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'''新宣陽門院'''︵しんせんようもんいん、[[生没年不詳]]︶は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[南朝 (日本)|南朝]]の[[皇族]]・[[女院]]・女流[[歌人]]。[[近世]]の[[南朝系図]]では、[[後村上天皇]]第一皇女で[[北畠親房]]の女・[[中宮]][[北畠顕子|顕子]]所生の'''憲子内親王'''︵けんしないしんのう︶に比定するが、それを裏付ける史料はない。近年は[[後醍醐天皇]]皇女に比定する説も有力である︵後述︶。
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経歴は不明の点が多いが<ref>﹃[[南朝編年記略]]﹄によれば、[[興国]]5年︵[[1344年]]︶後村上院の第一皇女として生誕、[[正平 (日本)|正平]]7年︵[[1352年]]︶1月[[一品]]に叙され、[[天授 (日本)|天授]]2年︵[[1376年]]︶1月[[准三后]]となる。同4年︵[[1378年]]︶[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]に[[皇太子]][[良泰親王]]の[[准母]]として院号宣下を受け︵一本は翌5年2月とする︶、[[元中]]8年︵[[1391年]]︶6月[[伊勢国]]多気の[[北畠顕泰]]第で[[薨去]]、金剛宝寺に葬られたという。</ref>、[[正平 (日本)|正平]]14年/[[延文]]4年︵[[1359年]]︶6月[[阿野廉子]]︵新待賢門院︶の四十九日に七七忌御願文を奉納したのが初見<ref>﹃[[大日本史料]]﹄は奉納者の一品内親王に﹁[[惟子内親王|惟子]]﹂︵後醍醐天皇皇女︶と注する。[[所京子]]も小木の見解を引用しつつ、女院を惟子内親王と同一人としている。</ref>。同年8月廉子の墓を[[観心寺]]に築くため、かつて同寺の祈祷料所でありながら[[朝用分]]として召し上げられていた[[河内国|河内]]小高瀬庄︵[[大阪府]][[守口市]]︶を返付し<ref>﹃[[観心寺文書]]﹄正平14年8月30日付一品宮[[令旨]]</ref>、また12月に[[和泉国|和泉]][[大雄寺 (高石市)|大雄寺]]︵[[孤峰覚明]]による開創︶へ[[紀伊国|紀伊]]吉田庄の[[領家職]]を寄進した<ref>﹃[[賜蘆文庫文書]]﹄正平14年12月3日付後村上天皇[[綸旨]]。﹃大日本史料﹄は寄進者の一品宮に﹁[[興良親王]]﹂︵[[護良親王]]王子︶と注するが、これは誤りである。</ref>。﹃[[新葉和歌集]]﹄によると、正平23年/[[応安]]元年︵[[1368年]]︶5月[[後村上天皇]]を追憶して[[嘉喜門院]]と贈答歌を交わし︵哀傷・1345︶、翌正平24年/応安2年︵[[1369年]]︶春にはまだ一品宮と称していた︵哀傷・1328︶。従って[[院号]]宣下は[[長慶天皇]]によるものと思われるが、その事情は判然としない。[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年︵[[1386年]]︶12月観心寺を新待賢門院の護摩所に指定<ref>﹃観心寺文書﹄元中3年12月14日付讃岐守仲益奉書</ref>。元中4年/至徳4年︵[[1387年]]︶2月河内[[高向庄]]領家職の[[年貢]]から毎年1,000疋を供料として同寺に与えることとし<ref>﹃観心寺文書﹄元中4年2月14日付新宣陽門院令旨</ref>、元中6年/[[康応]]元年︵[[1389年]]︶7月同寺に和泉[[御酢免]]︵大阪府[[堺市]]?︶朝用分を寄進した<ref>﹃観心寺文書﹄元中6年7月8日付新宣陽門院令旨</ref>。
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経歴は不明の点が多いが<ref>﹃[[南朝編年記略]]﹄によれば、[[興国]]5年︵[[1344年]]︶後村上院の第一皇女として生誕、[[正平 (日本)|正平]]7年︵[[1352年]]︶1月[[一品]]に叙され、[[天授 (日本)|天授]]2年︵[[1376年]]︶1月[[准三后]]となる。同4年︵[[1378年]]︶[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]に[[皇太子]][[良泰親王]]の[[准母]]として院号宣下を受け︵一本は翌5年2月とする︶、[[元中]]8年︵[[1391年]]︶6月[[伊勢国]]多気の[[北畠顕泰]]第で[[薨去]]、金剛宝寺に葬られたという。</ref>、[[正平 (日本)|正平]]14年/[[延文]]4年︵[[1359年]]︶6月[[阿野廉子]]︵新待賢門院︶の四十九日に七七忌御願文を奉納したのが初見<ref>﹃[[大日本史料]]﹄は奉納者の一品内親王に﹁[[惟子内親王|惟子]]﹂︵後醍醐天皇皇女︶と注する。[[所京子]]も小木の見解を引用しつつ、女院を惟子内親王と同一人としている。</ref>。同年8月廉子の墓を[[観心寺]]に築くため、かつて同寺の祈祷料所でありながら[[朝用分]]として召し上げられていた[[河内国|河内]]小高瀬庄︵[[大阪府]][[守口市]]︶を返付し<ref>﹃[[観心寺文書]]﹄正平14年8月30日付一品宮[[令旨]]</ref>、また12月に[[和泉国|和泉]][[大雄寺 (高石市)|大雄寺]]︵[[孤峰覚明]]による開創︶へ[[紀伊国|紀伊]]吉田庄の[[領家職]]を寄進した<ref>﹃[[賜蘆文庫文書]]﹄正平14年12月3日付後村上天皇[[綸旨]]。