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歴史家の{{仮リンク|エルランド・ノルデンシェルド|en|Erland Nordenskiöld}}は、結縄が中米の[[コロンビア]]や[[パナマ]]の[[インディオ]]、[[メキシコ]]中部~北部、[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]からポリネシアにまで存在したと指摘したうえで、[[十進法]]を知らなかった点で中米の結縄はペルーのそれとは区別されるべきであると主張する。ルイ・ボーダンも、コロンビアの[[ポパヤン]]、[[オリノコ川]][[カリブ族]]、北米の[[インディアン]]部族の一部、文字出現前のメキシコ、マルキーズ諸島に結縄が使われていたと述べる。16世紀[[イエズス会|イエズス会士]]のホセ・ゲバラ神父は[[トゥピ・グアラニー語族|トゥピ・グアラニー語族]]がキープを使う伝統について語っており、{{仮リンク|ペドロ・ロサノ|en|Pedro Lozano}}神父も、{{仮リンク|アンダルガラ|en|Andalgalá}}︵アルゼンチン︶のインディオが1611年現在でもそれを使っていたと報告している。驚くべきことに、インカ帝国の版図に組み込まれなかった地域でもキープが使われており、チリの{{仮リンク|アラウカン族|en|Araucanian language}}の間では19世紀にもその慣習が行われていた{{sfn|Radicati di Primeglio|Urton|2006|pp=97-99}}。
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歴史家の{{仮リンク|エルランド・ノルデンシェルド|en|Erland Nordenskiöld}}は、結縄が中米の[[コロンビア]]や[[パナマ]]の[[インディオ]]、[[メキシコ]]中部~北部、[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]からポリネシアにまで存在したと指摘したうえで、[[十進法]]を知らなかった点で中米の結縄はペルーのそれとは区別されるべきであると主張する。ルイ・ボーダンも、コロンビアの[[ポパヤン]]、[[オリノコ川]][[カリブ族]]、北米の[[インディアン]]部族の一部、文字出現前のメキシコ、マルキーズ諸島に結縄が使われていたと述べる。16世紀[[イエズス会|イエズス会士]]のホセ・ゲバラ神父は[[トゥピ・グアラニー語族|トゥピ・グアラニー語族]]がキープを使う伝統について語っており、{{仮リンク|ペドロ・ロサノ|en|Pedro Lozano}}神父も、{{仮リンク|アンダルガラ|en|Andalgalá}}︵アルゼンチン︶のインディオが1611年現在でもそれを使っていたと報告している。驚くべきことに、インカ帝国の版図に組み込まれなかった地域でもキープが使われており、チリの{{仮リンク|アラウカン族|en|Araucanian language}}の間では19世紀にもその慣習が行われていた{{sfn|Radicati di Primeglio|Urton|2006|pp=97-99}}。
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それがインカ帝国に由来する、あるいは独自に発生したにせよ、類似する風習は今日まで南米に伝わっている。例えば[[仏領ギアナ]]のトゥピ・グアラニー系の部族の間では、宗教儀礼の順序を示すための記録あるいはロザリオとしてウドゥクルとよばれる結縄が用いられる{{sfn|Radicati di Primeglio|Urton|2006|pp=97-99}}。 |
それがインカ帝国に由来する、あるいは独自に発生したにせよ、類似する風習は今日まで南米に伝わっている。例えば[[仏領ギアナ]]のトゥピ・グアラニー系の部族の間では、宗教儀礼の順序を示すための記録あるいはロザリオとして'''ウドゥクル'''︵udukuru︶とよばれる結縄が用いられる{{sfn|Radicati di Primeglio|Urton|2006|pp=97-99}}。
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[[ラトビア]]、および[[リトアニア]]のラトビア人コミュニティには、20世紀まで、暦や呪術的治療、招待状、そしてとりわけ民謡を記録する目的で'''メズグル・ラクスティ'''({{lang-lv|Mezglu Raksti}})結縄が用いられていた歴史がある{{sfn|Nastevičs|2016|p=79}}。民謡を記録した糸はヅィエスム・カモルス(dziesmu kamols)と呼ばれ、500曲以上のラトビア民謡の中に登場する。結び目は[[ラトビア語アルファベット]]に対応しており、アルファベットとの対応関係や紐の組み合わせを異にする3種類の表記法が知られている{{sfn|Nastevičs|2016|p=83}}。また、ドイツでは19世紀末に、製粉業者がパン屋と取引する際に結縄を使用していた例がある{{sfn|宮田|2018|p=74}}。 |
