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「国鉄C54形蒸気機関車」の版間の差分

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* 汽車製造(6両):C54 9 - 14(製造番号1168 - 1173)

* 汽車製造(6両):C54 9 - 14(製造番号1168 - 1173)




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本形式は[[1930年|1930]](昭和5)年度に[[注文|発注]]された17両のみで製造終了となった。そのため、亜幹線向け旅客用蒸気機関車の増備は[[日本の経済|日本経済]]が[[昭和恐慌]]以前の水準まで回復した[[1935年]]以降、本形式の失敗を教訓として全面的に改設計した[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]<ref group="注">なお、C55形では本形式のシリンダーの行程と直径がボイラー圧力共々そのまま継承されたが、空転対策として動軸重が上積みされて3軸平均で13.57 t(1次車の値。[[流線形車両|流線形]]の2次車はその外装の分だけ重く、3軸平均で13.9 tとなる)となり、主動軸となる第2動軸の軸重を前後の動軸より重くするなどバランス調整を施してあるため、本形式ほど深刻な状況には陥っていない。また、続く[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]ではボイラー圧力がさらに引き上げられ、それに応じて動軸重も順当に増量されて3軸平均で13.77 tとなった。さらに最後の4次車で設計変更により動軸重がさらに上乗せされ、最大14.12 t(第2動軸)、3軸平均で13.92 tまで増やされている。</ref>が後継形式として生産されることとなった。

本形式は[[1930年|1930]](昭和5)年度に[[注文|発注]]された17両のみで製造終了となった。そのため、亜幹線向け旅客用蒸気機関車の増備は[[日本の経済|日本経済]]が[[昭和恐慌]]以前の水準まで回復した[[1935年]]以降、本形式の失敗を教訓として全面的に改設計した[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]<ref group="注">なお、C55形では本形式のシリンダーの行程と直径がボイラー圧力共々そのまま継承されたが、空転対策として動軸重が上積みされて3軸平均で13.57 t(1次車の値。[[流線形車両|流線形]]の2次車はその外装の分だけ重く、3軸平均で13.9 tとなる)となり、主動軸となる第2動軸の軸重を前後の動軸より重くするなどバランス調整を施してあるため、本形式ほど深刻な状況には陥っていない。また、続く[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]ではボイラー圧力がさらに引き上げられ、それに応じて動軸重も順当に増量されて3軸平均で13.77 tとなった。さらに最後の4次車で設計変更により動軸重がさらに上乗せされ、最大14.12 t(第2動軸)、3軸平均で13.92 tまで増やされている。</ref>が後継形式として生産されることとなった。



== 運用 ==

== 運用 ==

新造時には、[[青森機関区|青森]]・[[仙台車両センター|仙台]]・[[秋田機関区|秋田]]・宇都宮・[[高崎車両センター|高崎]]・水戸と[[東北本線]]・[[奥羽本線]]系統を中心に担当する[[東日本]]の各機関区と、当時[[北陸本線]]を担当していた西日本の[[梅小路蒸気機関車館|梅小路機関区]]に分散配置され、C51形とともに[[優等列車]]を中心とする運用に充当されたが、前述のような経緯から[[1935年]](昭和10年)以降は、全車が福知山機関区に集中配置され、[[戦後]]まで[[山陰本線]]・[[福知山線]]・[[播但線]]で使用された。

新造時には、[[青森機関区|青森]]・[[仙台車両センター|仙台]]・[[秋田機関区|秋田]]・宇都宮・[[ぐんま車両センター|高崎]]・水戸と[[東北本線]]・[[奥羽本線]]系統を中心に担当する[[東日本]]の各機関区と、当時[[北陸本線]]を担当していた西日本の[[梅小路蒸気機関車館|梅小路機関区]]に分散配置され、C51形とともに[[優等列車]]を中心とする運用に充当されたが、前述のような経緯から[[1935年]](昭和10年)以降は、全車が福知山機関区に集中配置され、[[戦後]]まで[[山陰本線]]・[[福知山線]]・[[播但線]]で使用された。



