「漫才」の版間の差分
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→概要: ツッコミの旧称(前田1975) |
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「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。{{要出典範囲|date=2020年12月|ボケは、もともと'''とぼけ役'''と呼称されていた。芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のように転じた。}} |
「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。{{要出典範囲|date=2020年12月|ボケは、もともと'''とぼけ役'''と呼称されていた。芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のように転じた。}} |
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「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く(ドツキ)、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。[[秋田實]]の論文{{要出典|date=2020年12月}}によれば、[[玉子屋円辰]]が『[[曽我物語]]』を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。 |
﹁ツッコミ﹂は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。明治・大正の一時期には﹁シン﹂と呼称した<ref>[[前田勇 (国語学者)|前田勇]]﹃上方まんざい八百年史﹄︵[[杉本書店]]、1975年︶p.162</ref>。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く︵ドツキ︶、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。[[秋田實]]の論文{{要出典|date=2020年12月}}によれば、[[玉子屋円辰]]が﹃[[曽我物語]]﹄を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。
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ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある<ref name="aiba12"/>。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに﹁ノる﹂、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸︵'''ノリツッコミ'''︶などである。このため、ボケとツッコミは﹁役柄﹂というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。
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ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある<ref name="aiba12"/>。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに﹁ノる﹂、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸︵'''ノリツッコミ'''︶などである。このため、ボケとツッコミは﹁役柄﹂というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。
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=== 漫才のスタイル === |
=== 漫才のスタイル === |
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<!--具体的なコンビ名を追加する場合は典拠を示してください--> |
<!--具体的なコンビ名を追加する場合は典拠を示してください--> |
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[[前田勇 (国語学者)|前田勇]]は自著において、漫才を、以下の4類10種に分類した<ref> |
[[前田勇 (国語学者)|前田勇]]は自著において、漫才を、以下の4類10種に分類した<ref>『上方まんざい八百年史』pp.198-203「漫才の種類とその本質」</ref>。漫才師の芸およびネタは、これら10種の要素を、どれかひとつ特化させているか、または組み合わせている。 |
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* 音曲漫才 |
* 音曲漫才 |
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** 俗曲漫才 |
** 俗曲漫才 |
2021年1月16日 (土) 06:20時点における版
概要
古典芸能であった萬歳︵まんざい︶が、上方︵京都および大阪︶の寄席において、江戸時代から昭和時代にかけて独自に発展したものである。昭和初期にスタイルが成立した、滑稽な会話の妙などで笑わせる﹁しゃべくり漫才﹂の登場以来、放送コンテンツとして全国的に広まり、現代における笑芸の主流のひとつとなっている。現代では一般的に、単に﹁漫才﹂というと、この﹁しゃべくり漫才﹂のことを指すが、しゃべくり漫才の登場までは音曲を用いたネタが主流だった︵後述︶。 上方の漫才を特に上方漫才︵かみがたまんざい︶という。 漫才を行う者は一般的に﹁漫才師﹂と呼ばれるが、所得税法施行令では﹁漫才家﹂の表記が使われている[3]。基本形式と構成
