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1903年、[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]へ進み、翌年の[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]の受験は、[[近視]]により失敗した。
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1903年、[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]へ進み、翌年の[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]の受験は、[[近視]]により失敗した。
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この頃から浅草の開盛座で勤王の士と佐幕党の立ち廻りを見て喜ぶようになった。1908年︵明治41年︶︵16歳︶、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]受験に失敗。本郷森川町で浪人生活を送る<ref>新国劇初演は失敗、都落ちしてから名声﹃東京日日新聞﹄昭和4年3月4日︵﹃昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年﹄本編p156 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶</ref>。[[自由劇場]]の﹃[[ヨーン・ガブリエル・ボルクマン|ジョン・ガブリエル・ボルクマン]]﹄を見て[[新劇]][[俳優]]を目指し、翌年[[早稲田大学]]文科予科へ入り、1911年、[[坪内逍遙]]の[[文芸協会]]附属演劇研究所の2期生となって、年末、端役で[[帝国劇場]]の舞台を踏んだ。
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1913年︵[[大正]]2年︶︵21歳︶、同研究所を終え、[[島村抱月]]、[[松井須磨子]]らの[[芸術座 (劇団)#第一次芸術座|芸術座]]に参加したが、1914年、脱退し、脱退仲間の[[秋田雨雀]]らと新時代劇協会︵第二次︶を作った。1915年、早稲田大学を卒業し、[[上山草人]]・[[伊庭孝]]らの近代劇協会に加わった。
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1913年︵[[大正]]2年︶︵21歳︶、同研究所を終え、[[島村抱月]]、[[松井須磨子]]らの[[芸術座 (劇団)#第一次芸術座|芸術座]]に参加したが、1914年、脱退し、脱退仲間の[[秋田雨雀]]らと新時代劇協会︵第二次︶を作った。1915年、早稲田大学を卒業し、[[上山草人]]・[[伊庭孝]]らの近代劇協会に加わった。
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=== 新国劇の結成 === |
=== 新国劇の結成 === |
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[[1917年]]︵大正6年︶、芸術座を再び脱退、倉橋仙太郎・田中介二・金井謹之助・渡瀨淳子らと、11人の劇団﹃[[新国劇]]﹄を結成した。座名は坪内逍遙の選によった。[[歌舞伎]]・[[新派]]と[[新劇]]との間の、大衆演劇を目指し、座長を務め、演出を受け持った。しかし、4月 |
[[1917年]]︵大正6年︶、芸術座を再び脱退、倉橋仙太郎・田中介二・金井謹之助・渡瀨淳子らと、11人の劇団﹃[[新国劇]]﹄を結成した。座名は坪内逍遙の選によった。[[歌舞伎]]・[[新派]]と[[新劇]]との間の、大衆演劇を目指し、座長を務め、演出を受け持った。しかし、
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同年4月18日から4月21日にかけて[[新富座]]で行った旗揚げ公演は失敗<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868-1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=417 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>、6月の[[京都]][[南座]]の興行も不入りで、ようやく7月の[[大阪]][[道頓堀角座|角座]]で機敏な運びが注目され、[[松竹]]社長[[白井松次郎]]の提案により、[[弁天座]]を本拠に[[松竹]]の給料を貰うようになった。そして8月の『深川音頭』で当てた。 |
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[[1917年]]︵大正7年︶、白井が座付作者に起用した[[行友李風]]の、﹃金山颪﹄﹃[[月形半平太]]﹄﹃[[国定忠治]]﹄などの[[チャンバラ|剣劇]]ものが熱狂的に受けた。乱闘劇は創団の本旨でなかったが、120人に膨れた座員を養う都合もあった。
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[[1917年]]︵大正7年︶、白井が座付作者に起用した[[行友李風]]の、﹃金山颪﹄﹃[[月形半平太]]﹄﹃[[国定忠治]]﹄などの[[チャンバラ|剣劇]]ものが熱狂的に受けた。乱闘劇は創団の本旨でなかったが、120人に膨れた座員を養う都合もあった。
