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'''水野 広徳'''︵みずの ひろのり、{{旧字体|水野 廣德}}、[[1875年]]︵[[明治]]8年︶[[5月24日]] - [[1945年]]︵[[昭和]]20年︶[[10月18日]]︶は、[[日本]]の[[海軍軍人]]、軍事評論家。最終階級は[[海軍大佐]]。父は旧[[伊予松山藩|松山藩]]能方の水野光之で末子。
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== 経歴 == |
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* [[1902年]](明治35年)[[5月10日]] - [[従軍記章# |
* [[1902年]](明治35年)[[5月10日]] - [[従軍記章#明治三十三年従軍記章|明治三十三年従軍記章]]<ref>『官報』第5835号・付録、「叙任及辞令」1902年12月13日。</ref> |
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* [[1915年]](大正4年)[[11月7日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三四年従軍記章]]<ref>『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。</ref> |
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== 作品 == |
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:『秋山眞之』同様桜井真清が代表者となっているが、執筆は水野が主導して[[松下芳男]]と2人で行われた(刊行直前に松下に宛てた水野の礼状が残っている)。 |
:『秋山眞之』同様桜井真清が代表者となっているが、執筆は水野が主導して[[松下芳男]]と2人で行われた(刊行直前に松下に宛てた水野の礼状が残っている)。 |
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:『秋山眞之』『秋山好古』ともに、秋山兄弟を研究する際の必須資料となっており、[[司馬遼太郎]]の代表作『[[坂の上の雲]]』も、両書から多大な影響を受けている。 |
:『秋山眞之』『秋山好古』ともに、秋山兄弟を研究する際の必須資料となっており、[[司馬遼太郎]]の代表作『[[坂の上の雲]]』も、両書から多大な影響を受けている。 |
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;『 |
;『水野広徳著作集』[[雄山閣出版]](全8巻) |
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:[[粟屋憲太郎]]、[[前坂俊之]]、大内信也監修、平成7年([[1995年]])。当初は全10巻の予定であったが全8巻に規模縮小され(「水野広徳の書誌学」石渡幸二)、[[言論統制]]が激しくなってから書いた水野の最後の単行本である[[戦国武将]]の評伝『日本名将論』が収録されておらず、全集ではなく著作集として刊行になった。水野の文名を一躍天下に知らしめた日露戦記『此一戦』・『戦影』(後に発禁)、日米未来戦記『次の一戦』・『興亡の此一戦』(発禁)、『自伝』『日記』などのほか、新聞、『[[中央公論]]』、『[[改造]]』などに発表した反戦平和、軍縮、日米非戦論などの論考の大部分を網羅した唯一の著作集。 |
:[[粟屋憲太郎]]、[[前坂俊之]]、大内信也監修、平成7年([[1995年]])。当初は全10巻の予定であったが全8巻に規模縮小され(「水野広徳の書誌学」石渡幸二)、[[言論統制]]が激しくなってから書いた水野の最後の単行本である[[戦国武将]]の評伝『日本名将論』が収録されておらず、全集ではなく著作集として刊行になった。水野の文名を一躍天下に知らしめた日露戦記『此一戦』・『戦影』(後に発禁)、日米未来戦記『次の一戦』・『興亡の此一戦』(発禁)、『自伝』『日記』などのほか、新聞、『[[中央公論]]』、『[[改造]]』などに発表した反戦平和、軍縮、日米非戦論などの論考の大部分を網羅した唯一の著作集。 |
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== 評価 == |
