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*細身の[[趙飛燕]]と比べて、豊満な体型をしていたということで「楊肥趙痩」「環肥燕瘦」と、豊満体型とほっそり体型の美人を比べ、表現する言葉として残っている。 |
*細身の[[趙飛燕]]と比べて、豊満な体型をしていたということで「楊肥趙痩」「環肥燕瘦」と、豊満体型の美人とほっそり体型の美人を比べ、表現する言葉として残っている。 |
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*日本の[[腹掛け]]に似た中国の伝統衣装「[[肚兜]]」は、楊貴妃が着用したことが始まりとされている<ref name="e">{{Cite web|和書|url=https://www.e-kamisp.com/item/cf-d123/ |title=中国の伝統的なキャミソール「肚兜」 中国茶・中国茶器など厳選した銘品・珍品・貴重品の通販 |work=e-神 |accessdate=2020-01-01}}</ref>。 |
*日本の[[腹掛け]]に似た中国の伝統衣装「[[肚兜]]」は、楊貴妃が着用したことが始まりとされている<ref name="e">{{Cite web|和書|url=https://www.e-kamisp.com/item/cf-d123/ |title=中国の伝統的なキャミソール「肚兜」 中国茶・中国茶器など厳選した銘品・珍品・貴重品の通販 |work=e-神 |accessdate=2020-01-01}}</ref>。 |
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*[[日本]]の[[山口県]]には、楊貴妃が[[阿倍仲麻呂]]と共に[[安史の乱]]を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在し、[[長門市]][[油谷町]]の二尊院というお寺には'''楊貴妃の墓'''と伝わる五輪塔(山口県指定有形文化財)がある<ref>{{citation|和書|url=https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/kanko/1637.html|title=観光情報:楊貴妃伝説|publisher=長門市}}</ref>。 |
*[[日本]]の[[山口県]]には、楊貴妃が[[阿倍仲麻呂]]と共に[[安史の乱]]を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在し、[[長門市]][[油谷町]]の二尊院というお寺には'''楊貴妃の墓'''と伝わる五輪塔(山口県指定有形文化財)がある<ref>{{citation|和書|url=https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/kanko/1637.html|title=観光情報:楊貴妃伝説|publisher=長門市}}</ref>。 |
2024年5月18日 (土) 11:45時点における版
楊玉環 楊貴妃 | |
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![]() 壁画に描かれた楊貴妃 | |
全名 |
楊玉環 鴎法(字) 玉奴、玉環(小字) |
称号 |
楊貴妃 道号:太真 |
出生 |
開元7年6月1日 (719年6月22日) 蜀州 |
死去 |
天宝15載6月14日 (756年7月15日) 馬嵬 |
配偶者 | 寿王李瑁 |
玄宗 | |
父親 | 楊玄琰 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/Yang_Guifei_by_Uemura_Shoen_%28Shohaku_Art_Museum%29.jpg/200px-Yang_Guifei_by_Uemura_Shoen_%28Shohaku_Art_Museum%29.jpg)
生涯
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/35/Yang_Gui-fei_by_Takaku_Aigai.jpg/200px-Yang_Gui-fei_by_Takaku_Aigai.jpg)
出生
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/Lintong_Xian_China_Huaqing-Pool-02.jpg/270px-Lintong_Xian_China_Huaqing-Pool-02.jpg)
寿王妃から女冠へ
開元23年︵735年︶、玄宗と武恵妃のあいだの子の寿王李瑁︵第十八子︶の妃となる[4]。李瑁は武恵妃と宰相の李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、開元25年︵737年︶、武恵妃が死去し、翌年、宦官の高力士の薦めで李璵︵後の粛宗︶が皇太子に冊立された。 開元28年︵740年︶、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて一時的に女道士︵女冠︶となった︵このときの道号を太真という︶。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。 楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは﹁娘子﹂と呼ばれた。﹃長恨歌伝﹄によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる[5]。貴妃となる