漫才は基本的に、演者が﹁演者自身﹂として発話し、その会話の流れによって観客の笑いを呼び起こそうとする演芸であり、その点で、何らかの役柄や舞台設定を、扮装や簡単なセットによって提示するコントとは異なる[4]。 2人で演じられることが多いが、3人や4人の例もある。人数の上限について、漫才作家の相羽秋夫は﹁五、六人ぐらいが妥当ではないでしょうか[1]﹂としている。 シンプルな会話体を基本とすることから、演者の個性に合わせ、音曲、踊り、物真似など、ネタ中に﹁何をやっても許される[1]﹂自由な演芸形式となっている。日常生活、流行文化、政治経済など幅広い題材を扱うことが可能で、時流に合わせてネタを細かく、また大きく変化させることができる。ボケとツッコミ
漫才は﹁ボケ﹂と﹁ツッコミ﹂という2つの役割で成り立っている。それぞれ古典萬歳の﹁才蔵﹂と﹁太夫﹂に由来する[5]。 ﹁ボケ﹂は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。ボケは、もともととぼけ役と呼称されていた。芸席において紹介のつど﹁つっこみ︵役︶・とぼけ︵役︶﹂と称されていたことが、のちに﹁つっこみ・とぼけ﹂→﹁つっこみと、ぼけ﹂のように転じた。[要出典] ﹁ツッコミ﹂は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。明治・大正の一時期には﹁シン﹂と呼称した[6]。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く︵ドツキ︶、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。秋田實の論文[要出典]によれば、玉子屋円辰が﹃曽我物語﹄を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。 ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある[5]。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに﹁ノる﹂、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸︵ノリツッコミ︶などである。このため、ボケとツッコミは﹁役柄﹂というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。 トリオ漫才︵役割が固定された場合︶においては、ボケ2人・ツッコミ1人の比率が主流である。ネタの役割分担によって、フリ︵後述︶にあたる小さいボケを﹁小ボケ﹂、オチに至る大きいボケをする者を﹁大ボケ﹂、と区別することもある。フリ
上記の役割と兼ねて、﹁筋フリ[7]﹂または﹁フリ﹂という、ネタの構成を進行・展開・転換する役割を、メンバーのいずれかが担わなければならない。﹃大辞泉﹄の﹁ツッコミ﹂の項は﹁漫才で、ぼけに対して、主に話の筋を進める役﹂としており、ツッコミがフリを担う、と定義しているが、ボケがフリを担当するコンビも少なくない。 ボケ・ツッコミが固定したコンビを仮定した場合、ツッコミが進行するコンビ、ボケが進行するコンビ、ボケ・ツッコミ双方が進行するコンビの3種が考えうる。漫才のスタイル
前田勇は自著において、漫才を、以下の4類10種に分類した[8]。漫才師の芸およびネタは、これら10種の要素を、どれかひとつ特化させているか、または組み合わせている。コント漫才
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歴史
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/Manzai_by_unknown_artist_-_wittig_collection.jpg/200px-Manzai_by_unknown_artist_-_wittig_collection.jpg)
呼称・表記の変化について
前述のとおり、現代の呼称である﹁漫才﹂に至るまでは、﹁萬歳﹂﹁万才﹂の表記が基本的に昭和初期まで用いられた。1933年︵昭和8年︶1月、吉本興業に新設された宣伝部が発行した﹃吉本演藝通信﹄の中で、萬歳・万才の宣伝媒体や劇場の看板等における表記を﹁漫才﹂と改称することが宣言され、これまでの萬歳・万才との違いを強調した。なお、1932年︵昭和7年︶3月時点ですでに、吉本興行部が﹁吉本興業合名会社﹂に改組された際の社内資料に、﹁漫才﹂の表記が営業品目として使われている[30]。 この表記変更に至る経緯や、考案者については諸説がある。 ●吉本興業は、エンタツ・アチャコによる﹁新しい万才﹂の呼び方を一般公募した︵エンタツ・アチャコ自身は結成当初﹁二人漫談﹂と称していた[31]︶。﹁滑稽コント﹂﹁ユーモア万歳﹂﹁モダン万歳﹂﹁ニコニコ問答﹂などの案が集まったが、文芸部長︵のちの社長︶で、宣伝部門統括者の橋本鐵彦がどれにも納得できず、自ら、漢字表記だけを変えた﹁漫才﹂という呼称を考案したという[32]。なお、橋本の吉本入社は吉本興業への改組後であり、上記の資料と矛盾が生じる。 ●﹁漫﹂の字については、漫画にちなんだ説[26]と、漫談にちなんだ説[31]とがある。 ●﹁漫才﹂の名付け親は橋本ではなく、当時同社の総支配人だった林正之助であるとする説もある。正之助は橋本が吉本を去ったのち、﹁わしが考案した﹂﹁わしが橋本に提案した﹂と発言している[30]。 ●なお、林の没後、澤田隆治が橋本に﹁漫才﹂の名付け親が林であるかどうか尋ねたところ、橋本は﹁あの方がそういわれるのだったら、そうでしょう﹂と回答したことから、澤田は﹁歴史は権力者のものなのだということを知らされた思いがした﹂﹁林正之助さんぐらい思いっきり長生きすると、まわりに反論する人が誰もいないから、なんでも自分がやったことになる﹂と述べ、疑義を示している[33]。長らく吉本新喜劇や文芸部でエンタツ・アチャコと接してきた竹本浩三も正之助説を否定している[30]。 ●小島貞二は橋本説をとりつつ、﹁漫才﹂の表記が広まり、定着したきっかけを、1934年︵昭和9年︶4月25日から3日間、東京・新橋演舞場で開催された﹁特選漫才大会﹂の宣伝物や紹介記事としている。当時東京吉本の責任者だった林弘高が小島に語ったところによると、弘高が演芸愛好家である作家の長谷川伸の相談をあおぎ、同興行の開催をきっかけに表記の本格的な統一を決めたとしている[31]。 当初、﹁漫才﹂の表記には花月亭九里丸など芸人の間で批判があった[32]。類似の芸
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