「意味がなければスイングはない」の版間の差分
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『'''意味がなければスイングはない'''』(いみがなければスイングはない)は、[[村上春樹]]の音楽評論集。 |
『'''意味がなければスイングはない'''』(いみがなければスイングはない)は、[[村上春樹]]の音楽評論集。 |
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2005年11月、[[文藝春秋]]より刊行された。季刊オーディオ専門誌『Stereo Sound』([[ステレオサウンド|株式会社ステレオサウンド]])に連載された評論をまとめたものである。表紙の絵は、「The Back Guild」シリーズのイラスト(SHERIDAN SQUARE RECORD社)。2008年12月、[[文春文庫]]として文庫化された。 |
[[2005年]][[11月28日]]、[[文藝春秋]]より刊行された<ref>[https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163676005 ﹃意味がなければスイングはない﹄村上春樹 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS]</ref>。季刊オーディオ専門誌﹃Stereo Sound﹄︵[[ステレオサウンド|株式会社ステレオサウンド]]︶に連載された評論をまとめたものである。表紙の絵は、﹁The Back Guild﹂シリーズのイラスト︵SHERIDAN SQUARE RECORD社︶。[[2008年]][[12月4日]]、[[文春文庫]]として文庫化された<ref>[https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167502096 文春文庫﹃意味がなければスイングはない﹄村上春樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS]</ref>。[[2015年]][[11月21日]]、[[電子書籍]]版が配信開始された<ref>[https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1675020900000000000Y ﹃意味がなければスイングはない﹄村上春樹 | 電子書籍 - 文藝春秋BOOKS]</ref>。
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タイトルは、[[デューク・エリントン]]の作品「スイングがなければ意味はない {{enlink|It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing)|It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing|i=on}} 」に由来する。あとがきで村上は「ただの言葉遊びでこのタイトルをつけたわけではない」「この場合の『スイング』とは、どんな音楽にも通じるグルーヴ、あるいはうねりのようなものと考えていただいていい」と述べている。 |
タイトルは、[[デューク・エリントン]]の作品「スイングがなければ意味はない {{enlink|It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing)|It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing|i=on}} 」に由来する。あとがきで村上は「ただの言葉遊びでこのタイトルをつけたわけではない」「この場合の『スイング』とは、どんな音楽にも通じるグルーヴ、あるいはうねりのようなものと考えていただいていい」と述べている。 |
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== 内容 == |
== 内容 == |
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すべて『Stereo Sound』に掲載された。 |
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| [[シダー・ウォルトン]]――強靱な文体を持ったマイナー・ポエト || style="width:6.5em" | 2003年春号 || |
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| [[ブライアン・ウィルソン]] |
| [[ブライアン・ウィルソン]]――南カリフォルニア神話の喪失と再生 || 2003年夏号 || [[ザ・ビーチ・ボーイズ]]が1970年代はじめに発表した2枚のアルバム『[[サンフラワー (アルバム)|サンフラワー]]』と『[[サーフズ・アップ (アルバム)|サーフズ・アップ]]』に、多くのページが割かれている<ref group="注">村上は『[[村上ソングズ]]』([[中央公論新社]]、2007年12月)において、『サーフズ・アップ』に収録された[[ブルース・ジョンストン]]作の「[[ディズニー・ガールズ (1957)]]」の歌詞を訳している。</ref>。 |
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| [[フランツ・シューベルト|シューベルト]]﹁[[ピアノソナタ第17番 (シューベルト)|ピアノソナタ第十七番 |
| [[フランツ・シューベルト|シューベルト]]﹁[[ピアノソナタ第17番 (シューベルト)|ピアノソナタ第十七番ニ長調]]﹂D850――ソフトな混沌の今日性 || 2003年秋号 || ﹁シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長いあいだ個人的にもっとも愛好している作品は、第十七番ニ長調D850である。自慢するのではないが、このソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な聴かせどころもほとんど見当たらない﹂と村上は述べている{{Refnest|group="注"|﹃[[海辺のカフカ]]﹄の登場人物の一人はこの曲をかけながらこう話す。﹁シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それが[[ロマン主義|ロマンティシズム]]の本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ﹂<ref>﹃海辺のカフカ﹄上巻、[[新潮文庫]]、235頁。</ref>}}。
