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「無法松の一生 (1943年の映画)」の版間の差分

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== あらすじ ==

== あらすじ ==

{{See|無法松の一生#あらすじ}}

明治30年、小倉に無法松と呼ばれる人力俥夫の松五郎がいた。松五郎は博奕で故郷を追放されていたが舞い戻り、[[若松警察署|若松警察]]の撃剣の先生と喧嘩をして頭を割られ、木賃宿の宇和島屋で寝込んでいた。そんな松五郎は喧嘩っ早いことで評判で、ある日、芝居小屋で仲間の熊吉と[[枡席]]でニンニクを炊いて嫌がらせをし、木戸番と喧嘩するが、結城重蔵の仲裁で素直に謝った。松五郎は意気と侠気のある男だった。

※後述の通り2回にわたり大幅な検閲が行われたため、本作では原作の終盤にあたる部分を含む多くの場面が失われている。[[伊丹万作]]による原脚本は『日本シナリオ文学全集 8 伊丹万作集<ref>{{Cite book|和書|chapter=無法松の一生|pages=119-164|title=日本シナリオ文学全集 第8(伊丹万作集)|publisher=理論社|year=1956|chapterurl= {{NDLDC|1358055/65}} }}</ref>』に所収されている。


松五郎は堀に落ちてけがをした少年・敏雄を助ける。敏雄の父親は陸軍[[大尉]]の吉岡小太郎であり、これが縁で松五郎は吉岡家に出入りするようになった。しかし、吉岡大尉は雨天の演習で風邪を引き急死した。夫人のよし子は、敏雄が気の弱いことを心配して松五郎を頼りにする。松五郎は夫人と敏雄に献身的に尽くしていった。


やがて敏雄は小倉中学の4年生になり、[[青島の戦い|青島陥落]]を祝う提灯行列の日に他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせるが、松五郎は逆にそれを喜び喧嘩に加勢した。その後敏雄は[[第五高等学校 (旧制)|五高]]に入学し、松五郎とは疎遠になっていった。[[小倉祇園太鼓]]の日、夏休みのため敏雄が五高の先生を連れてきて帰省した。本場の祇園太鼓を聞きたがっていた先生の案内役をしていた松五郎は、山車に乗って撥を取り太鼓を打つ。流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち。長い間聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を叩き、町中にその音が響いた。


それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、夫人に対する思慕を打ち明けようとするが、「ワシの心は汚い」と一言言って、彼女のもとを去った。その後、松五郎は酒に溺れ、遂に雪の中で倒れて死んだ。彼の遺品の中には、夫人と敏雄名義の預金通帳と、吉岡家からもらった祝儀が手を付けずに残してあった。



== スタッフ ==

== スタッフ ==

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== 製作 ==

== 製作 ==

[[ファイル:The Rickshaw Man (1943).jpg|サムネイル|松五郎(阪東妻三郎)と敏雄(澤村アキヲ)]]

[[1940年]](昭和15年)、病臥によって[[東宝]]を退社した[[伊丹万作]]は、[[1941年]](昭和16年)2月から[[角川大映スタジオ|日活多摩川撮影所]]に移籍し<ref name="再3">[https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/833 映画『無法松の一生』再生(Ⅲ)]</ref>、[[曾我正史]]日活京都撮影所長の発案により<ref>伊丹万作「『無法松の一生』について」、『静臥雑記』、国際情報社出版部、1943年、p.143</ref>、監督再起の作品として『[[富島松五郎伝]]』を『いい奴』の題でシナリオ化した<ref name="再3"/>。しかし、健康が優れないため企画は見送られた<ref name="再3"/><ref name="全集">『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.485</ref>。

[[1940年]](昭和15年)、病臥によって[[東宝]]を退社した[[伊丹万作]]は、[[1941年]](昭和16年)2月から[[角川大映スタジオ|日活多摩川撮影所]]に移籍し<ref name="再3">[https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/833 映画『無法松の一生』再生(Ⅲ)]</ref>、[[曾我正史]]日活京都撮影所長の発案により<ref>伊丹万作「『無法松の一生』について」、『静臥雑記』、国際情報社出版部、1943年、p.143</ref>、監督再起の作品として『[[富島松五郎伝]]』を『いい奴』の題でシナリオ化した<ref name="再3"/>。しかし、健康が優れないため企画は見送られた<ref name="再3"/><ref name="全集">『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.485</ref>。



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稲垣は、『[[江戸最後の日]]』(1941年)で主演した[[阪東妻三郎]]に松五郎役を依頼するが、阪妻は一旦断っている。しかし、再三の出演依頼に対して、阪妻は稲垣に「命を賭けてもやるつもりか」と聞いたという。稲垣がそうだと答えると、「よろしい、私も命を張ろう」と応じて<ref>池田重臣『阪妻の世界』、池田書店、1976年、p.123</ref>、起用が成立した。阪妻は自分で人力車を引いて役柄を工夫し、日常生活でも車夫の生活を真似て役作りを行った<ref name="全集"/>。

稲垣は、『[[江戸最後の日]]』(1941年)で主演した[[阪東妻三郎]]に松五郎役を依頼するが、阪妻は一旦断っている。しかし、再三の出演依頼に対して、阪妻は稲垣に「命を賭けてもやるつもりか」と聞いたという。稲垣がそうだと答えると、「よろしい、私も命を張ろう」と応じて<ref>池田重臣『阪妻の世界』、池田書店、1976年、p.123</ref>、起用が成立した。阪妻は自分で人力車を引いて役柄を工夫し、日常生活でも車夫の生活を真似て役作りを行った<ref name="全集"/>。




