「無法松の一生 (1943年の映画)」の版間の差分
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
m 外部リンクの修正 (eigadb.com) (Botによる編集) |
||
(7人の利用者による、間の11版が非表示) | |||
29行目: | 29行目: | ||
| 次作 = |
| 次作 = |
||
}} |
}} |
||
『'''無法松の一生'''』(むほうまつのいっしょう)は、[[1943年]](昭和18年)[[10月28日]]公開の[[日本映画]]である。[[大映]]製作、[[映画配給社]](紅系)配給。監督は[[稲垣浩]]、脚本は[[伊丹万作]]、主演は[[阪東妻三郎]]。[[モノクローム|モノクロ]]、[[画面アスペクト比|スタンダード]]、99分。 |
『'''無法松の一生'''』(むほうまつのいっしょう)は、[[1943年]](昭和18年)[[10月28日]]公開の[[日本映画]]である。[[大映]]製作、[[映画配給社]](紅系)配給。監督は[[稲垣浩]]、脚本は[[伊丹万作]]、主演は[[阪東妻三郎]]。[[モノクローム|モノクロ]]、[[画面アスペクト比|スタンダードサイズ]]、99分、[[映倫]]番号:S-168。 |
||
[[岩下俊作]]の小説『[[無法松の一生|富島松五郎伝]]』の最初の映画化作品で、伊丹が脚本を執筆するが病に伏していたため、稲垣が代わって監督し完成させた。[[北九州]]・[[小倉市|小倉]]を舞台に、喧嘩っ早い人力車夫・松五郎の生涯を描く<ref>『映画検定 公式テストブック』、[[キネマ旬報社]]、2006年、p.34</ref>。日本映画界屈指の名作の一つに数えられ<ref name="再1">[ |
[[岩下俊作]]の小説『[[無法松の一生|富島松五郎伝]]』の最初の映画化作品で、伊丹が脚本を執筆するが病に伏していたため、稲垣が代わって監督し完成させた。[[北九州]]・[[小倉市|小倉]]を舞台に、喧嘩っ早い人力車夫・松五郎の生涯を描く<ref>『映画検定 公式テストブック』、[[キネマ旬報社]]、2006年、p.34</ref>。日本映画界屈指の名作の一つに数えられ<ref name="再1">[https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/888 映画『無法松の一生』再生(Ⅰ)]</ref>、主人公の松五郎を演じた阪東の代表作にもなったが、松五郎が大尉夫人に密かな愛情を告白するシーンなどが[[内務省 (日本)|内務省]]の[[検閲]]で削除され、戦後も[[GHQ]]により一部が削除された。稲垣は完全版を撮るために[[1958年]](昭和33年)に[[無法松の一生 (1958年の映画)|リメイク版]]を製作した。 |
||
== あらすじ == |
== あらすじ == |
||
{{See|無法松の一生#あらすじ}} |
|||
明治30年、小倉に無法松と呼ばれる人力俥夫の松五郎がいた。松五郎は博奕で故郷を追放されていたが舞い戻り、[[若松警察署|若松警察]]の撃剣の先生と喧嘩をして頭を割られ、木賃宿の宇和島屋で寝込んでいた。そんな松五郎は喧嘩っ早いことで評判で、ある日、芝居小屋で仲間の熊吉と[[枡席]]でニンニクを炊いて嫌がらせをし、木戸番と喧嘩するが、結城重蔵の仲裁で素直に謝った。松五郎は意気と侠気のある男だった。 |
|||
※後述の通り2回にわたり大幅な検閲が行われたため、本作では原作の終盤にあたる部分を含む多くの場面が失われている。[[伊丹万作]]による原脚本は『日本シナリオ文学全集 8 伊丹万作集<ref>{{Cite book|和書|chapter=無法松の一生|pages=119-164|title=日本シナリオ文学全集 第8(伊丹万作集)|publisher=理論社|year=1956|chapterurl= {{NDLDC|1358055/65}} }}</ref>』に所収されている。 |
|||
松五郎は堀に落ちてけがをした少年・敏雄を助ける。敏雄の父親は陸軍[[大尉]]の吉岡小太郎であり、これが縁で松五郎は吉岡家に出入りするようになった。しかし、吉岡大尉は雨天の演習で風邪を引き急死した。夫人のよし子は、敏雄が気の弱いことを心配して松五郎を頼りにする。松五郎は夫人と敏雄に献身的に尽くしていった。 |