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| [[スタン・ゲッツ]]の闇の時代 1953-54{{Refnest|group="注"|期間限定サイト「[[村上さんのところ]]」(2015年1月~5月)において村上は次のように述べている。「スタン・ゲッツの伝記を翻訳したいなと思っているんだけど、とくに後半部分の内容がかなりダークになるので、翻訳する方も読む方も、ちょっと落ち込むかなという懸念があります。なにしろかなりややこしい人生を送られた方なので。でも私生活の無茶苦茶さに比べて、彼の奏でる音楽はどうしてあんなに優しく、美しいのでしょうね」<ref>[http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/24/204000 スタン・ゲッツの不思議 (2015年2月24日) - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト]</ref>}} || |
| [[スタン・ゲッツ]]の闇の時代 1953-54{{Refnest|group="注"|期間限定サイト「[[村上さんのところ]]」(2015年1月~5月)において村上は次のように述べている。「スタン・ゲッツの伝記を翻訳したいなと思っているんだけど、とくに後半部分の内容がかなりダークになるので、翻訳する方も読む方も、ちょっと落ち込むかなという懸念があります。なにしろかなりややこしい人生を送られた方なので。でも私生活の無茶苦茶さに比べて、彼の奏でる音楽はどうしてあんなに優しく、美しいのでしょうね」<ref>[http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/24/204000 スタン・ゲッツの不思議 (2015年2月24日) - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト]</ref>}} || 2003年冬号 || [[ジョン・コルトレーン]]があるときスタン・ゲッツの演奏を聴いて言ったという言葉が紹介されている。「もし我々が彼のように吹けるものなら、一人残らず彼のように吹いているだろうな」とコルトレーンは言ったという<ref>本書、文春文庫、102頁。</ref>。 |
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| [[ブルース・スプリングスティーン]]と彼のアメリカ || 2004年春号 || 1980年のシングル「[[ハングリー・ハート]]」の冒頭8行分を訳し、「こんなとんでもなく暗い内容の、複雑な物語性をもった歌詞を、八万人の聴衆が――少なくともその多くの部分が――丸ごと暗記して合唱できてしまうという」ことは「まさに驚くべき事実だ」と述べる{{Refnest|group="注"|「[[ハングリー・ハート]]」は村上の2つの長編小説に登場する。『[[ダンス・ダンス・ダンス]]』の語り手は次のように述べる。「[[ブルース・スプリングスティーン]]が『ハングリー・ハート』を歌った。良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない。ディスク・ジョッキーもこれは良い歌だと言った」<ref>『[[ダンス・ダンス・ダンス]]』下巻、講談社文庫、旧版、92頁。</ref><br />また、『[[騎士団長殺し]]』の語り手は次のように述べている。「B面の冒頭に注意深く針を落とす。そして『[[ハングリー・ハート]]』が流れ出す。もしそういうことができないようなら、『[[ザ・リバー (アルバム)|ザ・リヴァー]]』というアルバムの価値はいったいどこにあるだろう?」<ref>『[[騎士団長殺し]] 第2部 遷ろうメタファー編』 [[新潮社]]、2017年2月24日、429頁。</ref>}}。<br />村上は1984年、[[レイモンド・カーヴァー]]をインタビューすることを目的のひとつとしてアメリカに渡るが、その頃からスプリングスティーンとカーヴァーの共通性を感じていたという<ref>本書、文春文庫、128-129頁。</ref>。 |
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| [[ブルース・スプリングスティーン]]と彼のアメリカ || 『Stereo Sound』2004年春号 || |
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| [[ルドルフ・ゼルキン|ゼルキン]]と[[アルトゥール・ルービンシュタイン|ルービンシュタイン]] 二人のピアニスト || |
| [[ルドルフ・ゼルキン|ゼルキン]]と[[アルトゥール・ルービンシュタイン|ルービンシュタイン]] 二人のピアニスト || 2004年夏号 || |
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| [[ウィントン・マルサリス]]の音楽はなぜ(どのように)退屈なのか? || |
| [[ウィントン・マルサリス]]の音楽はなぜ(どのように)退屈なのか? || 2004年秋号 || 「僕は[[キース・ジャレット]]の音楽の胡散臭さ{{Refnest|group="注"|村上のエッセイ集『[[やがて哀しき外国語]]』([[講談社]])にはこう書かれてある。「キース・ジャレットたち六〇年代の世代にとっては、音楽というのは戦い取るものだった。(中略) 僕は正直に言って、キース・ジャレットという演奏家の『創造性』をあまり高くは評価しない人間だけれど、それでもそこに『創造性』への希求があったことを認めるのにやぶさかではない」<ref>『やがて哀しき外国語』[[講談社文庫]]、115頁。</ref>}}{{Refnest|group="注"|長編小説『[[ねじまき鳥クロニクル]]』(新潮社)には以下の記述がある。「天井の真っ黒な[[ボーズ (企業)|ボーズ]]のスピーカーからはキース・ジャレットのいささかまわりくどいソロピアノが小さな音で流れていた」<ref>『ねじまき鳥クロニクル』第3部、新潮文庫、92頁。</ref>}}よりは、ウィントン・マルサリスの音楽の退屈さの方を、ずっと好ましく思っている。そして同じ退屈さでも、[[チック・コリア]]の音楽の退屈さよりは、こちらの方がよほど筋がいいと感じている」と村上は述べている<ref>本書、文春文庫、198頁。</ref>。 |