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大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、[[浅草]]の公園劇場を本拠とした。また、翌年の[[関東大震災]]まで、﹃新国劇附属演劇研究所﹄を開いて俳優を育てた。また、﹃勧進帖﹄を演じた際に、﹃[[勧進帳]]﹄の3字目を変えたのは、[[市川團十郎]]家への遠慮である。
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大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、[[浅草]]の公園劇場を本拠とした。また、翌年の[[関東大震災]]まで、﹃新国劇附属演劇研究所﹄を開いて俳優を育てた。また、﹃勧進帖﹄を演じた際に、﹃[[勧進帳]]﹄の3字目を変えたのは、[[市川團十郎]]家への遠慮である。
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翌大正12年も、『大菩薩峠』全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に |
翌大正12年も、﹃大菩薩峠﹄全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に大部屋で劇団員と警官が乱闘になり多数が検挙。参考人のつもりで[[浅草警察署|象潟警察署]]に出頭した澤田も検挙された。この乱闘は、車座で寿司を食べていた俳優の姿を巡回に来た刑事が[[花札]][[賭博]]をしているものと誤認したことが契機だった<ref>注‥象潟事件とは﹃昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年﹄本編p156-157 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。自伝﹃苦闘の跡﹄には冤罪とある。そして拘留中に[[関東大震災]]が発生。
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劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に[[文芸協会]]が主催を引き受け新聞各社が後援し、[[日比谷公園]]野外音楽堂で、﹃勧進帳﹄などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った﹃[[テント|天幕]]劇場﹄で公演するなど、機敏に動いた。
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劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に[[文芸協会]]が主催を引き受け新聞各社が後援し、[[日比谷公園]]野外音楽堂で、﹃勧進帳﹄などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った﹃[[テント|天幕]]劇場﹄で公演するなど、機敏に動いた。
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昭和2年には、『新国劇十周年記念』の公演を続けた。 |
昭和2年には、『新国劇十周年記念』の公演を続けた。 |
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昭和4年2月11日、新橋演舞場に出演中に急性[[中耳炎]]を病んで日本橋安井病院に入院。手術を経て加療を続け、座長なしの公演を病院から励ました。2月28日、脳膜炎を発症して意識不明となる<ref>中耳炎から脳膜炎を併発して重体﹃東京朝日新聞﹄昭和4年3月3日︵﹃昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年﹄本編p156 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶</ref>と座員、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、大谷竹二郎、菊池寛らが正二郎の病床に駆けつけた。大勢のファンが病院を囲み、正二郎は3月4日に没した。死因は急性化膿性[[脳膜炎]]だった。
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== エピソード == |
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== 外部リンク == |
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2024年3月23日 (土) 01:35時点における最新版
さわだ しょうじろう 澤田 正二郎 | |
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本名 | 澤田 正二郎 |
別名義 | 沢正 |
生年月日 | 1892年5月27日 |
没年月日 | 1929年3月4日(36歳没) |
出生地 | 日本 滋賀県大津市 |
死没地 | 東京 |
国籍 | 日本 |
職業 | 舞台俳優 |
活動期間 | 1912年 - 1929年 |
配偶者 | 渡瀬淳子(1913年から1924年まで) |
主な作品 | |
『月形半平太』『国定忠治』『大菩薩峠』『白野弁十郎』 |
来歴[編集]
新国劇の結成[編集]
