筑波 (コルベット)
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筑波 | |
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基本情報 | |
建造所 | (モーラミャイン[1][2]、またはボンベイ[3]) |
運用者 |
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艦種 | コルベット[1] |
艦歴 | |
起工 | 1851年[要出典] |
進水 | 1853年4月9日[2] |
竣工 | 1854年[2] |
就役 | 1871年購入 |
除籍 | 1905年6月10日[4] |
その後 | 売却 |
要目 | |
排水量 |
1,033.9英トン[1] または1,978英トン[3] |
常備排水量 | 1,947英トン[2] |
トン数 | 960.38トン[1] |
長さ | 182尺(約55.2m)[1]余り[5] |
全長 | 198 ft 0 in (60.35 m)[2] |
水線長 | 192 ft 6 in (58.67 m)[2] |
垂線間長 | 192 ft 8 in (58.72 m)[3] |
幅 | 34 ft 9 in (10.59 m)[3][2] または35尺3(約10.70m)[1] あるいは35尺5寸(約10.76m)[5] |
深さ | 24尺5(約7.42m)[1] |
吃水 | 18 ft 0 in (5.49 m)[2] または17尺(約5.15m)[1] あるいは前部:15尺5寸(約4.70m)、後部:18尺(約5.46m)[5] |
ボイラー |
方形煙管缶(角缶[3]) 2基[5] 1876年:高円缶 4基[3] |
主機 | 2気筒[3]直動横置機関[1] 1基[3] |
推進 |
2翼[5]スクリュー[1] x 72rpm[6] 直径:11 ft 6 in (3.51 m)[6] ピッチ:14 ft 6 in (4.42 m)[6] |
出力 |
526ihp[2] 推算:200馬力[1] 350実馬力[5] 1892年時:480実馬力[3] |
帆装 | 3檣シップ型[1] |
速力 |
10ノット[2] 1892年時:8ノット[3] |
燃料 | 炭団:350,000斤[1] |
航続距離 |
燃料消費:37,000斤/日[1] または34,000斤/日[5] |
乗員 | 明治4年(1871年):275名[1] |
兵装 |
4.5インチ砲 6門 30ポンド砲 2門 24ポンド砲 2門[2] または 16cmクルップ砲 4門 鹿児島製14cm銅砲 6門 アームストロング野砲 1門[5] |
その他 |
船材:木[1] 信号符字:GQBF[7] |
筑波︵つくば︶は、日本海軍の軍艦、木造コルベット。元イギリス海軍所属の﹁HMS マラッカ﹂︵HMS Malacca︶で、兵部省が購入。
艦名は茨城県の筑波山にちなんで名づけられた[4]。
概要
マラッカ[1]は、 英領ビルマの警備のため建造された、スクリュー付き機帆走木造スループである。[要出典] 1851年に英領マラッカ・ムラルメン(モーラミャイン[2])で[1]、 あるいはボンベイで建造された[3]。 1862年にコルベットとして機関を換装し、1869年に売却された。[要出典] 1871年︵明治4年︶に日本海軍がイギリス人から購入し、﹁筑波﹂と改名された。 1887年︵明治20年︶までの正式名は﹁筑波艦﹂である。 海軍兵学寮︵のち海軍兵学校︶の練習艦となり、1875年︵明治8年︶11月にはサンフランシスコまで航海するなど、遠洋練習航海のさきがけとなった[8]。他に測量任務にも従事した。艦型
機関
マラッカは世界で最初に円缶を搭載した軍艦として有名である。[要出典] 機関はロンドンで製造された[3]。 日本海軍が購入した時には方形煙管缶(角缶[3]) 2基を搭載していた[5]。 また1876年に高円缶4基と換装した[3]。 帆走の場合にはスクリューを水上に跳ね上げていた[3]。艦歴
明治4年
明治4年7月21日(1871年9月5日)、イギリス人バーテス氏から購入した[9]。 ﹃帝国海軍機関史﹄によると、明治4年9月9日(1871年10月22日)、横浜でイギリス領事から購入した[5]。12月17日(1872年1月26日)、筑波は任務を常備艦から兵学寮稽古艦とした[10]。明治5年
明治5年5月10日(1872年6月15日)、筑波は西海巡幸の警護艦を命ぜられ[11]、5月18日(1872年6月23日)筑波の航海中は艦隊編入とされた[11][12]。5月23日(1872年6月28日)、筑波は龍驤(御召艦)と共に品川を出港した[11]7月9日(1872年8月12日)、筑波は品川に帰着[13]、7月20日(1872年8月23日)、艦隊から除かれ[12]、 兵学寮所轄となった[13]。 10月18日(1872年11月18日)、筑波は艦隊に編入された[12]。10月27日(1872年11月27日)、筑波は艦隊から除かれ[12]、 兵学寮所轄となった[14]。1873年