[[ラトビア]]、および[[リトアニア]]のラトビア人コミュニティには、20世紀まで、暦や呪術的治療、招待状、そしてとりわけ民謡を記録する目的で'''メズグル・ラクスティ'''︵{{lang-lv|Mezglu Raksti}}︶という結縄が用いられていた歴史がある{{sfn|Nastevičs|2016|p=79}}。民謡を記録した糸はヅィエスム・カモルス︵dziesmu kamols︶と呼ばれ、500曲以上のラトビア民謡の中に登場する。結び目は[[ラトビア語アルファベット]]に対応しており、アルファベットとの対応関係や紐の組み合わせを異にする3種類の表記法が知られている{{sfn|Nastevičs|2016|p=83}}。また、ドイツでは19世紀末に、製粉業者がパン屋と取引する際に結縄を使用していた例がある{{sfn|宮田|2018|p=74}}。
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== アフリカ == |
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== その他の例 == |
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19世紀、[[点字|ブライユ点字]]が普及する以前に、結縄による[[英語アルファベット]]の表記が考案された例がある。[[エディンバラ]]の盲目の語学教師デヴィッド・マクベスとその知人によって開発されたもので、アルファベットを結び目の形状・大きさ・状態によって書き分けるものであった。発案者は、他に発明されていた視覚障碍者用の文字に比べて持ち運びやすく、材料費が少なく、正確に伝達可能であるなどの利点を挙げている{{sfn|Knight|1835|pp=517-518}}。 |
19世紀、[[点字|ブライユ点字]]が普及する以前に、結縄による[[英語アルファベット]]の表記が考案された例がある。[[エディンバラ]]の盲目の語学教師デヴィッド・マクベスとその知人によって開発されたもので、アルファベットを結び目の形状・大きさ・状態によって書き分けるものであった。発案者は、他に発明されていた視覚障碍者用の文字に比べて持ち運びやすく、材料費が少なく、正確に伝達可能であるなどの利点を挙げている{{sfn|Knight|1835|pp=517-518}}。 |
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* {{cite news|ref=harv|last=Wilford|first=John. N.|title=String, and Knot, Theory of Inca Writing|publisher=The New York Times|year=2003|date=2003-8-12|url=http://www.weisun.org/apworld/assign/unit_03/supp_reading/john_noble_wilford.pdf}} |
* {{cite news|ref=harv|last=Wilford|first=John. N.|title=String, and Knot, Theory of Inca Writing|publisher=The New York Times|year=2003|date=2003-8-12|url=http://www.weisun.org/apworld/assign/unit_03/supp_reading/john_noble_wilford.pdf}} |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_5.html 結縄 - 地球ことば村:世界の文字] |
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2019年5月29日 (水) 18:12時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Inca_Quipu.jpg/300px-Inca_Quipu.jpg)
古代の結縄
