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「笹下」の版間の差分

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'''笹下'''(ささげ)は、[[横浜市]][[港南区]]東部の地名。現行行政地名は笹下一丁目から笹下七丁目。[[住居表示]]実施済み区域。[[郵便番号]]は234-0052<ref name="postal" />。[[上大岡]]の南に位置し、東側と南側は[[磯子区]]に接する。

'''笹下'''(ささげ)は、[[横浜市]][[港南区]]東部の地名。現行行政地名は笹下一丁目から笹下七丁目。[[住居表示]]実施済み区域。[[郵便番号]]は234-0052<ref name="postal" />。[[上大岡]]の南に位置し、東側と南側は[[磯子区]]に接する。



==街概要==

[[大岡川 (神奈川県)|笹下川]]・[[笹下釜利谷道路]](旧[[金沢道]])沿いに古くから開けた土地であり、明治時代には[[久良岐郡]]の中心として発展した。


[[ ()|]][[]][[]]沿[[]][[]]

地域の[[盆踊り]]などでは、「笹下よいとこ」というオリジナルの歌が流される事がある。



==地名由来==

==地名由来==

[[武州久良岐郡地名考]]』や『[[日本城郭大系]]』によれば、笹下の地名は、間宮氏の出身地である近江国篠箇郷の地名由来であると考えられる。

『武州久良岐郡地名考』や『[[日本城郭大系]]』によれば、笹下の地名は、間宮氏の出身地である近江国篠箇郷の地名由来であるとる。[[大岡川 (神奈川県)|笹下川]](大岡川)の河川名由来も地名と同じく城に由来する。


[[大岡川 (神奈川県)|笹下川]](大岡川)の河川名由来も地名と同じく城に由来する。



== 地理 ==

== 地理 ==

=== 笹下一〜三丁目 ===

=== 笹下一〜三丁目 ===

笹下川東側の南北に細長い地域で、東側は磯子区森が丘・[[森 (横浜市)|森]]に接する。一丁目には、総戸数430戸の笹下台団地が1969年に完成した。二丁目の[[関宮山東樹院]]付近は江戸時代には[[高札場]]が置かれ、明治時代は郡役所などが置かれていた。現在、郡役所は住宅地となっている。湘南信用金庫(現在は閉店)前には、[[北条実時]]の病を治した言い伝えの残る「鰻の井戸」が保存されている。

笹下川東側の南北に細長い地域で、東側は磯子区森が丘・[[森 (横浜市)|森]]に接する。一丁目には、総戸数430戸の笹下台団地が1969年に完成した。二丁目の関宮山東樹院付近は江戸時代には[[高札場]]が置かれ、明治時代は郡役所などが置かれていた。現在、郡役所は住宅地となっている。[[北条実時]]の病を治した言い伝えの残る「鰻の井戸」が保存されている。



湘南信用金庫(現在は閉店)近くに明治時代に[[石川楼]]と言う料亭が存在し、[[皇族]]が杉田梅林に観梅に行く際の休憩所としても利用されていた。環状2号の南側の三丁目には[[横浜市立日下小学校|日下小学校]]があり、[[ファミリーレストラン]]などの[[ロードサイド]]型店舗も点在する。

明治時代に石川楼と言う料亭が存在し、[[皇族]]が杉田梅林に観梅に行く際の休憩所としても利用されていた。環状2号の南側の三丁目には[[横浜市立日下小学校|日下小学校]]があり、[[ファミリーレストラン]]などの[[ロードサイド]]型店舗も点在する。



=== 笹下四丁目 ===

=== 笹下四丁目 ===

磯子区洋光台一丁目~笹下四丁目に、[[間宮氏]]の居城である[[笹下城]]の主要部分が存在した。[[梅花山成就院]]の裏の丘頂上部一帯が本丸と伝わる。

磯子区洋光台一丁目~笹下四丁目に、[[間宮氏]]の居城である[[笹下城]]の主要部分が存在した。梅花山[[成就院 (横浜市)|成就院]]の裏の丘頂上部一帯が本丸と伝わる。



[[江戸時代]]初期に[[間宮直元]]によって笹下間宮家の陣屋が洋光台1丁目の元笹下橋付近に置かれた。陣屋の門は成就院に移築され現存。幕末の[[鎌倉事件]]で実行犯として後から出頭した[[間宮一]]の墓も同寺に現存する。

[[江戸時代]]初期に[[間宮直元]]によって笹下間宮家の陣屋が洋光台1丁目の元笹下橋付近に置かれた。陣屋の門は成就院に移築され現存。幕末の[[鎌倉事件]]で実行犯として後から出頭した[[間宮一]]の墓も同寺に現存する。