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/Hosoda_Eishi_-_Yang_Gui_Fei.jpg/270px-Hosoda_Eishi_-_Yang_Gui_Fei.jpg)
安史の乱と最期
エピソード
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Pao-Shan_Tomb_Wall-Painting_of_Liao_Dynasty_%28%E5%AF%B3%E5%B1%B1%E9%81%BC%E5%A2%93%E5%A3%81%E7%95%AB%EF%BC%9A%E9%A0%8C%E7%B6%93%E5%9C%97%29.jpg/280px-Pao-Shan_Tomb_Wall-Painting_of_Liao_Dynasty_%28%E5%AF%B3%E5%B1%B1%E9%81%BC%E5%A2%93%E5%A3%81%E7%95%AB%EF%BC%9A%E9%A0%8C%E7%B6%93%E5%9C%97%29.jpg)
長恨歌と長恨歌伝
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e8/Hua-Qing-Chi-Yang-Gui-Fei.jpg/250px-Hua-Qing-Chi-Yang-Gui-Fei.jpg)
死後の評価と後世の楊貴妃像
﹃旧唐書﹄﹃新唐書﹄ともに伝に評はなく、玄宗を通した間接的なものしかない。また、楊貴妃の生前においては、同じ唐代の武則天にみられたような直接的な痛烈な批判は存在しない。李白が﹁清平調詞﹂﹁宮中行楽詞﹂において、楊貴妃を趙飛燕に例えたことは、どのような寓意か定かではない。 しかし楊貴妃死後、同時代の杜甫が﹁哀江頭﹂では楊貴妃の死を悼みながらも、﹁北征﹂では褒姒・妲己にたとえて強く批判している。また、白居易や陳鴻も楊貴妃を国を傾けた﹁尤物﹂︵美女をあらわすが、男を惑わし道を誤らせる存在という意味合いが強い︶と評している。これが、当時の士大夫の一般的評価と推測されるが、同時に﹃長恨歌﹄によって、美女伝説も生まれていたと見られる。 ﹃長恨歌﹄の後に書かれた唐代の小説﹃周秦行記﹄では、主人公の牛僧孺を出迎える幽霊の一人として登場し、その美貌を称えられながらも、玄宗を﹁三郎﹂と呼び、﹁何度も華清宮に赴く﹂という批判を加え、代宗の皇后である沈氏を﹁沈婆﹂と呼ぶなど気性の激しい女性と描かれている。 楊貴妃自身の実像がはっきりしないことが潤色が加えられる要因と考えられ、また楊貴妃の死後、唐王朝はその勢いを取り戻すことがなかったため、盛唐の時代を象徴する存在である意味合いが強いとされる。 その後、宋代に正史、﹃開元天宝遺事﹄﹃明皇雑録﹄﹃唐国史補﹄﹃長恨歌伝﹄﹃酉陽雑俎﹄﹃譚賓録﹄﹃開元住信記﹄などをもとに編纂した﹃楊太真外伝﹄にと楊貴妃説話がまとめられ、さまざまな文学によって取り上げられ、清の﹃長生殿﹄の成立へとつながり、清代の戯曲を代表する作品となっている。その中では﹁傾国﹂の悪女と美女双方の側面を持つ楊貴妃像が描かれている。 後世において、民間で神格化されて牡丹の花神として祀られる。 現代では、楊貴妃自身は政治にあまり介入しておらず、土木工事など大規模な贅沢、他の后妃への迫害などほとんどなく、玄宗や楊国忠ら一族との連帯責任以外はあまり問えないと評されることが多い。楊貴妃の詩
﹃全唐詩﹄に楊貴妃が作成した漢詩が1首、記載されている。楊貴妃が華清宮において、侍女の張雲容に霓裳羽衣の曲を舞わせ、それを題材に詠み上げ、玄宗に見せたものである。阿那曲(贈張雲容舞) | ||
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原文 | 書き下し文 | |
羅袖動香香不已 | 羅袖(らしゅう) 香を動すも 香已まず | |
紅蕖裊裊秋煙裏 | 紅蕖(こうきょ)裊裊(じょうじょう)たり 秋煙の裏 | |
輕雲嶺上乍搖風 | 軽雲 嶺上 乍(たちま)ち風に揺らぎ | |
嫩柳池邊初拂水 | 嫩柳 池辺 初めて水を払う |
楊貴妃と後宮をともにした女性たち
紅桃 ﹃明皇雑録﹄﹃楊太真外伝﹄に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した﹁涼州﹂を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、﹁涼州﹂は広められた。 謝阿蛮 ﹃明皇雑録﹄﹃楊太真外伝﹄に見える。新豊出身の妓女。﹁凌波曲﹂という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。 張雲容 全唐詩の楊貴妃の詩﹁阿那曲﹂で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、﹃伝奇﹄にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。 王大娘 ﹃明皇雑録﹄﹃楊太真外伝﹄に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。 許和子︵永新︶ ﹃楽府雑録﹄﹃開元天宝遺事﹄に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から﹁その歌声は千金の価値がある﹂と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。 