結縄が記録媒体として用いられた最も古い記録の1つとして、中国では﹃易経﹄の繫辞・下伝に、 上古結縄而治。後世聖人易之以書契。 上古は縄を結びて治まる。後世の聖人︵伏羲︶、之れに易︵か︶うるに書契︵文字や割符︶を以てす。 の記述がある。﹃周易本義﹄の注には、﹁事の大ならば其の縄を大結し、事の小ならば其の縄を小結し、結の多少は物の衆寡に随う﹂とある。ここから、文字のなかった時代の政治を﹁結縄の政﹂といい、特に老荘の書にはその理想が垣間見える。例えば、﹃老子﹄第80章の﹁小国寡民﹂には﹁民をして復た縄を結いて之れを用いしむ﹂などとある。 また古代ギリシアにおいては、ヘロドトスの﹃歴史﹄︵紀元前5世紀︶に記録がある。アケメネス朝ペルシアの王ダレイオスは、同盟のギリシア軍に橋頭の防衛を任せてスキュティアに進軍する際、60個の結び目がついた革ひもを渡しながら、次のような言葉を残したとされる。 そなたらはわしがスキュタイ人攻撃に出発するのを見たならば、その時から始めて毎日結び目を一つずつほどいていってくれ。その期間にわしが戻ってこず、結び目の数だけの日が経過したならば、そなたらは船で帰国してくれてよい。[3] 古代エジプトのヒエログリフには、結び目の付いた紐を模したものがある。エジプトの測量術において、結び目のついたロープを使って直角三角形を作っていたことは知られているが、こうした測量技師は同時に結び目を作り計数管理をする技術者であった可能性もある[4]。 記憶手段としての結び目の利用はユダヤ教にも形跡を見ることができる。律法に従えば、すべてのイスラエル人男子は朝の祈祷の際に肩に房飾りを下げることになっているが、この房飾りに下がっている糸のうち、その四隅の紐はつねに一定の数になるように結ばれている。セファルディムの伝承では26、アシュケナジムの伝承では39で、これはユダヤ教において神聖な数と見なされている[5]。 主はまたモーセに言われた、﹁イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。﹂ — ﹃旧約聖書﹄民数記15:37-39南北アメリカ
インカ帝国
中南米
歴史家のエルランド・ノルデンシェルドは、結縄が中米のコロンビアやパナマのインディオ、メキシコ中部~北部、アマゾンからポリネシアにまで存在したと指摘したうえで、十進法を知らなかった点で中米の結縄はペルーのそれとは区別されるべきであると主張する。ルイ・ボーダンも、コロンビアのポパヤン、オリノコ川カリブ族、北米のインディアン部族の一部、文字出現前のメキシコ、マルキーズ諸島に結縄が使われていたと述べる。16世紀イエズス会士のホセ・ゲバラ神父はトゥピ・グアラニー語族がキープを使う伝統について語っており、ペドロ・ロサノ神父も、アンダルガラ︵アルゼンチン︶のインディオが1611年現在でもそれを使っていたと報告している。驚くべきことに、インカ帝国の版図に組み込まれなかった地域でもキープが使われており、チリのアラウカン族の間では19世紀にもその慣習が行われていた[10]。 それがインカ帝国に由来する、あるいは独自に発生したにせよ、類似する風習は今日まで南米に伝わっている。例えば仏領ギアナのトゥピ・グアラニー系の部族の間では、宗教儀礼の順序を示すための記録あるいはロザリオとしてウドゥクル︵udukuru︶とよばれる結縄が用いられる[10]。北米
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/The_belt_of_wampum_delivered_by_the_Indians_to_William_Penn_at_the_%22Great_Treaty%22_%281682%29.jpg/350px-The_belt_of_wampum_delivered_by_the_Indians_to_William_Penn_at_the_%22Great_Treaty%22_%281682%29.jpg)
東アジア
上述のように中国の古典籍に結縄の習俗が伝わっているが、﹃隋書﹄倭国伝にも、倭人の習俗として﹁文字無く、唯だ木に刻み縄を結ぶのみ﹂と紹介されている。近年に至るまで、琉球諸島や台湾、雲南、アイヌ社会、あるいは日本内地でも類例が報告されている。北海道
日本︵内地︶
渡瀬庄三郎は1886年に、香川県のとある村に、結縄を送りあうことで結婚の諾否を確かめる風習があったことを報告している[15]。坪井正五郎が柏原学而から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近では家々の勝手ロに縄が2本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際にその量に従って縄に結び玉を作り、勘定を受け取るときにはこの玉を数える習慣があった[14]。沖縄
台湾
アミ族は文字・数の表現の代用として結縄が多く使用され、大正時代、地域によっては昭和初期まで、相手への意思伝達や記録計算において結縄が用いられていた。計算のための結縄は太さの異なる3本の麻糸を束ねて作られ、それぞれの糸が位取りをあらわした︵アミ族の経済観念は非常に単純で、3桁以上の演算を必要としなかった︶。このほか、借用証書として、さらに男子の集会所における祭礼や作業負担の記録のために結縄が用いられている[18]。 プユマ族の間では、男女の情愛のほどを確かめるのに結縄が用いられる。男には赤色、女には青または黄色の糸を用い、男女2本の糸をつないで数ヶ所の結び目をつくり、その結び目の位置や結び方の一致・不一致によって互いの愛情を確認しあった[19]。雲南
