「澤田正二郎」の版間の差分
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== 来歴 == |
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澤田正弘・寿々子の第3子として、[[滋賀県]][[大津市]]の[[園城寺|三井寺]]の近くに生まれ |
澤田正弘・寿々子の第3子として、[[滋賀県]][[大津市]]の[[園城寺|三井寺]]の近くに生まれる。収税吏の父が2歳のときに没して一家は上京し、明治31年、車坂︵現、東京都[[台東区]][[上野]]七丁目︶にあった下谷小学校︵1990年、[[台東区]]立上野小学校へ統合︶へ入学した。
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明治36年、[[開成中学校・高等学校|開成中学]]へ進み、翌年の[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]の受験は、[[近視]]のゆえに失敗した。
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明治36年、[[開成中学校・高等学校|開成中学]]へ進み、翌年の[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]の受験は、[[近視]]のゆえに失敗した。
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1913年︵[[大正]]2年︶︵21歳︶、同研究所を了え、[[島村抱月]]、[[松井須磨子]]らの[[芸術座 (劇団)#第1次芸術座|芸術座]]に参加したが、1914年、脱退し、脱退仲間の[[秋田雨雀]]らと新時代劇協会︵第二次︶を作った。1915年、早稲田大学を卒業し、[[上山草人]]・[[伊庭孝]]らの近代劇協会に加わった。
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1913年︵[[大正]]2年︶︵21歳︶、同研究所を了え、[[島村抱月]]、[[松井須磨子]]らの[[芸術座 (劇団)#第1次芸術座|芸術座]]に参加したが、1914年、脱退し、脱退仲間の[[秋田雨雀]]らと新時代劇協会︵第二次︶を作った。1915年、早稲田大学を卒業し、[[上山草人]]・[[伊庭孝]]らの近代劇協会に加わった。
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同年、女優﹃渡瀬淳子﹄と結婚し、翌大正3年に離婚するまでに、桃代と正太郎の二子を得た。芸術座に復帰。
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同年、女優の﹃渡瀬淳子﹄と結婚し、翌大正3年に離婚するまでに、桃代と正太郎の二子を得た。芸術座に復帰。
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===新国劇の結成=== |
===新国劇の結成=== |
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大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、[[浅草]]の公園劇場を本拠とした。また、翌年の[[関東大震災]]まで、﹃新国劇附属演劇研究所﹄を開いて俳優を育てた。また、﹃勧進帖﹄を演じた際に、[[勧進帳]]﹄の3字目を変えたのは、[[市川團十郎]]家への遠慮である。
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大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、[[浅草]]の公園劇場を本拠とした。また、翌年の[[関東大震災]]まで、﹃新国劇附属演劇研究所﹄を開いて俳優を育てた。また、﹃勧進帖﹄を演じた際に、[[勧進帳]]﹄の3字目を変えたのは、[[市川團十郎]]家への遠慮である。
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翌大正12年も、『大菩薩峠』全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に、 |
翌大正12年も、『大菩薩峠』全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に、正二郎以下の男優多数が賭博の容疑で検挙された。自伝『苦闘の跡』には冤罪とある。そして拘留中に関東大震災が発生。 |
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劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、 |
劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に[[文芸協会]]が主催を引き受け新聞各社が後援し、[[日比谷公園]]野外音楽堂で、﹃勧進帳﹄などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った﹃[[テント|天幕]]劇場﹄で公演するなど、機敏に動いた。
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大正13年、出演中の演技座が燃えた時は、直ちに[[両国国技館]]に、同じ外題を並べた。この年、﹃苦闘の跡﹄を出版した。
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大正13年、出演中の演技座が燃えた時は、直ちに[[両国国技館]]に、同じ外題を並べた。この年、﹃苦闘の跡﹄を出版した。
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昭和2年には、『新国劇十周年記念』の公演を続けた。 |
昭和2年には、『新国劇十周年記念』の公演を続けた。 |
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昭和4年1月、新橋演舞場に出演中に急性[[中耳炎]]を病んで手術し、座長なしの公演を病院から励ました。症状の悪化を新聞が報じた。座員、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、大谷竹二郎、菊池寛らが病床に駆けつけた。大勢のファンが病院を囲 |
昭和4年1月、新橋演舞場に出演中に急性[[中耳炎]]を病んで手術し、座長なしの公演を病院から励ました。症状の悪化を新聞が報じた。座員、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、大谷竹二郎、菊池寛らが正二郎の病床に駆けつけた。大勢のファンが病院を囲み、正二郎は3月4日に没した。死因は急性化膿性[[脳膜炎]]だった。
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== エピソード == |
== エピソード == |
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「新国劇」として、舞台に激しい「[[チャンバラ]]」を持ち込んだのは |
「新国劇」として、舞台に激しい「[[チャンバラ]]」を持ち込んだのは正二郎である。正二郎は大正14年に『国定忠治』、『恩讐の彼方に』、『月形半平太』と三本の剣戟映画に出演しているが、これらの映画は、劇団の関西公演の合間に撮ったものだった。 |
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﹃国定忠治﹄、﹃恩讐の彼方に﹄の二本を監督した[[マキノ省三]]は沢正のファンだった。[[マキノ雅弘]]によると、当時の活動大写真にチャンバラ、大殺陣の要素が大きく加わったのは、新国劇の |
﹃国定忠治﹄、﹃恩讐の彼方に﹄の二本を監督した[[マキノ省三]]は沢正のファンだった。[[マキノ雅弘]]によると、当時の活動大写真にチャンバラ、大殺陣の要素が大きく加わったのは、新国劇の正二郎の影響だった。マキノ省三にとって、正二郎のリアルで激しい立ち回りは一つの夢だったという。
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正二郎の劇団には、名殺陣師と謳われた段平がおり、[[稲垣浩]]によると、映画で「殺陣師」というものが表面に出てきたのは、この正二郎主演の映画あたりからだという<ref>ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より</ref>。 |
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正二郎の葬儀は谷中斎場で営まれ、日比谷公園新音楽堂で催された告別追悼会では、菊池寛が司会し、[[山田耕筰]]が追悼の曲を指揮し、その盛大な葬儀では、時の首相・[[田中義一]]、坪内逍遙、[[頭山満]]、[[高田早苗]]早稲田大学総長らが[[弔辞]]を贈っている。墓所は[[谷中霊園]]の甲3号1側にある。 |
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== おもな出演 == |
== おもな出演 == |
2014年9月7日 (日) 09:43時点における版
さわだ しょうじろう 澤田 正二郎 | |
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本名 | 澤田 正二郎 |
別名義 | 沢正 |
生年月日 | 1892年5月27日 |
没年月日 | 1929年3月4日(36歳没) |
出生地 | 滋賀県大津市 |
死没地 | 東京 |
国籍 | 日本 |
職業 | 舞台俳優 |
活動期間 | 1912年 - 1929年 |
配偶者 | 渡瀬淳子(1913年から1924年まで) |
著名な家族 | 一女一男 |
主な作品 | |
『月形半平太』、『国定忠治』、『大菩薩峠』、『白野弁十郎』 |