|||
やがて敏雄は小倉中学の4年生になり、[[青島の戦い|青島陥落]]を祝う提灯行列の日に他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせるが、松五郎は逆にそれを喜び喧嘩に加勢した。その後敏雄は[[第五高等学校 (旧制)|五高]]に入学し、松五郎とは疎遠になっていった。[[小倉祇園太鼓]]の日、夏休みのため敏雄が五高の先生を連れてきて帰省した。本場の祇園太鼓を聞きたがっていた先生の案内役をしていた松五郎は、山車に乗って撥を取り太鼓を打つ。流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち。長い間聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を叩き、町中にその音が響いた。 |
|||
それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、夫人に対する思慕を打ち明けようとするが、「ワシの心は汚い」と一言言って、彼女のもとを去った。その後、松五郎は酒に溺れ、遂に雪の中で倒れて死んだ。彼の遺品の中には、夫人と敏雄名義の預金通帳と、吉岡家からもらった祝儀が手を付けずに残してあった。 |
|||
== スタッフ == |
== スタッフ == |
||
* |
*演出:[[稲垣浩]] |
||
*原作:[[岩下俊作]] |
*原作:[[岩下俊作]] |
||
*脚色:[[伊丹万作]] |
*脚色:[[伊丹万作]] |
||
54行目: | 49行目: | ||
*編集:[[西田重雄]] |
*編集:[[西田重雄]] |
||
*和楽:[[田中傳次]] |
*和楽:[[田中傳次]] |
||
*舞踏:[[大阪梅田舞 |
*舞踏:[[大阪梅田舞踊団]] |
||
*製作主任:[[黒田豊]] |
*製作主任:[[黒田豊]] |
||
*演出:稲垣浩 |
|||
== キャスト == |
== キャスト == |
||
94行目: | 88行目: | ||
== 製作 == |
== 製作 == |
||
[[ファイル:The Rickshaw Man (1943).jpg|サムネイル|松五郎(阪東妻三郎)と敏雄(澤村アキヲ)]] |
|||
[[1940年]](昭和15年)、病臥によって[[東宝]]を退社した[[伊丹万作]]は、[[1941年]](昭和16年)2月から[[角川大映スタジオ|日活多摩川撮影所]]に移籍し<ref name="再3">[ |
[[1940年]](昭和15年)、病臥によって[[東宝]]を退社した[[伊丹万作]]は、[[1941年]](昭和16年)2月から[[角川大映スタジオ|日活多摩川撮影所]]に移籍し<ref name="再3">[https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/833 映画『無法松の一生』再生(Ⅲ)]</ref>、[[曾我正史]]日活京都撮影所長の発案により<ref>伊丹万作「『無法松の一生』について」、『静臥雑記』、国際情報社出版部、1943年、p.143</ref>、監督再起の作品として『[[富島松五郎伝]]』を『いい奴』の題でシナリオ化した<ref name="再3"/>。しかし、健康が優れないため企画は見送られた<ref name="再3"/><ref name="全集">『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.485</ref>。 |
||
『富島松五郎伝』の映画化は各社で考えられていた。[[新興キネマ]]では[[市川右太衛門]]の主演でやろうという計画があり、[[東宝]]でも[[大河内傳次郎]]の主演で計画されていたが、俥引きの話は東宝の看板には沿わないという理由で実現しなかった<ref name="再4">[ |
『富島松五郎伝』の映画化は各社で考えられていた。[[新興キネマ]]では[[市川右太衛門]]の主演でやろうという計画があり、[[東宝]]でも[[大河内傳次郎]]の主演で計画されていたが、俥引きの話は東宝の看板には沿わないという理由で実現しなかった<ref name="再4">[https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/804 映画『無法松の一生』再生(Ⅳ)]</ref>。 |