﹃大日本史料﹄は寄進者の一品宮に﹁[[興良親王]]﹂︵[[護良親王]]王子︶と注するが、これは誤りである。</ref>。﹃[[新葉和歌集]]﹄によると、正平23年/[[応安]]元年︵[[1368年]]︶5月[[後村上天皇]]を追憶して[[嘉喜門院]]と贈答歌を交わし︵哀傷・1345︶、翌正平24年/応安2年︵[[1369年]]︶春にはまだ一品宮と称していた︵哀傷・1328︶。従って[[院号]]宣下は[[長慶天皇]]によるものと思われるが、その事情は判然としない。[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年︵[[1386年]]︶12月観心寺を新待賢門院の護摩所に指定<ref>﹃観心寺文書﹄元中3年12月14日付讃岐守仲益奉書</ref>。元中4年/至徳4年︵[[1387年]]︶2月河内[[高向庄]]領家職の[[年貢]]から毎年1,000疋を供料として同寺に与えることとし<ref>﹃観心寺文書﹄元中4年2月14日付新宣陽門院令旨</ref>、元中6年/[[康応]]元年︵[[1389年]]︶7月同寺に和泉[[御酢免]]︵大阪府[[堺市]]?︶朝用分を寄進した<ref>﹃観心寺文書﹄元中6年7月8日付新宣陽門院令旨</ref>。歌人として[[勅撰和歌集|准勅撰集]]﹃新葉和歌集﹄に20首が入集する。
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歌人として[[勅撰和歌集|准勅撰集]]『新葉和歌集』に20首が入集する。 |
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== 出自に関する異説 == |
== 出自に関する異説 == |
2015年7月9日 (木) 22:52時点における版
新宣陽門院︵しんせんようもんいん、生没年不詳︶は、南北朝時代の南朝の皇族・女院・女流歌人。近世の南朝系図では、後村上天皇第一皇女で北畠親房の女・中宮顕子所生の憲子内親王︵けんしないしんのう︶に比定するが、それを裏付ける史料はない。近年は後醍醐天皇皇女に比定する説も有力である︵後述︶。
院号宣下以前には、一品宮︵いっぽんのみや︶・一品内親王と称した。
経歴
経歴は不明の点が多いが[1]、正平14年/延文4年︵1359年︶6月阿野廉子︵新待賢門院︶の四十九日に七七忌御願文を奉納したのが初見[2]。同年8月廉子の墓を観心寺に築くため、かつて同寺の祈祷料所でありながら朝用分として召し上げられていた河内小高瀬庄︵大阪府守口市︶を返付し[3]、また12月に和泉大雄寺︵孤峰覚明による開創︶へ紀伊吉田庄の領家職を寄進した[4]。﹃新葉和歌集﹄によると、正平23年/応安元年︵1368年︶5月後村上天皇を追憶して嘉喜門院と贈答歌を交わし︵哀傷・1345︶、翌正平24年/応安2年︵1369年︶春にはまだ一品宮と称していた︵哀傷・1328︶。従って院号宣下は長慶天皇によるものと思われるが、その事情は判然としない。元中3年/至徳3年︵1386年︶12月観心寺を新待賢門院の護摩所に指定[5]。元中4年/至徳4年︵1387年︶2月河内高向庄領家職の年貢から毎年1,000疋を供料として同寺に与えることとし[6]、元中6年/康応元年︵1389年︶7月同寺に和泉御酢免︵大阪府堺市?︶朝用分を寄進した[7]。歌人として准勅撰集﹃新葉和歌集﹄に20首が入集する。
出自に関する異説
『大日本史』が嘉喜門院との贈答歌を根拠に後村上天皇の皇女と推定して以来、もっぱらこの説が踏襲されているが、女院が廉子の菩提を弔うために観心寺に寄進を重ねていることに着目した小木喬は、後醍醐天皇と廉子との間に生まれた末娘で、後村上の同母妹ではないかと疑っている。傾聴すべき見解であろう。
脚注
(一)^ ﹃南朝編年記略﹄によれば、興国5年︵1344年︶後村上院の第一皇女として生誕、正平7年︵1352年︶1月一品に叙され、天授2年︵1376年︶1月准三后となる。同4年︵1378年︶2月4日に皇太子良泰親王の准母として院号宣下を受け︵一本は翌5年2月とする︶、元中8年︵1391年︶6月伊勢国多気の北畠顕泰第で薨去、金剛宝寺に葬られたという。
(二)^ ﹃大日本史料﹄は奉納者の一品内親王に﹁惟子﹂︵後醍醐天皇皇女︶と注する。所京子も小木の見解を引用しつつ、女院を惟子内親王と同一人としている。
(三)^ ﹃観心寺文書﹄正平14年8月30日付一品宮令旨
(四)^ ﹃賜蘆文庫文書﹄正平14年12月3日付後村上天皇綸旨。﹃大日本史料﹄は寄進者の一品宮に﹁興良親王﹂︵護良親王王子︶と注するが、これは誤りである。
(五)^ ﹃観心寺文書﹄元中3年12月14日付讃岐守仲益奉書
(六)^ ﹃観心寺文書﹄元中4年2月14日付新宣陽門院令旨
(七)^ ﹃観心寺文書﹄元中6年7月8日付新宣陽門院令旨
参考文献
- 井上宗雄 「新葉集の女流歌人」(久松潜一編 『日本女流文学史 古代・中世篇』 同文書院、1969年、NCID BN01844397)
- 東京大学史料編纂所編 『大日本古文書(家わけ第6) 観心寺文書』 東京大学出版会、1970年、ISBN 9784130910705
- 小木喬 「新宣陽門院」(『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815)
- 所京子 「最後の斎宮祥子とその周辺」(『斎王の歴史と文学』 国書刊行会、2000年、ISBN 9784336042071)