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撮影は[[1943年]](昭和18年)2月に開始され<ref name="再1"/>、[[8月24日]]に終了した<ref name="我が心"/>。ラストの松五郎が雪の中に倒れるシーンは、阪妻が中耳炎で倒れて入院したため、仕方なしに殺陣師の[[久世竜]]を替え玉([[吹き替え|吹替え]])に立てて[[赤倉温泉 (新潟県)|赤倉]]で撮影した<ref name="再3"/><ref name="我が心"/>。この場面が吹替えと分かったものはいなかったが、阪妻本人は悔しがり、「いい仕事ができて良かったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっともっと良かったでしょう」と稲垣に語ったという<ref name="若き日々"/>。

撮影は[[1943年]](昭和18年)2月に開始され<ref name="再1"/>、[[8月24日]]に終了した<ref name="我が心"/>。ラストの松五郎が雪の中に倒れるシーンは、阪妻が中耳炎で倒れて入院したため、仕方なしに殺陣師の[[久世竜]]を替え玉([[吹き替え|吹替え]])に立てて[[赤倉温泉 (新潟県)|赤倉]]で撮影した<ref name="再3"/><ref name="我が心"/>。この場面が吹替えと分かったものはいなかったが、阪妻本人は悔しがり、「いい仕事ができて良かったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっともっと良かったでしょう」と稲垣に語ったという<ref name="若き日々"/>。

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== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

* {{NFAJ title|1874|無法松の一生(7133.04ft)}}

*[http://www.jmdb.ne.jp/1943/bs000610.htm 無法松の一生] - [[日本映画データベース]]

*[https://www.allcinema.net/cinema/134779 無法松の一生] - [[allcinema]]

* {{NFAJ title|1787|無法松の一生(7043.13ft)}}

* {{NFAJ title|1788|無法松の一生(2850.06ft)}}

*[http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=68408 無法松の一生(1943)] - [[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]]

* {{Allcinema title|134779|無法松の一生 (1943)}}

* {{Kinejun title|68408|無法松の一生 (1943)}}

* [https://www.kinejun.com/cinema/view/68408 無法松の一生] - [[キネマ旬報社|映画DB]]

* {{JMDb title|1943|bs000610|無法松の一生}}

* {{imdb title|0036177|Muhomatsu no issho (1943)}}



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

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[[Category:北九州市を舞台とした映画作品]]

[[Category:北九州市を舞台とした映画作品]]

[[Category:明治時代を舞台とした映画作品]]

[[Category:明治時代を舞台とした映画作品]]

[[Category:19世紀を舞台とした映画作品]]

[[Category:20世紀を舞台とした映画作品]]

[[Category:日本の白黒映画]]

[[Category:日本の白黒映画]]

[[Category:フィルムが部分的に現存している映画]]

[[Category:フィルムが部分的に現存している映画]]


2024年3月18日 (月) 17:15時点における最新版

無法松の一生 > 無法松の一生 (1943年の映画)
無法松の一生

左から沢村アキヲ阪東妻三郎園井恵子

監督 稲垣浩
脚本 伊丹万作
原作 岩下俊作
製作 中泉雄光
出演者 阪東妻三郎
園井恵子
沢村アキヲ
月形龍之介
音楽 西悟郎
撮影 宮川一夫
編集 西田重雄
製作会社 大映京都撮影所
配給 映画配給社(紅系)
公開 日本の旗 1943年10月28日
上映時間 99分(現存78分)
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
テンプレートを表示

194318102899:S-168

[1][2]GHQ195833

あらすじ

[編集]

※後述の通り2回にわたり大幅な検閲が行われたため、本作では原作の終盤にあたる部分を含む多くの場面が失われている。伊丹万作による原脚本は『日本シナリオ文学全集 8 伊丹万作集[3]』に所収されている。

スタッフ

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キャスト

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製作

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松五郎(阪東妻三郎)と敏雄(澤村アキヲ)

194015退1941162[4][5][4][4][6]

沿[7]

194217[4]

1941[8][6]

[7][9]退退[10]湿[11]

1943182[2]824[9][4][9][11]

[2]

検閲によるフィルムの切除

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2

[11][12]稿稿[13]

109237750741043[2][14]

GHQ8[7][2]

195833

近年、宮川一夫の遺品の中からGHQによってカットされた場面のフィルムが発見され、2007年(平成19年)9月28日にその場面が特典映像として収録されたDVD角川エンタテインメントから発売された。しかし、内務省によってカットされた部分はスチル写真で現存するのみで、フィルムは今もって発見されていない。

評価

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1943181028[10]姿2194312姿3[15]


  • 1989年:「日本映画史上ベスト・テン」(キネマ旬報発表)第20位
  • 1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第8位
  • 1995年:「日本映画 オールタイム・ベストテン」(キネマ旬報発表)第15位
  • 1999年:「オールタイム・ベスト100 日本映画編」(キネマ旬報発表)第19位[16]
  • 2009年:「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」(キネマ旬報発表)第59位[17]

祇園太鼓

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[11][18][11]

影響

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その他

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[18]

西!

出典

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(一)^  2006p.34

(二)^ abcde()

(三)^  81956119-164https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1358055/65 

(四)^ abcde

(五)^ 1943p.143

(六)^ ab1979p.485

(七)^ abc

(八)^ 1976p.123

(九)^ abc2000

(十)^ ab 1981

(11)^ abcde1978

(12)^ 171

(13)^ 1943p.160

(14)^ 71961725p.26

(15)^ 85 1924-20112012523p.44

(16)^ 85 1924-20112012523p.588

(17)^  200201531

(18)^ ab201496

外部リンク

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関連項目

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