1873年(明治6年) 2月28日、全権大使を乗せて清に派遣される龍驤との同行が筑波に命じられ、龍驤と共に3月10日品川を出港した[15]。7月20日、清に派遣されていた龍驤と筑波が品川に帰着した[16] なお3月2日、筑波は清への航海中は艦隊編入となった[17]。6月30日時点で中艦隊は雲揚、日進、春日、龍驤、東、鳳翔、筑波の7隻編制だった[18]。 11月5日、筑波は北海道海路研究のために回航を命じられ、11月13日品川を出港した[19]。 1874年(明治7年)1月6日、筑波は北海道から品川に帰着した[20]。1874年
1874年(明治7年) 4月27日、艦隊を除かれ[21]、 練習艦として兵学寮所轄となった[22]。 10月19日川村純義大輔らは九州出張を命じられ、筑波に乗艦した[23]11月6日(または11月5日[24])、筑波は艦隊に編入された[21]。練習艦
1875年(明治8年) 1月8日、筑波は艦隊から除かれた[25]。 または1月4日、艦隊から除かれ練習艦に指定、兵学寮所轄となった[26]。 ﹃海軍省報告書﹄によると8月13日に常備艦から練習艦に指定され、兵学校所轄となった[27]。 10月22日、筑波にサンフランシスコ方面の練習航海が命令され[28]、11月6日、サンフランシスコに向けて品川を出港した[5]。 1876年(明治9年) 3月14日、筑波は横浜港に帰港した[29]。1877年 - 1878年
西南戦争 1877年(明治10年) 2月19日、筑波は当分東海鎮守府所轄の常備艦とされ[27]、2月23日、横浜港を出港した[27]。8月12日午後1時30分、筑波は九州から横浜港に帰港した[30]8月13日、筑波は東海鎮守府所轄から兵学校所轄練習艦に変更された[30]。9月10日、筑波に朝鮮への回航が命令されたが20日中止となり、高雄丸が代わりに回航となった[31]。 その後筑波は修理を行った[32]。 遠洋航海 11月30日、筑波は遠洋航海でオーストラリア・シドニーまでの航海を命令され[33]、 1878年(明治11年) 1月17日(午後3時[32])、筑波は横浜港を出港した[34]。3月9日オーストラリア・ブリスベン着[35]、3月19日同地発[32]。3月25日同国シドニー着、4月27日同地発[32]。6月13日午後0時35分、筑波は品川に帰着した[36]。6月15日、筑波乗員に3週間の休暇が与えられた[36]。 8月31日横須賀に回航した[32]。12月30日横須賀発、羽田沖で1泊し31日品川湾に到着した[32]。日清戦争
日清戦争時には艦歴40年以上であったので、実戦には投入されず軍港警備に従事した。その後
1898年︵明治31年︶3月21日に艦船類別等級が制定され、 筑波は三等海防艦に類別された[4]。 日露戦争に従軍[4]。 1905年︵明治38年︶6月10日除籍[4]、 翌年に売却された。艦長
※﹃日本海軍史﹄第9巻・第10巻の﹁将官履歴﹂及び﹃官報﹄に基づく。- (艦長代)相浦紀道 大尉:明治4年9月25日[37](1871年10月28日) - 1872年3月3日
- 本山漸 中佐(兼兵学中教授):明治5年5月19日(1872年6月24日)[11] - 明治5年8月13日(1872年9月15日)[38]
- 伊藤雋吉 中佐: 明治5年8月12日(1872年9月14日)[38] - 1874年6月12日
- (兼)伊藤雋吉 中佐:1874年6月12日 - 1876年9月12日[39]
- 本山漸 中佐:1876年9月12日[39] - 1877年2月20日(または19日[27])
- 松村淳蔵 大佐:1877年2月20日(または19日[27]) - 1877年8月23日[30]
- 本山漸 中佐:1877年8月23日[30] - 1877年11月1日[33]
- 松村淳蔵 大佐:1877年11月1日[33] - 1879年8月19日
- 相浦紀道 中佐:1879年8月19日 - 1881年6月17日
- 伊東祐亨 中佐:1881年7月7日 - 1881年12月27日
- 有地品之允 大佐:1882年12月23日 - 1884年12月17日
- (心得)新井有貫 少佐:1884年12月17日 - 1885年6月22日
- 福島敬典 大佐:1885年10月23日 - 1886年1月6日(生徒練習航海中)
- 福島敬典 大佐:1886年1月6日 - 1886年12月28日
- 野村貞 大佐:1887年4月25日 - 1889年1月24日
- 柴山矢八 大佐:1889年5月15日 - 1891年2月6日
- 黒岡帯刀 大佐:1891年2月6日 - 1891年11月20日
- 黒岡帯刀 大佐:1892年8月6日 - 1895年12月27日
- 細谷資氏 大佐:1895年12月27日 - 1896年4月1日
- 石井猪太郎 大佐:1896年4月1日 - 5月19日
- 柏原長繁 大佐:1897年2月18日 - 1898年3月1日
- 友野雄介 中佐:1898年3月1日 - 10月1日
- 加藤重成 大佐:1898年10月1日 - 1899年6月3日