もっとも、ここでも少数配置ゆえの保守の困難さや、国鉄[[制式名称|制式]]蒸機では本機のみに採用された米国流の板式缶胴受が走行中の振動で亀裂を生じやすかったこと、あるいは主台枠の強度不足による亀裂が頻発したことといった構造面での問題などによって早期に[[廃車 (鉄道)|廃車]]対象となり、状態不良で長期[[休車]]を経て[[1948年]](昭和23年)1月28日付で除籍されたC54 13を皮切りに、[[1950年代]]前半の段階で既に半数以上の9両が車齢25年を待たずして廃車され、それ以外も福知山[[鉄道管理局]]管内で長期休車状態となっていた。

もっとも、ここでも少数配置ゆえの保守の困難さや、国鉄[[制式名称|制式]]蒸機では本機のみに採用された米国流の板式缶胴受が走行中の振動で亀裂を生じやすかったこと、あるいは主台枠の強度不足による亀裂が頻発したことといった構造面での問題などによって早期に[[廃車 (鉄道)|廃車]]対象となり、状態不良で長期[[休車]]を経て[[1948年]](昭和23年)1月28日付で除籍されたC54 13を皮切りに、[[1950年代]]前半の段階で既に半数以上の9両が車齢25年を待たずして廃車され、それ以外も福知山[[鉄道管理局]]管内で長期[[休車]]状態となっていた。



しかし、この時期の国鉄では蒸気機関車の新製増備が終了していた一方、未だ本線用[[ディーゼル機関車]]は開発されておらず、全国的に[[旅客列車]]牽引用として軽量級パシフィック機の旺盛な需要が存在した。それゆえ、C55形やC57形、そればかりか老朽化したC51形ですら引く手あまた<ref group="注">[[戦中|戦時中]]の酷使により変形、あるいは毀損したスポーク輪芯を新規製作したボックス輪心に交換する工事を行って延命が図られた車両さえ存在した。</ref>で、このクラスの機関車は慢性的に不足状態を呈していた。福知山区では[[1952年]]、本形式の保守難で代機としてC57形の転配を求めたが、要望が通らず、1953年3月から5月にかけて秋田機関区・横手機関区からの転配で、逆に本形式よりも状態の悪いC51 153・156・260を押し付けられて、ますます運用に窮することになった<ref>今村潔「C54形機関車」(『鉄道ピクトリアル』1961年10月号(123号)p.27)による。</ref>。

しかし、この時期の国鉄では蒸気機関車の新製増備が終了していた<ref group="注">国有鉄道が[[運輸省]]だった[[1948年]]([[昭和]]23年)に製造された[[国鉄E10形蒸気機関車|E10形]]が最後。</ref>一方、未だ本線用[[ディーゼル機関車]]は開発されておらず、全国的に[[旅客列車]]牽引用として軽量級パシフィック機の旺盛な需要が存在した。それゆえ、C55形やC57形、そればかりか老朽化したC51形ですら引く手あまた<ref group="注">[[戦中|戦時中]]の酷使により変形、あるいは毀損したスポーク輪芯を新規製作したボックス輪心に交換する工事を行って延命が図られた車両さえ存在した。</ref>で、このクラスの機関車は慢性的に不足状態を呈していた。福知山区では[[1952年]]、本形式の保守難で代機としてC57形の転配を求めたが、要望が通らず、1953年3月から5月にかけて秋田機関区・横手機関区からの転配で、逆に本形式よりも状態の悪いC51 153・156・260を押し付けられて、ますます運用に窮することになった<ref>今村潔「C54形機関車」(『鉄道ピクトリアル』1961年10月号(123号)p.27)による。</ref>。



そこで、[[1954年]](昭和29年)1月に当時国鉄本社の運転局車務課で機関車運用を決定する立場の総括補佐の地位にあった西尾源太郎が福知山鉄道管理局長で機関車に精通していた今村一郎と協議し、休車中の本形式各車の中から状態良好車を選出、[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]で再整備・修繕して運用に充当することが決定された。[[1957年]]までに残っていた8両が順次休車から復活して延命、再び山陰本線・福知山線・播但線で運用されることとなった。これに伴い、[[京都駅]]や[[大阪駅]]にも旅客列車牽引で直通している。1957年復活組のC54 5・6・8・12は[[北近畿タンゴ鉄道宮津線|宮津線]]に投入しての[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]代替が目論まれたが、同線での試走の結果、レール横圧が大きすぎることから運用を断念、福知山区所属のまま、山陰本線で1953年転配組の老朽C51形廃車目的で運用された。