||
[[1942年]](昭和17年)、日活は |
[[1942年]](昭和17年)、日活は新興キネマ、[[大都映画]]と合併し[[大映]]となった。『無法松の一生』は興行的にも当たる可能性の少ない素材であり、内容的にも[[検閲]]当局の方針に添わないという理由で、社内でも懸念の声が多かった中、大映製作局長となった曾我正史が企画を押し通したことで本作の製作が実現することとなった<ref name="再3"/>。『無法松の一生』という題はこのとき伊丹が改めたもので、病身だった伊丹に代わり、彼とは[[片岡千恵蔵プロダクション]]時代からの付き合いがある[[稲垣浩]]が監督を務めることとなった。 |
||
稲垣は、『[[江戸最後の日]]』(1941年)で主演した[[阪東妻三郎]]に松五郎役を依頼するが、阪妻は一旦断っている。しかし、再三の出演依頼に対して、阪妻は稲垣に「命を賭けてもやるつもりか」と聞いたという。稲垣がそうだと答えると、「よろしい、私も命を張ろう」と応じて<ref>池田重臣『阪妻の世界』、池田書店、1976年、p.123</ref>、起用が成立した。阪妻は自分で人力車を引いて役柄を工夫し、日常生活でも車夫の生活を真似て役作りを行った<ref name="全集"/>。 |
稲垣は、『[[江戸最後の日]]』(1941年)で主演した[[阪東妻三郎]]に松五郎役を依頼するが、阪妻は一旦断っている。しかし、再三の出演依頼に対して、阪妻は稲垣に「命を賭けてもやるつもりか」と聞いたという。稲垣がそうだと答えると、「よろしい、私も命を張ろう」と応じて<ref>池田重臣『阪妻の世界』、池田書店、1976年、p.123</ref>、起用が成立した。阪妻は自分で人力車を引いて役柄を工夫し、日常生活でも車夫の生活を真似て役作りを行った<ref name="全集"/>。 |
||
吉岡夫人の役には当初、[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]を候補に挙げていたが、公演があったため断念。続いて[[東宝]]の[[入江たか子]]を呼ぶことにするが、東宝では入江と大河内の主演で﹃無法松の一生﹄をやる計画もあったため、貸してくれずこちらも断念<ref name="再4"/><ref name="我が心">[[高瀬昌弘]]﹃我が心の稲垣浩﹄、ワイズ出版、2000年</ref>。次に結婚して[[宝塚歌劇団]]を退団していた[[小夜福子]]に出演依頼をするが、折悪しく小夜は妊娠中で、かなりお腹が大きくなっていて出演を辞退した。しかし、小夜は﹁もし、ほかに候補の方がなかったらと思ってこの人を連れてきたのです、私よりもピッタリだと思いますけど。﹂と、宝塚歌劇団で小夜の下級生にあたる[[園井恵子]]を稲垣らに紹介した<ref name="ひげ">稲垣浩﹃ひげとちょんまげ 生きている映画史﹄、中央公論社、1981年</ref>。園井はアスピリン中毒で口の周りに湿疹ができていてマスクをどうしても外してくれなかったが、稲垣は小夜の言葉を信じて園井の起用を決めた。結局、園井は稲垣の予想以上に吉岡夫人を演じて見せてくれ、非常に親しい仲となった。稲垣は園井について、﹁まるでこの役をやるために生まれてきたような人だった﹂と評している<ref name="若き日々">[[稲垣浩]]﹃日本映画の若き日々﹄、毎日新聞社、1978年</ref>
|
吉岡夫人の役には当初、[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]を候補に挙げていたが、公演があったため断念。続いて[[東宝]]の[[入江たか子]]を呼ぶことにするが、東宝では入江と大河内の主演で﹃無法松の一生﹄をやる計画もあったため、貸してくれずこちらも断念<ref name="再4"/><ref name="我が心">[[高瀬昌弘]]﹃我が心の稲垣浩﹄、ワイズ出版、2000年</ref>。次に結婚して[[宝塚歌劇団]]を退団していた[[小夜福子]]に出演依頼をするが、折悪しく小夜は妊娠中で、かなりお腹が大きくなっていて出演を辞退した。しかし、小夜は﹁もし、ほかに候補の方がなかったらと思ってこの人を連れてきたのです、私よりもピッタリだと思いますけど。