[[Fit Care DEPOT]]笹下店辺りにはIHI団地造成まで笹下城の抜け穴と呼ばれる手彫りの洞穴が存在した。[[1980年]]に、笹下城の外堀りとして機能した笹下川沿いに、日下小学校の第2運動場が設けられている。



=== 笹下五丁目 ===

=== 笹下五丁目 ===


西2[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>[[]] 1996</ref>調

西[[2]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>[[]] 1996</ref>[[調]]

また、この公園は[[笹下城]]の出丸の一つの北見掃部屋敷跡で、[[切岸]]と[[犬走り]]が存在したともいうが、発掘調査結果は、城のような地形は自然の地形で、城跡や中世に属する遺構は発見されなかった<ref>横浜市 1990 pp.6</ref><ref>[[横浜市埋蔵文化財センター]] 1996 pp.3</ref>。



かつての雑色村であり、雑色町内会の名にその名残を留めている。

かつての雑色村であり、雑色町内会の名にその名残を留めている。

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笹下川西側の住宅地。北は港南区港南、南は磯子区洋光台、西は港南区日野中央の[[日野公園墓地]]に接する。

笹下川西側の住宅地。北は港南区港南、南は磯子区洋光台、西は港南区日野中央の[[日野公園墓地]]に接する。



笹下七丁目~[[天照大神宮]]~[[横浜市立笹下中学校]]にかけての丘陵は笹下城の出城[[笹下松本城|松本城]]が存在した。この丘陵の天照大神宮付近には現在も「中の丸」の名が残り、丘の頂上部近く、桜道が交差する辺りは「陣が台」の地名が残り練兵場や有事の指揮所として機能していたと『[[日本城郭大系]]』や『[[久良岐郡地名考]]』等で考察されている。

笹下七丁目~[[天照大神宮]]~[[横浜市立笹下中学校]]にかけての丘陵は笹下城の出城松本城が存在した。この丘陵の天照大神宮付近には現在も「中の丸」の名が残り、丘の頂上部近く、桜道が交差する辺りは「陣が台」の地名が残り練兵場や有事の指揮所として機能していたと『日本城郭大系』や『久良岐郡地名考』等で考察されている。



六・七丁目の新興住宅地は、駅から遠く長らく交通が不便な場所であったが、2001年に江ノ電バスによる路線バスが開通した。

六・七丁目の新興住宅地は、駅から遠く長らく交通が不便な場所であったが、2001年に江ノ電バスによる路線バスが開通した。

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== 歴史 ==

== 歴史 ==

発掘された石器から、[[縄文時代]]より先住民族が暮らしていたと考えられている<ref name="seki">『関の郷土史』1966年関町内会編</ref>。

発掘された[[雑色杉本遺跡]]などから、[[縄文時代]]よりが暮らしていたと考えられている<ref name="seki">『関の郷土史』1966年関町内会編</ref>。



元は磯子区南部~現在の港南区の内旧武蔵国域に及ぶ広範囲が杉田郷だったと考えられている。間宮氏の入部後に笹下郷が分離、[[天文 (元号)|天文]]年間([[1532年]] - [[1555年]])に、笹下村・関村・雑色村・松本村に分かれた。関村は現在の笹下二丁目を中心とした地域、雑色村は四〜七丁目および三丁目の南側、松本村は一丁目北側と港南の一部に概ね相当するが、[[飛地]]や[[入会地]]が多く、境ははっきりしていない。

元は磯子区南部~現在の港南区の内旧武蔵国域に及ぶ広範囲が杉田郷だったと考えられている。間宮氏の入部後に笹下郷が分離、[[天文 (元号)|天文]]年間([[1532年]] - [[1555年]])に、笹下村・関村・雑色村・松本村に分かれた。関村は現在の笹下二丁目を中心とした地域、雑色村は四〜七丁目および三丁目の南側、松本村は一丁目北側と港南の一部に概ね相当するが、[[飛地]]や[[入会地]]が多く、境ははっきりしていない。

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

* 『[[関八州古戦録]]1726年

* 『県別マップル 神奈川県広域・詳細道路地図』 2006年4刷


* 『日本城郭大系』

* 『関八州古戦録』

* 『生野史』

* 『武内家所蔵間宮家家系図』

* [[武内広吉]]著『久良岐郡地名考』

* [[下山治久]]編『[[後北条氏家臣団人名辞典]]』[[東京堂出版]]、2006年

* [[盛本昌広]]著「間宮氏由緒の形成」(『六浦文化研究』第十号所収、六浦文化研究所、2001年)

* [[横浜市埋蔵文化財センター]]・横浜市道路局 1996(平成8) 『雑色杉本遺跡発掘調査報告-都市計画道路環状2号線街路整備事業(港南地区)に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』{{NCID|BN1590263X}}

* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ80久良岐郡ノ8|publisher=内務省地理局|date=1884-6}}

* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ80久良岐郡ノ8|publisher=内務省地理局|date=1884-6}}

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* 太田虎一『生野史』1962年

{{港南区の町名}}



* 『[[日本城郭大系]]1980年

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* 横浜市教育委員会 1990年(平成2年)『平成元年度文化財年報(埋蔵文化財その8)』pp.5-6 {{URL|https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN10275261|NCID AN10275261}}


* [[武内広吉]]著『久良岐郡地名考』1995年


* [[横浜市埋蔵文化財センター]]・横浜市道路局 1996年(平成8年)『雑色杉本遺跡発掘調査報告-都市計画道路環状2号線街路整備事業港南地区に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』{{URL|https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN1590263X|NCID BN1590263X}}


* [[盛本昌広]]著「間宮氏由緒の形成」『六浦文化研究』第十号所収、六浦文化研究所、2001年


*『県別マップル 神奈川県広域・詳細道路地図』2006年4刷


* [[下山治久]]編『[[後北条氏家臣団人名辞典]]』[[東京堂出版]]、2006年


*『武内家所蔵間宮家家系図』(出版社・出版年不明)


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[[Category:港南区の町名]]

[[Category:港南区の町名]]


2020年10月12日 (月) 16:10時点における版

笹下
笹下四丁目から一・二丁目方面を望む

笹下四丁目から一・二丁目方面を望む

笹下の位置(横浜市内)
笹下

笹下

笹下の位置

笹下の位置(神奈川県内)
笹下

笹下

笹下 (神奈川県)

北緯35度23分29.96秒 東経139度35分31.42秒 / 北緯35.3916556度 東経139.5920611度 / 35.3916556; 139.5920611
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県
市町村 横浜市
港南区
面積

[1]

 • 合計 1.328 km2
人口

(2017年(平成29年)12月31日現在)[2]

 • 合計 15,736人
 • 密度 12,000人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
234-0052[3]
市外局番 045 (横浜MA)[4]
ナンバープレート 横浜

便234-0052[3]


沿




4301969

2




1


西2[5]調

調[6][7]



西西



便2001

沿[8]


[1]
丁目 面積(km2
笹下一丁目 0.152
笹下二丁目 0.232
笹下三丁目 0.258
笹下四丁目 0.136
笹下五丁目 0.228
笹下六丁目 0.214
笹下七丁目 0.108
1.328

地価


201426116-25-7173000/m2[9]


[10]

1532 - 1555



稿34[11]42[12]64[13]沿沿

沿


 - 

1590() - 

1868 - 

1868 - 4545

1872 - 

1873 - 19771893

1875 - 便

1877 - 

1870 - 

1880 - 

188413 - 

1889 - 

190355 - 

19143 - 沿1645

1921 - 

1926 - 

1927 - 

1928 - 

1931 - 2

1943 - 

1949 - 

1969 - 

197781 - ~[14]

1999 - 2

2001 - 


2017291231[2]
丁目 世帯数 人口
笹下一丁目 968世帯 2,041人
笹下二丁目 1,158世帯 2,389人
笹下三丁目 1,413世帯 3,112人
笹下四丁目 510世帯 1,240人
笹下五丁目 1,424世帯 3,135人
笹下六丁目 1,046世帯 2,332人
笹下七丁目 671世帯 1,487人
7,190世帯 15,736人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]

丁目 番地 小学校 中学校
笹下一丁目 3番1〜27号
10番
横浜市立日下小学校 横浜市立笹下中学校
その他 横浜市立南台小学校
笹下二丁目 1番
その他 横浜市立日下小学校
笹下三丁目 全域
笹下四丁目 全域
笹下五丁目 2〜6番
8〜19番
23番2〜6号
24番
28番
その他 横浜市立南台小学校
笹下六丁目 28番
その他 横浜市立日下小学校
笹下七丁目 27番18〜最終号
その他 横浜市立南台小学校

交通


西2西

脚注



(一)^ ab.   (2016331). 2018124

(二)^ ab - () - .   (20171231). 2018124

(三)^ ab便.  便. 2018123

(四)^ .  . 2018123

(五)^  1996

(六)^  1990 pp.6

(七)^  1996 pp.3

(八)^ 

(九)^ 調

(十)^ 1966

(11)^ 稿.

(12)^ 稿.

(13)^ 稿.

(14)^ ". . 2009-11-26  (PDF) 

(15)^ .   (20171115). 2018124


1726

稿 80818846 
稿 808NDLJP:763986/71 

稿 808NDLJP:763986/74 

稿 808NDLJP:763986/77 

1962

1980

 199028pp.5-6 NCID AN10275261

1995

 19968調-2調-NCID BN1590263X

2001

 20064

2006