安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、﹁お母さんの金の成る木は倒れました﹂と語ったと伝えられる。清代の戯曲﹃長生殿﹄にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。 念奴 ﹃開元天宝遺事﹄に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に﹁この女は妖麗で、眼で人を魅了する﹂と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の﹁連昌宮詞﹂に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲﹃長生殿﹄にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。後世への影響
文学・音楽・戯曲
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/Matsuke_Heikichi_-_Nogaku_zue_-_Walters_95242.jpg/220px-Matsuke_Heikichi_-_Nogaku_zue_-_Walters_95242.jpg)
その他
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Y%E1%BA%BFm_%C4%91%C3%A0o.jpg/200px-Y%E1%BA%BFm_%C4%91%C3%A0o.jpg)
脚注
参考文献
伝記資料
- 『旧唐書』巻五十一 列伝第一后妃上「楊貴妃伝」
- 『新唐書』巻七十六 列伝第一后妃上「楊貴妃伝」
- 『資治通鑑』
- 楽史『楊太真外伝』
- 陳鴻『長恨歌伝』
- 無名氏『梅妃伝』
- 段成式『酉陽雑俎』 今村与志雄訳注、平凡社東洋文庫全5巻
- 王仁裕『開元天宝遺事』
- 鄭処誨『明皇雑録』
- 李肇『唐国史補』
- 趙自勤『定命録』
- 段安節『楽府雑録』
- 作者不明(韋瓘?)『周秦行記』
- 裴鉶『伝奇』
伝記研究
- 村山吉廣『楊貴妃:大唐帝国の栄華と暗転』(中公新書、1997年/講談社学術文庫、2019年)ISBN 406-5161061
- 藤善真澄『安禄山と楊貴妃:安史の乱始末記』(清水新書、1984年、新版2017年)ISBN 438-9441159
- 竹村則行『楊貴妃文学史研究』(研文出版、2003年)ISBN 487-6362246
- 諸田龍美『白居易恋情文学論 長恨歌と中唐の美意識』(勉誠出版、2011年)ISBN 978-4585104476
- 下定雅弘『長恨歌 楊貴妃の魅力と魔力』(勉誠出版、2011年)ISBN 978-4585290117
- 近藤春雄『長恨歌と楊貴妃』(明治書院、1993年)
- 『現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山』(旺文社、1985年)
- 樂恕人『唐代の女流詩人』(毎日新聞社、1980年)
- 高世瑜『大唐帝国の女性たち』(小林一美・任明訳、岩波書店、1999年)ISBN 4000012886
- 石田幹之助『長安の春』(平凡社東洋文庫、1967年、ワイド版2006年)ISBN 425-6800913
楊貴妃に関する作品
演劇
- 『楊貴妃』大佛次郎脚本、昭和26年(1951年)6月東京歌舞伎座初演、楊貴妃:初代水谷八重子
- 洪昇『長生殿―玄宗・楊貴妃の恋愛譚』 (平凡社東洋文庫、2004年) ISBN 9784582807318、京劇
- 『観世流謡曲 楊貴妃』 能の演目
- 『創作舞踊 楊貴妃』 坂東玉三郎主演
- 宝塚歌劇団・星組公演『花舞う長安-玄宗と楊貴妃-』(2004年)脚本・演出:酒井澄夫/楊貴妃:檀れい
歴史小説
- 井上靖『楊貴妃伝』(講談社文庫、1972年、新版2004年)ISBN 9784061311152
- 陳舜臣『楊貴妃は覇水を見た』(短編、集英社に作品集)
- 渡辺竜策『楊貴妃後伝』(秀英書房、1980年)
- 田中芳樹編訳『隋唐演義5 玄宗と楊貴妃ノ巻』(中公文庫、2004年)
漫画
映画
- 『楊貴妃』(大映、1955年) 溝口健二監督、京マチ子主演
- 『楊貴妃』(1962年、香港、日本未公開) 李翰祥監督、李麗華主演
- 『酒池肉林・楊貴妃』(原題『唐朝艶奴』、1985年、香港) 呉家駿監督、金姫美主演
- 『楊貴妃 レディ・オブ・ザ・ダイナスティ』(原題『王朝的女人·楊貴妃』、2015年、中国、韓国、香港) シーチン監督、ファン・ビンビン主演
- 『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』(原題『妖猫伝』、2017年、中国・日本) チェン・カイコー監督、演:チャン・ロンロン
テレビドラマ
- 『楊貴妃』(原題『楊貴妃』、ジェネオン・エンタテインメント5枚組、2000年、香港) ウォン・ジョーイ主演
- 『楊貴妃』(原題『大唐芙蓉园』、ポニーキャニオン10枚組、2005年、中国) ファン・ビンビン主演
- 『楊貴妃秘史(中国語版)』(2010年、中国、日本未公開)
- 『最後のレストラン』第七皿「楊貴妃様御来店」(2016年、NHK BSプレミアム) 演:山村紅葉
- 『麗王別姫 〜花散る永遠の愛〜』(原題『大唐栄耀』、2017年、中国) 演:ズン・リー
パソコンゲーム
- 『超時空爆恋物語~door☆pi☆chu~』 (2010年) 声優:かわしまりの