== 評価 == |
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[[画像:Matsuyama Joen 20240508 (2).jpg|thumb|水野広徳之墓所(松山市柳井町3丁目の松山浄苑蓮福寺内)]] |
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古典的研究としては、戦後直後に水野の伝記を著した[[松下芳男]]<Ref>松下芳男﹃水野広徳﹄︵四洲社、1950年︶</Ref>。日本における国際平和主義の伝統を水野に見出し、[[統帥権の独立 |
古典的研究としては、戦後直後に水野の伝記を著した[[松下芳男]]<Ref>松下芳男﹃水野広徳﹄︵四洲社、1950年︶</Ref>。日本における国際平和主義の伝統を水野に見出し、[[統帥権]]の独立を否定し、[[アジア太平洋戦争]]の帰結をいち早く予言した人物として高く評価する[[家永三郎]]の研究が代表的である<Ref>家永三郎﹁水野広徳の反戦平和思想﹂︵﹃思想﹄第519号、1967年︶</Ref>。
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[[1980年代]]に入ると「郷土の偉人」として再発掘され、地方史の分野で再評価が進んだ。[[1990年代]]から[[2000年代]]には、[[粟屋憲太郎]]、[[前坂俊之]]を中心に編纂された『水野広徳著作集』刊行に前後して、[[宮本盛太郎]]、[[関静雄]]、[[福島良一]]らによって、水野の「平和主義者」への転身過程を中心とした実証的な研究が進展した。 |
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⚫ | 宮本は、水野の「平和主義者」転身は、それほど劇的なものではないとして、転身前と後の連続性を指摘し、水野の平和論を日本国憲法の源流の一つとして評価する<Ref>宮本盛太郎「水野広徳における思想の転回」(宮本盛太郎ほか編『近代日本政治思想史発掘』〈風行社、1993年〉)</Ref>。関は、ワシントン会議前後の言説分析から、国際秩序維持の制度的保障を求めつつ、戦争の危険と軍備負担をこれ以上増大させない、むしろなるべく軽減する方策を模索する「相対的軍備拡張的制限論者」と定義した<Ref>関静雄「水野広徳の対米八割論」(同『大正外交』〈ミネルヴァ書房、2001年〉)</Ref>。福島は、水野が「国防力」=「国力」の涵養こそが最優先課題と認識し、国民生活の向上実現という実利的判断を通じて、軍縮への国民的支持を調達しようとしたこと。そのために軍備を「軍人の専檀」から「国民の手」に解放することを目的とした民本主義に基づく、国民の意思を政治に反映させるための普選即行論と政党内閣制支持の構造を明らかにした<Ref>福島良一「水野広徳の軍備観の変容―『戦争』回避と『敗戦』回避の狭間で―」(『[[埼玉学園大学]]紀要 人間学部篇』第4号、2004年)、同「水野広徳と軍備撤廃論」(『埼玉学園大学紀要 人間学部篇』第5号、2005年)、同「水野広徳の『国防』認識―軍備縮小との関わりを中心に―」(『埼玉学園大学紀要 人間学部篇』第7号、2007年)</Ref>。 |
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⚫ | 近年では、それまでの研究が、水野を「平和主義者」と[[アプリオリ]]に規定した上で、「平和主義」転身過程前後に分析を集中していたことに対し、水野の平和主義の限界を捉えようとする研究が現れはじめている<ref>[[田中智大]]「「反骨」の平和主義者」水野広徳像の再検討 ―軍縮論の隘路と崩壊にみる水野広徳の諦念―」(『人文学論叢』第15号、2013年)、 |
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⚫ | 近年では、それまでの研究が、水野を「平和主義者」と[[アプリオリ]]に規定した上で、「平和主義」転身過程前後に分析を集中していたことに対し、水野の平和主義の限界を捉えようとする研究が現れはじめている<ref>[[田中智大]]「「反骨」の平和主義者」水野広徳像の再検討 ―軍縮論の隘路と崩壊にみる水野広徳の諦念―」(『人文学論叢』第15号、2013年)、鳥羽厚郎「戦間期日本における「合理的主義的平和論」の射程と限界 ―水野広徳の論説を中心に―」(『史学雑誌』第125編第10号、2016年)</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 松下芳男『水野廣徳』四州社、1950年。 |