﹂と、宝塚歌劇団で小夜の下級生にあたる[[園井恵子]]を稲垣らに紹介した<ref name="ひげ">稲垣浩﹃ひげとちょんまげ 生きている映画史﹄、中央公論社、1981年</ref>。園井はアスピリン中毒で口の周りに湿疹ができていてマスクをどうしても外してくれなかったが、稲垣は小夜の言葉を信じて園井の起用を決めた。結局、園井は稲垣の予想以上に吉岡夫人を演じて見せてくれ、非常に親しい仲となった。稲垣は園井について、﹁まるでこの役をやるために生まれてきたような人だった﹂と評している<ref name="若き日々">[[稲垣浩]]﹃日本映画の若き日々﹄、毎日新聞社、1978年</ref>。
|
||
撮影は[[1943年]](昭和18年)2月に開始され<ref name="再1"/>、[[8月24日]]に終了した<ref name="我が心"/>。ラストの松五郎が雪の中に倒れるシーンは、阪妻が中耳炎で倒れて入院したため、仕方なしに殺陣師の[[久世竜]]を替え玉([[吹き替え|吹替え]])に立てて[[赤倉温泉 (新潟県)|赤倉]]で撮影した<ref name="再3"/><ref name="我が心"/>。この場面が吹替えと分かったものはいなかったが、阪妻本人は悔しがり、「いい仕事ができて良かったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっともっと良かったでしょう」と稲垣に語ったという<ref name="若き日々"/>。 |
撮影は[[1943年]](昭和18年)2月に開始され<ref name="再1"/>、[[8月24日]]に終了した<ref name="我が心"/>。ラストの松五郎が雪の中に倒れるシーンは、阪妻が中耳炎で倒れて入院したため、仕方なしに殺陣師の[[久世竜]]を替え玉([[吹き替え|吹替え]])に立てて[[赤倉温泉 (新潟県)|赤倉]]で撮影した<ref name="再3"/><ref name="我が心"/>。この場面が吹替えと分かったものはいなかったが、阪妻本人は悔しがり、「いい仕事ができて良かったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっともっと良かったでしょう」と稲垣に語ったという<ref name="若き日々"/>。 |
||
148行目: | 143行目: | ||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* {{NFAJ title|1874|無法松の一生(7133.04ft)}} |
|||
*[http://www.jmdb.ne.jp/1943/bs000610.htm 無法松の一生] - [[日本映画データベース]] |
|||
* |
* {{NFAJ title|1787|無法松の一生(7043.13ft)}} |
||
* {{NFAJ title|1788|無法松の一生(2850.06ft)}} |
|||
⚫ | *[ |
||
* {{Allcinema title|134779|無法松の一生 (1943)}} |
|||
* {{Kinejun title|68408|無法松の一生 (1943)}} |
|||
⚫ | * [https://www.kinejun.com/cinema/view/68408 無法松の一生] - [[キネマ旬報社|映画DB]] |
||
* {{JMDb title|1943|bs000610|無法松の一生}} |
|||
* {{imdb title|0036177|Muhomatsu no issho (1943)}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
165行目: | 165行目: | ||
[[Category:北九州市を舞台とした映画作品]] |
[[Category:北九州市を舞台とした映画作品]] |
||
[[Category:明治時代を舞台とした映画作品]] |
[[Category:明治時代を舞台とした映画作品]] |
||
[[Category:19世紀を舞台とした映画作品]] |
|||
[[Category:20世紀を舞台とした映画作品]] |
|||