- 高桑勇 中佐:1899年6月3日 - 1899年7月25日
- (兼)宮岡直記 中佐:1899年9月19日 - 1900年11月6日
- (兼)今井兼昌 大佐:1900年11月6日 - 1902年6月28日
- 松居銓太郎 中佐:1902年6月28日 - 10月23日
- 黒水公三郎 中佐:1903年4月20日 - 5月14日
- 中川重光 中佐:1903年5月14日 - 6月22日
脚注
出典
(一)^ abcdefghijklmnopqr#M1-M9海軍省報告書画像23-24、明治四年辛未艦船総数表
(二)^ abcdefghijkl#Conway(1860-1905)p.231
(三)^ abcdefghijklmno#帝国海軍機関史(1975)上巻p.473
(四)^ abcde#艦船名考(1928)pp.30-31、筑波
(五)^ abcdefghijk#帝国海軍機関史(1975)上巻p.472
(六)^ abc#帝国海軍機関史(1975)上巻p.474
(七)^ #公文類聚10編33巻 画像1﹃二月十八日 逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ點付ス 逓信省達 第八号本年一月中海軍艦船及ヒ西洋形商船左ノ通信号符字ヲ點付ス十九年二月十八日 海軍艦船ノ部 信号符字 艦名 砲數 …︵略︶… GQBF 筑波Tsuku-ba 八 …﹄
(八)^ 中島武著﹃明治の海軍物語﹄三友社、1939年のうち、﹁最初の遠洋航海﹂。
(九)^ #M1-M9海軍省報告書画像18、明治4年7月。
(十)^ #M1-M9海軍省報告書画像21-22、明治4年12月。
(11)^ abcd#M1-M9海軍省報告書画像27-29、明治5年5月。
(12)^ abcd#海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治5年
(13)^ ab#M1-M9海軍省報告書画像30、明治5年7月。
(14)^ #M1-M9海軍省報告書画像32-33、明治5年10月。
(15)^ #M1-M9海軍省報告書画像37-38、明治6年2月。
(16)^ #M1-M9海軍省報告書画像41-42、明治6年7月。
(17)^ #M1-M9海軍省報告書画像38-39、明治6年3月。
(18)^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治6年
(19)^ #M1-M9海軍省報告書画像44-45、明治6年11月。
(20)^ #M1-M9海軍省報告書画像48-49、明治7年1月。
(21)^ ab#海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治7年
(22)^ #M1-M9海軍省報告書画像51-52、明治7年4月。
(23)^ #M1-M9海軍省報告書画像57-58、明治7年10月。
(24)^ #M1-M9海軍省報告書画像58-59、明治7年11月。
(25)^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治8年
(26)^ #M1-M9海軍省報告書画像61、明治8年1月。
(27)^ abcde#M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像20-24、明治10年2月
(28)^ #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
(29)^ #M1-M9海軍省報告書画像78-80、明治9年3月。
(30)^ abcd#M10.7-M11.6海軍省報告書画像6-7、明治10年8月沿革
(31)^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像8-11、明治10年9月沿革
(32)^ abcdef#M11.7-M12.6海軍省報告書画像55、筑波艦航泊表
(33)^ abc#M10.7-M11.6海軍省報告書画像14-16、明治10年11月沿革
(34)^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像19-22、明治11年1月沿革
(35)^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像26-28、明治11年3月沿革
(36)^ ab#M10.7-M11.6海軍省報告書画像34-37、明治11年6月沿革
(37)^ #M4公文類纂11/相浦大尉筑波艦長代理1件達画像1、丁一号大日記146号﹁相浦海軍大尉 筑波艦々長代申付度 土屋平四郎 任海軍中尉筑波艦乗組機関方申付候事 辛未九月廿五日 軍務局﹂
(38)^ ab#M1-M9海軍省報告書画像30-31、明治5年8月。
(39)^ ab#M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像4-7、明治9年9月