* 松下芳男『水野廣徳』四州社、1950年。 |
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** [[松下芳男]]『海軍大佐の反戦 水野広徳』[[前坂俊之]]編、雄山閣、1993年。 |
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⚫ | ::初版『水野廣徳』のかなづかいを現代表記に改め、当て字や難読字をカナに開いたり、本文中に言及されている水野の評論について、その該当作から主要部分を抜粋して挿入したり、他者の著作から関連する記述を紹介したりしたもの。一方で、全文掲載されていた水野の評論を要旨だけ述べるにとどめたり、結論部分だけに省略したりしている。 |
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* 宮本盛太郎ほか編『近代日本政治思想史発掘』風行社、1993年。 |
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* [[木村久邇典]] 『帝国軍人の反戦:水野広徳と[[櫻井忠温|桜井忠温]]』 朝日新聞社、1993年。 |
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* [[宮本盛太郎]]ほか編『近代日本政治思想史発掘』風行社、1993年。 |
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* [[家永三郎]]編『日本平和論大系7 水野広徳・松下芳男・[[美濃部達吉]]』日本図書センター、1993年。 |
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* 河田宏『第一次世界大戦と水野広徳』三一書房、1996年。 |
* 河田宏『第一次世界大戦と水野広徳』三一書房、1996年。 |
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* 大内信也『帝国主義日本にNOと言った軍人 水野広徳』雄山閣、1997年。 |
* 大内信也『帝国主義日本にNOと言った軍人 水野広徳』雄山閣、1997年。 |
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2024年5月8日 (水) 07:15時点における最新版
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生誕 |
1875年5月24日![]() |
死没 |
1945年10月18日(70歳没)![]() |
所属組織 |
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軍歴 | 1900年 - 1917年 |
最終階級 |
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除隊後 | 軍事評論家、著作家 |
経歴[編集]
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栄典[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c0/Mizuno_Hironori_in_military_uniform.jpg/200px-Mizuno_Hironori_in_military_uniform.jpg)
作品[編集]
﹃此一戦﹄ 明治44年︵1911年︶に博文館で刊行。日本海海戦を描いたルポルタージュである。明治38年︵1905年︶5月27日、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊は、当時無敵の艦隊として世界に名を轟かせたロシア・バルチック艦隊を日本海に迎え撃った。海軍大尉として従軍した水野は、日露両艦隊の戦力比較から丁字戦法、後に東郷ターンと言われた奇跡の敵前大回頭など、日本海海戦の実像を臨場感をもって記した。また戦闘の合間にある士官・兵卒の会話、バルチック艦隊の大遠征、秋山真之が敵艦に乗艦し降伏を受け入れる緊迫した場面などが克明に描かれている。当時のベストセラー作品であるが、常陸丸事件で降伏を拒否し自決した軍人を好意的に描き、その後の日本人捕虜観への影響が指摘される[10]。 