[[Category:日本の白黒映画]] |
[[Category:日本の白黒映画]] |
||
[[Category:フィルムが部分的に現存している映画]] |
[[Category:フィルムが部分的に現存している映画]] |
2024年3月18日 (月) 17:15時点における最新版
無法松の一生 | |
---|---|
![]() | |
監督 | 稲垣浩 |
脚本 | 伊丹万作 |
原作 | 岩下俊作 |
製作 | 中泉雄光 |
出演者 |
阪東妻三郎 園井恵子 沢村アキヲ 月形龍之介 |
音楽 | 西悟郎 |
撮影 | 宮川一夫 |
編集 | 西田重雄 |
製作会社 | 大映京都撮影所 |
配給 | 映画配給社(紅系) |
公開 |
![]() |
上映時間 | 99分(現存78分) |
製作国 |
![]() |
言語 | 日本語 |
あらすじ
[編集]※後述の通り2回にわたり大幅な検閲が行われたため、本作では原作の終盤にあたる部分を含む多くの場面が失われている。伊丹万作による原脚本は『日本シナリオ文学全集 8 伊丹万作集[3]』に所収されている。
スタッフ
[編集]- 演出:稲垣浩
- 原作:岩下俊作
- 脚色:伊丹万作
- 製作:中泉雄光
- 撮影:宮川一夫
- 音楽:西悟郎
- 録音:佐々木稔郎
- 設計:角井平吉
- 照明:奥野安之助
- 編集:西田重雄
- 和楽:田中傳次
- 舞踏:大阪梅田舞踊団
- 製作主任:黒田豊
キャスト
[編集]- 富島松五郎:阪東妻三郎
- 結城重蔵:月形龍之介
- 吉岡小太郎:永田靖
- 夫人よし子:園井恵子
- 吉岡敏雄:川村禾門
- 敏雄の少年時代:澤村アキヲ(長門裕之)
- 宇和島屋:杉狂児
- 撃剣の先生:山口勇
- 巡査:葛木香一
- 熊吉:尾上華丈
- 木戸番の清吉:小宮一晃
- 松五郎の父:香川良介
- 松五郎の継母:小林叶江
- 松五郎の少年時代:町田仁
- 奥大将:荒木忍
- 副官:横山文彦
- 五高の先生:戸上城太郎
- 居酒屋の亭主:水野浩
- 町の古老:葉山富之輔
- 茶店の老婆:二葉かほる
- 茶店の客:浮田勝三郎
- 子を探す母親:瀧澤靜子
- 酔っぱらいの紳士:春日清
- 俥上の客:大川原左雁次
- オチニの薬売り:志茂山剛
- 虚無僧:小池柳星
- ぼんさん:駒井耀
- 師範の主将:中根正治
- 敏雄の学友甲:阪東実
- 敏雄の学友乙:宗春太郎
- 太鼓を打つ青年:杉本潤一
製作
[編集]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/The_Rickshaw_Man_%281943%29.jpg/220px-The_Rickshaw_Man_%281943%29.jpg)
検閲によるフィルムの切除
[編集]近年、宮川一夫の遺品の中からGHQによってカットされた場面のフィルムが発見され、2007年(平成19年)9月28日にその場面が特典映像として収録されたDVDが角川エンタテインメントから発売された。しかし、内務省によってカットされた部分はスチル写真で現存するのみで、フィルムは今もって発見されていない。
評価
[編集]- 1989年:「日本映画史上ベスト・テン」(キネマ旬報発表)第20位
- 1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第8位
- 1995年:「日本映画 オールタイム・ベストテン」(キネマ旬報発表)第15位
- 1999年:「オールタイム・ベスト100 日本映画編」(キネマ旬報発表)第19位[16]
- 2009年:「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」(キネマ旬報発表)第59位[17]
祇園太鼓
[編集]影響
[編集]その他
[編集]出典
[編集]外部リンク
[編集]- 無法松の一生(7133.04ft) - 国立映画アーカイブ
- 無法松の一生(7043.13ft) - 国立映画アーカイブ
- 無法松の一生(2850.06ft) - 国立映画アーカイブ
- 無法松の一生 (1943) - allcinema
- 無法松の一生 (1943) - KINENOTE
- 無法松の一生 - 映画DB
- 無法松の一生 - 日本映画データベース
- Muhomatsu no issho (1943) - IMDb