そこで、[[1954年]](昭和29年)1月に当時国鉄本社の運転局車務課で機関車運用を決定する立場の総括補佐の地位にあった西尾源太郎が福知山鉄道管理局長で機関車に精通していた今村一郎と協議し、休車中の本形式各車の中から状態良好車を選出、[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]で再整備・修繕して運用に充当することが決定された。[[1957年]]までに残っていた8両が順次休車から復活して延命、再び山陰本線・福知山線・播但線で運用されることとなった。これに伴い、[[京都駅]]や[[大阪駅]]にも旅客列車牽引で直通している。1957年復活組のC54 5・6・8・12は[[北近畿タンゴ鉄道宮津線|宮津線]]に投入しての[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]代替が目論まれたが、同線での試走の結果、レール横圧が大きすぎることから運用を断念、福知山区所属のまま、山陰本線で1953年転配組の老朽C51形廃車目的で運用された。


2023年7月6日 (木) 13:54時点における最新版

C54形蒸気機関車
C54 13
C54 13
基本情報
運用者 鉄道省日本国有鉄道
製造所 汽車製造川崎車輛
製造年 1931年
製造数 17両
引退 1963年
主要諸元
軸配置 2C1
軌間 1,067 mm
全長 20,375 mm
全高 3,945 mm
機関車重量 65.30 t
総重量 114.30 t
動輪径 1,750 mm
軸重 13.42 t
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程)
510 mm × 660 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2
大煙管
(直径×長さ×数)
140 mm×5,500 mm×18本
小煙管
(直径×長さ×数)
57 mm×5,500 mm×84本
火格子面積 2.53 m2
全伝熱面積 167.8 m2
過熱伝熱面積 41.4 m2
煙管蒸発伝熱面積 115.0 m2
火室蒸発伝熱面積 11.4 m2
燃料 石炭
制動装置 自動空気ブレーキ
出力 1,211 PS
シリンダ引張力 11,680 kg
粘着引張力 10,065 kg
テンプレートを表示

C54C5419316

[]


19283C51C53[ 1]

C51[ 2]8620C5114 t15 tC51114 t

19316[ 3]C51

C51

[]


C513114-6-22C12

使13 kg/cm214 kg/cm2C51C51C51C51

C51C531,750 mmC51171819[ 4]

C51便D50C51C51C51C55C51C53D5035

C5312 t17 m312-17

9900D50C50C5390 mmC51[ 5]寿

[]


21931617

11C54 1 - 8, 15 - 171397 - 1404, 1406 - 1408

6C54 9 - 141168 - 1173

[ 6]C51

19305171935C55[ 7]

[]


西C51193510使

194823128C54 131950925

[ 8]C55C57C51[ 9]1952C57195335C51 153156260[1]

1954291西195781957C54 5681286201953C51

8195934C54 5C54 1219603511156西使C51[ 10]196338C571036810111517

17196338()[2]

[]


C54 617SLC57 128C54 4使

C54 6 -  2006183

C54 17 - 

[]


54DD54ED54EF5454調[ 11]C54

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 115.41 t15.42 t15.44 t

(二)^ 14.96 t514.7 tC51

(三)^ 13 t19327

(四)^ 

(五)^ C5120

(六)^ C51

(七)^ C55313.57 t12313.9 t2調C57313.77 t414.12 t2313.92 t

(八)^ 194823E10

(九)^ 使

(十)^ C512196540C57

(11)^ 545454

出典[編集]

  1. ^ 今村潔「C54形機関車」(『鉄道ピクトリアル』1961年10月号(123号)p.27)による。
  2. ^ おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』文藝春秋文春文庫 1991年5月10日、pp.207 - 209

参考文献[編集]

  • 『SL』第3巻、交友社、1971年11月。 
  • 西尾源太郎「蒸気機関車C54の回想」『レイル』第34巻、エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン、1996年10月、28 - 30頁。 
  • 村樫四郎・林 嶢・浅原信彦『C54-悲運のパシフィック』(ネコ・パブリッシング RM LIBRARY、2004年) ISBN 4-7770-5035-1