1917年︵大正6年︶、芸術座を再び脱退、倉橋仙太郎・田中介二・金井謹之助・渡瀨淳子らと、11人の劇団﹃新国劇﹄を結成した。座名は坪内逍遙の選によった。歌舞伎・新派と新劇との間の、大衆演劇を目指し、座長を務め、演出を受け持った。しかし、 同年4月18日から4月21日にかけて新富座で行った旗揚げ公演は失敗[2]、6月の京都南座の興行も不入りで、ようやく7月の大阪角座で機敏な運びが注目され、松竹社長白井松次郎の提案により、弁天座を本拠に松竹の給料を貰うようになった。そして8月の﹃深川音頭﹄で当てた。 1917年︵大正7年︶、白井が座付作者に起用した行友李風の、﹃金山颪﹄﹃月形半平太﹄﹃国定忠治﹄などの剣劇ものが熱狂的に受けた。乱闘劇は創団の本旨でなかったが、120人に膨れた座員を養う都合もあった。 1919年︵大正9年︶の﹃伊井大老の死﹄の成功は、客に喜ばれながら芸術的に向上して行くという﹃演劇半歩主義﹄の、半歩だった。そして大阪での人気を背に上京し、﹃大菩薩峠﹄で東京の劇壇を席捲した。 大正10年、現代劇﹃懐かしき力﹄が、松竹蒲田で佐々木杢郎監督によって映画化。主演する。 大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、浅草の公園劇場を本拠とした。また、翌年の関東大震災まで、﹃新国劇附属演劇研究所﹄を開いて俳優を育てた。また、﹃勧進帖﹄を演じた際に、﹃勧進帳﹄の3字目を変えたのは、市川團十郎家への遠慮である。 翌大正12年も、﹃大菩薩峠﹄全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に大部屋で劇団員と警官が乱闘になり多数が検挙。参考人のつもりで象潟警察署に出頭した澤田も検挙された。この乱闘は、車座で寿司を食べていた俳優の姿を巡回に来た刑事が花札賭博をしているものと誤認したことが契機だった[3]。自伝﹃苦闘の跡﹄には冤罪とある。そして拘留中に関東大震災が発生。 劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に文芸協会が主催を引き受け新聞各社が後援し、日比谷公園野外音楽堂で、﹃勧進帳﹄などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った﹃天幕劇場﹄で公演するなど、機敏に動いた。 大正13年、出演中の演技座が燃えた時は、直ちに両国国技館に、同じ外題を並べた。この年、﹃苦闘の跡﹄を出版した。 大正14年には、邦楽座、帝国劇場、新橋演舞場に進出して、大入り満員を続け、1926年の白野弁十郎では新機軸を見せた。同年のシェイクスピアの﹃コリオレイナス﹄は、炎上したシェイクスピア記念劇場への義捐金集めの興行だった。 同年、新国劇の出し物の﹃国定忠治﹄﹃恩讐の彼方に﹄が、東亜キネマで牧野省三監督によって映画化される。さらに﹃月形半平太﹄が聯合映画芸術家協会の下、衣笠貞之助監督によって映画化。これら全てに主演。﹃月形半平太﹄は、のちに各社で連作されるが、これが第一回映画化作品である。 昭和2年には、﹃新国劇十周年記念﹄の公演を続けた。 昭和4年2月11日、新橋演舞場に出演中に急性中耳炎を病んで日本橋安井病院に入院。手術を経て加療を続け、座長なしの公演を病院から励ました。2月28日、脳膜炎を発症して意識不明となる[4]と座員、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、大谷竹二郎、菊池寛らが正二郎の病床に駆けつけた。大勢のファンが病院を囲み、正二郎は3月4日に没した。死因は急性化膿性脳膜炎だった。エピソード[編集]
﹁新国劇﹂として、舞台に激しい﹁チャンバラ﹂を持ち込んだのは正二郎である。正二郎は大正14年に﹃国定忠治﹄、﹃恩讐の彼方に﹄、﹃月形半平太﹄と三本の剣戟映画に出演しているが、これらの映画は、劇団の関西公演の合間に撮ったものだった。 ﹃国定忠治﹄、﹃恩讐の彼方に﹄の2本を監督したマキノ省三は沢正のファンだった。マキノ雅弘によると、当時の活動大写真にチャンバラ、大殺陣の要素が大きく加わったのは、新国劇の正二郎の影響だった。マキノ省三にとって、正二郎のリアルで激しい立ち回りは一つの夢だったという。 正二郎の劇団には、名殺陣師と謳われた段平がおり、稲垣浩によると、映画で﹁殺陣師﹂というものが表面に出てきたのは、この正二郎主演の映画辺りからだという[5]。 正二郎の葬儀は谷中斎場で営まれ、日比谷公園新音楽堂で催された告別追悼会では、菊池寛が司会し、山田耕筰が追悼の曲を指揮し、その盛大な葬儀では、時の首相・田中義一、坪内逍遙、頭山満、高田早苗早稲田大学総長らが弔辞を贈っている。墓所は谷中霊園の甲3号1側にある。主な出演[編集]
舞台[編集]
各項末尾の ( ) 内の数字は、上演の西暦年次と月、また、/ 印の後は二の替わりの演目である。映画[編集]
●﹃懐かしき力﹄佐々木杢郎監督、松竹蒲田 (1921) ●﹃国定忠治﹄牧野省三監督、東亜キネマ (1925) 共演‥久松喜世子 ●﹃恩讐の彼方に﹄︵菊池寛作︶、牧野省三監督、東亜キネマ (1925) ●﹃月形半平太﹄衣笠貞之助監督、聯合映画芸術家協会 (1925) 共演‥久松喜世子著書[編集]
●﹃蛙の放送﹄人文会出版部 日本エツセイ叢書 9 (1927) ●﹃苦闘の跡﹄新作社 (1924) / 柳蛙書房 (1928) /﹃日本人の自伝22﹄平凡社 (1981) に収録 ●﹃天明﹄万朝報社 (1926) ●﹃パチパチ小僧﹄文藝春秋社出版部 (1927)脚注[編集]
参考文献[編集]
- 沢田正二郎『苦闘の跡』『日本人の自伝22』(平凡社 (1981) 中の一篇
- 樋口十一『風雲児沢田正二郎』新絃社 (1949)/ 青英社 (1984)
- 大笹吉雄『日本現代演劇史 明治・大正篇』白水社 (1985) ISBN 9784560032312
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 澤田正二郎:作家別作品リスト - 青空文庫
- 早稲田と文学(沢田正二郎) - ウェイバックマシン(2010年10月30日アーカイブ分) - 早稲田大学
- 『沢田正二郎』 - コトバンク