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| [[スガシカオ]]の柔らかなカオス || |
| [[スガシカオ]]の柔らかなカオス || 2004年冬号 || |
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| 日曜日の朝の[[フランシス・プーランク]] || |
| 日曜日の朝の[[フランシス・プーランク]] || 2005年春号 || 「私は詩が含んだ問題点を、音楽のレベルで解消するために、知性という手段に頼ったことはない。(中略) 詩を歌に移し替えることは、愛の行為であって、便宜的な婚姻ではないのだ」とプーランクは言っていたという{{Refnest|group="注"|村上は短編「[[日々移動する腎臓のかたちをした石]]」において、二人の登場人物にこのプーランクの言葉を述べさせている。主人公の淳平は「職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」と言い<ref>『[[東京奇譚集]]』新潮社、2005年9月、133頁。</ref>、キリエはラジオのインタビューで「高いところにいるのが私の天職です。それ以外の職業が頭に浮かびません。職業というのは本来、愛の行為であるべきなんです。便宜的な結婚みたいなものじゃなく」と答えている<ref>『東京奇譚集』前掲書、152頁。</ref>。}}。 |
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| 国民詩人としての[[ウッディ・ガスリー|ウディー・ガスリー]] || |
| 国民詩人としての[[ウッディ・ガスリー|ウディー・ガスリー]] || 2005年夏号 || |
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=== 出典 === |
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[[Category:村上春樹のエッセイ等]] |
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[[Category:2005年の書籍]] |
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[[Category:日本の評論作品]] |
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[[Category:音楽に関する書籍]] |
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2023年7月4日 (火) 13:01時点における最新版
意味がなければスイングはない | ||
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著者 | 村上春樹 | |
発行日 | 2005年11月28日 | |
発行元 | 文藝春秋 | |
ジャンル | 評論 | |
国 |
![]() | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 | |
ページ数 | 296 | |
コード | ISBN 978-4-16-367600-5 | |
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内容[編集]
すべて﹃Stereo Sound﹄に掲載された。タイトル | 掲載号 | 備考 |
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シダー・ウォルトン――強靱な文体を持ったマイナー・ポエト | 2003年春号 | |
ブライアン・ウィルソン――南カリフォルニア神話の喪失と再生 | 2003年夏号 | ザ・ビーチ・ボーイズが1970年代はじめに発表した2枚のアルバム『サンフラワー』と『サーフズ・アップ』に、多くのページが割かれている[注 1]。 |
シューベルト「ピアノソナタ第十七番ニ長調」D850――ソフトな混沌の今日性 | 2003年秋号 | 「シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長いあいだ個人的にもっとも愛好している作品は、第十七番ニ長調D850である。自慢するのではないが、このソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な聴かせどころもほとんど見当たらない」と村上は述べている[注 2]。 |
スタン・ゲッツの闇の時代 1953-54[注 3] | 2003年冬号 | ジョン・コルトレーンがあるときスタン・ゲッツの演奏を聴いて言ったという言葉が紹介されている。「もし我々が彼のように吹けるものなら、一人残らず彼のように吹いているだろうな」とコルトレーンは言ったという[6]。 |
ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ | 2004年春号 | 1980年のシングル「ハングリー・ハート」の冒頭8行分を訳し、「こんなとんでもなく暗い内容の、複雑な物語性をもった歌詞を、八万人の聴衆が――少なくともその多くの部分が――丸ごと暗記して合唱できてしまうという」ことは「まさに驚くべき事実だ」と述べる[注 4]。 村上は1984年、レイモンド・カーヴァーをインタビューすることを目的のひとつとしてアメリカに渡るが、その頃からスプリングスティーンとカーヴァーの共通性を感じていたという[9]。 |
ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト | 2004年夏号 | |
ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか? | 2004年秋号 | 「僕はキース・ジャレットの音楽の胡散臭さ[注 5][注 6]よりは、ウィントン・マルサリスの音楽の退屈さの方を、ずっと好ましく思っている。そして同じ退屈さでも、チック・コリアの音楽の退屈さよりは、こちらの方がよほど筋がいいと感じている」と村上は述べている[12]。 |
スガシカオの柔らかなカオス | 2004年冬号 | |
日曜日の朝のフランシス・プーランク | 2005年春号 | 「私は詩が含んだ問題点を、音楽のレベルで解消するために、知性という手段に頼ったことはない。(中略) 詩を歌に移し替えることは、愛の行為であって、便宜的な婚姻ではないのだ」とプーランクは言っていたという[注 7]。 |
国民詩人としてのウディー・ガスリー | 2005年夏号 |