から結実するのが、主著﹃偶然性の問題﹄である。そこには、この世に偶然生まれ落ちた﹁この私﹂の個体性と実存への眼差しと、論理では語り尽くせない﹁この私﹂のあり方を如何に語り出すのか、という問いがある。それゆえ、西洋哲学の根幹に存するイデア中心主義に対して、論理からこぼれおちる﹁偶然性﹂を取り上げた九鬼の哲学は徹底して個体にこだわる実存哲学であった。さらに、自己と他者の﹁独立の二元の邂逅﹂から偶然性と個体性を語る九鬼哲学は、現代哲学における﹁差異﹂という観点とも響き合い、現在注目を集めている。 — 宮野真生子﹁思想家紹介﹂、﹁九鬼周造﹂ 主な著作は、﹃偶然性の問題﹄、﹃﹁いき﹂の構造﹄、﹃人間と実存﹄など。宮野の思想家紹介においては、﹃人間と実存﹄収録の﹁哲学私見﹂が九鬼哲学の入門書として推薦されている[9]。逸話
●九鬼は留学中、フランスで若きサルトルから個人的にフランス語の練習を兼ねてフランス哲学について歓談したという逸話がある。一方でサルトルの方も、この時九鬼から現象学などの哲学についての影響を受けたのではないか、という説がある。 ●九鬼は嫂︵亡くなった次兄・九鬼一造の妻︶の縫子︵中橋徳五郎の長女︶と30歳の時に結婚するも、この結婚は破綻した。2度目に結婚した相手は祇園の芸妓であった。これには彼の生い立ちや独特の美意識が影響していたのではないかと思われるが、周囲では﹁九鬼先生が講義にたびたび遅刻してくるのは、毎朝祇園から人力車で帝大に乗り付けてこられるからだ﹂という噂がまことしやかに話されていたとのことである。 ●主な弟子に、日本で最初に医学を主題に哲学講座﹁医学概論﹂を開いた澤瀉久敬︵大阪大学名誉教授などを歴任︶がおり、澤瀉は九鬼全集編集委員︵他の編集委員には天野貞祐ら︶でもあった。著作
単著・講義・随筆集
●﹃時間論﹄、フランス語原文は1928年、フランス・パリで刊行。 ●﹃時間論 他二篇﹄︵岩波文庫、2016年、小浜善信編・注解︶で新版刊。﹃時間論﹄は処女作、1921年から1928年のヨーロッパ遊学︵留学︶の集大成であり、九鬼がフランス語で執筆、パリの出版社で単行本を刊行[10]。文庫版は﹃時間論﹄の日本語全訳、他二篇は、帰国後の論文﹁時間の問題﹂︵1929年︶と、﹁文学の形而上学﹂︵1940年︶[11]。 ●﹃﹁いき﹂の構造﹄岩波書店︿初版﹀、1930年。 ●﹃﹁いき﹂の構造 他二篇﹄ 岩波文庫︵改版︶、ワイド版も刊、解説多田道太郎。 ●﹃いきの構造﹄藤田正勝全注釈、講談社学術文庫、2003年。 ●﹃偶然性の問題﹄岩波書店︿初版﹀、1935年。 ●﹃偶然性の問題﹄岩波文庫、2012年。小浜善信注解・解説。 ●﹃人間と実存﹄岩波書店︿初版﹀、1939年。 ●﹃人間と実存﹄ 岩波文庫、2016年。藤田正勝注解・解説 ●﹃文藝論﹄岩波書店︿初版﹀、1941年。生前最後に執筆していた著作で、病没4か月後に刊行された。 ●﹃遠里丹婦麗天﹄岩波書店︿初版﹀、1941年。遺稿集の随筆集。 ●﹃巴里心景﹄甲鳥書林︿初版﹀、1942年。 ●﹃西洋近世哲学史稿﹄岩波書店 上・下︿初版﹀、1944年。 ●﹃現代フランス哲学講義﹄岩波書店︿初版﹀、1957年。選集など
●﹃九鬼周造随筆集﹄ 菅野昭正編・解説、岩波文庫、1991年。 ●﹃九鬼周造エッセンス﹄ 田中久文編・解説、こぶし書房、2001年。 ●﹃偶然性の問題 文藝論﹄ 坂部恵編、燈影舎・京都哲学撰書、2000年。 ●﹃エッセイ・文学概論﹄ 大橋良介編、燈影舎・京都哲学撰書、2003年。 ●﹃偶然と驚きの哲学 九鬼哲学入門文選﹄ 書肆心水、2007年、増補新版2011年。 ●﹃九鬼周造 近代日本思想選﹄ 田中久文編、ちくま学芸文庫、2020年。全集
●﹃九鬼周造全集﹄︵全11巻+別巻 資料・年譜︶、岩波書店、1981年-1982年 ●著作・講義録などを収録。新版復刊1990年-1991年、2011-2012年。 ●2021年になって、全集に収録されていない、九鬼の自筆書簡草稿や九鬼宛の書簡が発見されたと報じられた[12][13]。関連文献
●安田武・多田道太郎﹃﹁いき﹂の構造﹄を読む﹄朝日選書、1979年/ちくま学芸文庫、2015年。 ●野田又夫﹁九鬼先生の哲学﹂﹃思想﹄1980年2月号、岩波書店、1980年。 ●坂部恵﹃不在の歌 九鬼周造の世界﹄TBSブリタニカ、1990年。 ●カール・レーヴィット ﹃ナチズムと私の生活 仙台からの告発﹄法政大学出版局、1990年。 ●奈良博訳・全注釈﹃対訳 ﹁いき﹂の構造﹄講談社インターナショナル、2008年。 ●田中久文﹃九鬼周造 偶然と自然﹄ぺりかん社、1992年、新版2001年。 ●新版﹃九鬼周造﹄講談社学術文庫、2022年。 ●大東俊一﹃九鬼周造と日本文化論﹄梓出版社、1996年。 ●坂部恵・藤田正勝・鷲田清一編﹃九鬼周造の世界﹄ミネルヴァ書房、2002年。 ●北康利﹃男爵 九鬼隆一﹄神戸新聞総合出版センター、2003年。 ●増補版﹃九鬼と天心 明治のドン・ジュアンたち﹄PHP研究所、2008年。 ●村上嘉隆﹃九鬼周造 偶然性の哲学﹄教育報道社、2006年。 ●小浜善信﹃九鬼周造の哲学 漂泊の魂﹄昭和堂、2006年。 ●大久保喬樹編・解説﹃九鬼周造﹁いきの構造﹂﹄角川ソフィア文庫、2011年。 ●古川雄嗣﹃偶然と運命 九鬼周造の倫理学﹄ナカニシヤ出版、2015年。 ●藤田正勝﹃九鬼周造 理知と情熱のはざまに立つ︿ことば﹀の哲学﹄講談社選書メチエ、2016年。 ●﹃総特集・九鬼周造 現代思想﹄青土社、2017年1月臨時増刊号︵第四四巻・第二三号︶、2016年12月。 ●﹃特集九鬼周造 理想﹄理想社︵第698号︶、2017年3月。脚注
関連項目
外部リンク
- 九鬼周造:作家別作品リスト - 青空文庫
- 岩波書店「九鬼周造略年譜」
- 九鬼周造「偶然の諸相」 - ARCHIVE