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山内 豊昌︵やまうち とよまさ︶は、土佐国高知藩︵土佐藩︶の第4代藩主。
寛永18年︵1641年︶8月29日、第3代藩主・山内忠豊の長男として生まれる。明暦3年︵1657年︶に元服し、寛文9年︵1669年︶6月15日の父の隠居により家督を継いだ。藩主権力の確立のために、天和元年︵1681年︶に地方知行制を蔵米支給制に改め、天和3年︵1683年︶以後は年々の年貢を平均して徴収する平等免制度とした。元禄3年︵1690年︶には﹁元禄大定目﹂を制定して、藩士や領民の生活を統制する。また、豊昌は剣術の達人で、武術を奨励した。
しかし元禄元年︵1688年︶、支藩中村藩の改易、藩政改革における交通路改築の失敗、さらには自らの能楽・食道楽による藩財政悪化、山林荒廃を招くなどの失政もあった。これら一連の改革を天和の改革という。
元禄13年︵1700年︶9月14日に江戸で死去した。享年60。男児がなかったため、分家の山内豊房を婿養子として跡を継がせた。
山内氏 土佐藩4代藩主 (1669年 - 1700年) |
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