乾正方
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乾 正方︵いぬい まさかた、生年不詳 - 1715年7月16日︵正徳5年6月16日︶︶は、江戸時代前期の土佐藩上士。禄高は500石。板垣支流乾氏の第4代。幼名は彦市で、通称は庄右衛門。家紋は﹁榧ノ内十文字﹂。
来歴
生い立ち
土佐藩上士︵馬廻格・500石︶乾正祐︵與惣兵衛︶の嫡男として高知城下︵現高知県高知市︶に生まれる。 母は早崎石見の娘。 1649年1月21日︵慶安元年12月9日︶、土佐藩主・山内忠義に惣領御目見え仰せ付けられる。 1672年7月6日︵寛文12年6月12日︶父乾正祐が、江戸で病死する。跡目相続以降
673年︵寛文13年︶、土佐藩主・山内豊昌より、亡父跡目︵500石︶の内、役料である足軽知︵200石︶を除いた、元々の知行高である300石を無相違下し置かれ、大御小性を仰せ付けられた。 1679年11月21日︵延宝7年10月18日︶、御持筒支配を仰せ付けられる。 1688年1月1日︵貞享4年11月28日︶、外輪足軽知︵200石︶を下し置かれた。 1689年10月12日︵元禄2年8月29日︶、幡多郡中村が御領知に相成候につき、中村への在番を仰せ付けられる。 1690年︵元禄3年︶、江戸勤番を仰せ付けられる。 1700年10月12日︵元禄13年9月1日︶、土佐藩主・山内豊房が初めて土佐へ御入部され御着城されるのにあたって、この御礼のため江戸へ御使者を仰せ付けられ、10月28日︵旧暦9月17日︶に江戸へ着いたが、豊房が御遠行となった為、差し返された。 1703年︵元禄16年︶、当分、御馬廻支配を仰せ付けられる。 1709年10月24日︵宝永6年9月22日︶、土佐藩主・山内豊隆の時代、御馬廻組頭役を仰せ付けられ、役領知200石を下し置かれた。ただしそれまでの鉄砲知︵200石︶は差し戻されたので、総禄高は500石である。晩年
1711年︵正徳元年︶、病気に依って願い奉り、組頭役を差し免され、御馬廻を仰せ付けられた。 1715年7月16日︵正徳5年6月16日︶病死。 墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山︵現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近︶の山頂にある代々墓地に建てられた。家族
- 祖父:乾正行(金右衛門)
- 祖母:毛利治郎右衛門の娘
- 父:乾正祐(與惣兵衛)
- 母:早崎石見の娘
- 本人:乾正方(庄右衛門)
- 妻 山内内匠(前野貞次)の娘
- 長男:乾加助
- 前妻:雨森氏春(九太夫)の娘(離別)
- 継妻:服部傳太夫の娘
- 二男:乾正清(与惣左衛門)
- 妻:安積良仍(仁右衞門)の娘
- 弟:乾十次郎
- 甥:乾十助
参考文献
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