なお、﹃此一戦﹄が無許可出版であったので処罰されたとする評論がいくつかあるが、これは2作目の﹃次の一戦﹄のあやまりである。﹃此一戦﹄は海軍より公認を受けての刊行で、許可を得る際に当局の意を受け海軍充実の意見を加筆しているし、東郷らの題字や加藤友三郎らの序文も掲載されている。以下は21世紀刊行の新版 ●明元社、2004年6月 ●国書刊行会、2010年11月。現代文表記 ●中公文庫、2023年1月。解説長山靖生 ﹃次の一戦﹄ 大正3年︵1914年︶に金尾文淵堂で刊行。日米戦争の未来戦記。 日露戦争のときはロシア海軍の旅順艦隊とバルチック艦隊を時期を分けて別々に撃破することが可能であったが、対アメリカ戦ではパナマ運河開通により太平洋艦隊と大西洋艦隊の両艦隊と間をおかず戦わねばならず、日本が敗北する結末を描いて海軍の拡張を訴えた。無許可出版であったため処罰を受けたが、時の海軍大臣・八代六郎が海軍の必要を訴える内容であったことに気を良くし10日の謹慎処分を5日に軽減した。 ﹃戦影﹄︵﹃血の飛沫﹄︶ 大正3年︵1914年︶に金尾文淵堂で刊行。 明治37年︵1904年︶の日露戦争における旅順方面の作戦を水雷艇長であった著者の視点で描いた。旅順口封鎖のための哨戒任務や、第三回旅順口閉塞作戦に閉塞隊員収容の任務に当たった時の状況などが克明に描かれる。 昭和5年︵1930年︶、改訂版を改造社より刊行。初版でしばしば訴えていた海軍の拡張を訴える文言を削除。 昭和10年︵1935年︶に香風閣より刊行された際には﹃血の飛沫﹄と改題。しかし昭和14年︵1939年︶の潮文閣での刊行の際は元の題名に戻した。この潮文閣の版は発売後間もなく発禁となり、問題とされた数ページを切り取って再発売された。 ﹃海と空﹄ 昭和5年︵1930年︶に海洋社で刊行。日米戦の未来戦記。 海戦において大艦巨砲主義が既に時代遅れであり、戦局を決定するのが航空戦力であることを明示し、東京大空襲を予言。 また、日本の資源不足やアメリカ依存の産業構造により経済面で戦争続行が困難であることを市民生活が窮乏していく形で描く。 ﹃打開か破滅か 興亡の此一戦﹄ 昭和7年︵1932年︶に東海書院で刊行。 ﹃海と空﹄を膨らませたもので、戦闘シーンの一部や東京大空襲の描写、経済的な困窮を描写するシーンは﹃海と空﹄を流用。当時多数刊行されていた日米戦争を煽り立てる著作に対する批判や社会評論が随所に挿入されている。満州問題を論じた部分が検閲に引っかかり、発売後まもなく発禁となる。 検閲で不可とされた部分を伏字とし﹃日米興亡の一戦﹄と改題、東海書院より再刊行。なお、東京空襲の描写が後に実際に起こった東京大空襲と酷似しているために、これを発禁理由としているものがあるが、それは誤りである。﹃海と空﹄は発禁になっておらず、﹃日米興亡の一戦﹄の東京空襲の描写に伏字は全くない。 ﹃秋山眞之﹄ 昭和8年︵1933年︶﹁秋山眞之会﹂で限定刊行。平成21年︵2009年︶5月、マツノ書店で限定復刻。 桜井真清を代表として複数で執筆された秋山真之の伝記、水野は立案監修を担当。翌年に一般向けに簡略化した﹃提督秋山眞之﹄︵岩波書店︶では﹁巻頭に寄す﹂を担当。 ﹃秋山好古﹄ 昭和10年︵1935年︶﹁秋山好古大将伝記刊行会﹂で刊行。平成21年︵2009年︶5月、マツノ書店で限定復刻。秋山好古の伝記。 ﹃秋山眞之﹄同様桜井真清が代表者となっているが、執筆は水野が主導して松下芳男と2人で行われた︵刊行直前に松下に宛てた水野の礼状が残っている︶。 ﹃秋山眞之﹄﹃秋山好古﹄ともに、秋山兄弟を研究する際の必須資料となっており、司馬遼太郎の代表作﹃坂の上の雲﹄も、両書から多大な影響を受けている。 ﹃水野広徳著作集﹄雄山閣出版︵全8巻︶ 粟屋憲太郎、前坂俊之、大内信也監修、平成7年︵1995年︶。当初は全10巻の予定であったが全8巻に規模縮小され︵﹁水野広徳の書誌学﹂石渡幸二︶、言論統制が激しくなってから書いた水野の最後の単行本である戦国武将の評伝﹃日本名将論﹄が収録されておらず、全集ではなく著作集として刊行になった。水野の文名を一躍天下に知らしめた日露戦記﹃此一戦﹄・﹃戦影﹄︵後に発禁︶、日米未来戦記﹃次の一戦﹄・﹃興亡の此一戦﹄︵発禁︶、﹃自伝﹄﹃日記﹄などのほか、新聞、﹃中央公論﹄、﹃改造﹄などに発表した反戦平和、軍縮、日米非戦論などの論考の大部分を網羅した唯一の著作集。評価[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Matsuyama_Joen_20240508_%282%29.jpg/220px-Matsuyama_Joen_20240508_%282%29.jpg)