中国雲南地方やチベットの少数民族には結縄の風習があり、トーロン族・リス族・ヌー族・ワ族・ヤオ族・ナシ族・プミ族・ハニ族・ローバ族などは、中華人民共和国成立以前には縄によって日付をつけていた。リス族は会計に結縄を用い、ハニ族は同じ長さの縄に同じ形の結び目を作って共有し、貸借の証明書とした。寧蒗のナシ族やプミ族は、羊毛を編んだ縄を結って情報を伝え、人々を招集した[20]。 チベット仏教の僧侶は、108個の結び目がついた数珠を用いて祈祷の回数を数えることがあった。また、黄色い紐は仏陀、白い紐は菩薩というように、祈祷の対象によって色の使い分けがなされていた。これと同様の習慣は、20世紀初頭までシベリアのマンシ族・ハンティ族・ツングース族・ヤクート族などにも行われていた[11]。西南アジア
英領インドで1872年に国勢調査が行われた際、ジャールカンド州サンタル・パルガナ地区のサンタル族は、男女と成人・子供の別に4色の糸を用いて人口を報告した[21]。南インドのコンド族の婚姻儀礼では、求婚者の手に結び目の付いた紐が与えられ、同様の紐が花嫁の家族のもとに保管される。結婚式の日取りは、毎朝この結び目をほどいていくことで調整される[22]。 このことは、旧約聖書のエレミヤ書の次の記述とも関連するかもしれない。ヘブライ語で帯を意味する qishshurim は、文字通り﹁結び目﹂や﹁結縄﹂も意味する[23]。 おとめはその飾り物を忘れることができようか。花嫁はその帯を忘れることができようか。ところが、わたしの民の、わたしを忘れた日は数えがたい。 — ﹃旧約聖書﹄エレミヤ書2:32ヨーロッパ
ラトビア、およびリトアニアのラトビア人コミュニティには、20世紀まで、暦や呪術的治療、招待状、そしてとりわけ民謡を記録する目的でメズグル・ラクスティ︵ラトビア語: Mezglu Raksti︶という結縄が用いられていた歴史がある[24]。民謡を記録した糸はヅィエスム・カモルス︵dziesmu kamols︶と呼ばれ、500曲以上のラトビア民謡の中に登場する。結び目はラトビア語アルファベットに対応しており、アルファベットとの対応関係や紐の組み合わせを異にする3種類の表記法が知られている[25]。また、ドイツでは19世紀末に、製粉業者がパン屋と取引する際に結縄を使用していた例がある[11]。アフリカ
租税や貸借に結縄を用いる習慣は、西アフリカ一帯、とくにナイジェリア・ラゴスの後背地に住むイェブ族の間に認められる。コンゴ周辺にも商取引や暦のための結縄を用いる部族が多い。コンゴ共和国のテンボ族にはラフィアヤシの繊維から編んだ縄を用いて求婚のメッセージをかわす習慣がある。アフリカ南部のモノモタパ王国では王が即位するごとに宮廷歴史家が結び目を1つ作る習わしがあり、1929年時点で35個の結び目があって、15世紀中葉にさかのぼる全ての王を区別することができた。ラーゲルクランツが1960年代に、アフリカにおける結縄文化の分布図を残している[26]。オセアニア
ハワイの徴税人が結縄を用いていた事実は、1820年代のイギリス人宣教師らの日誌に記されている。彼らの記すところでは、﹁徴税人たちは、読み書きができないが、島中の住民から集められたあらゆる種類の品々についての非常に詳細な記録をつけている。これは主として1人の人間によって行われ、そして記録するものは、400~500尋︵約750~950m︶の縄一本にすぎない﹂[27]。東洋学者のテリアン・ド・ラクペリは1885年にハワイの結縄についてより詳細な記述を残しており、異なる形状・色・大きさの縄や結び目・房によって記録が行われると解説している[28]。 ハワイ人の祖先はマルキーズ諸島を経由して来住したとされるが、マルキーズ諸島では、死者が出ると僧侶がココナッツの繊維から作られた紐に結び目を作り、死亡者の統計を作っていた[29]。人類学者ラルフ・リントンは1920~21年の調査において、﹁結縄の使用は、ポリネシアの他のいかなる地域よりも、マルキーズ諸島において最も高度に発達しているように思われる﹂と綴っている[30]。結縄文化はソシエテ諸島を経由してニュージーランドまで伝わり、現地のマオリ人の間ではタウポナポナ︵tau-ponapona︶と呼ばれていた。イースター島にも結縄による家系図が残っている[29]。その他の例
19世紀、ブライユ点字が普及する以前に、結縄による英語アルファベットの表記が考案された例がある。エディンバラの盲目の語学教師デヴィッド・マクベスとその知人によって開発されたもので、アルファベットを結び目の形状・大きさ・状態によって書き分けるものであった。発案者は、他に発明されていた視覚障碍者用の文字に比べて持ち運びやすく、材料費が少なく、正確に伝達可能であるなどの利点を挙げている[31]。出典
- ^ 壇辻 2001, pp. 394.
- ^ 壇辻 2001, pp. 394–396.
- ^ ヘロドトス 1972, p. 68.
- ^ Gandz 1930, pp. 213–214.
- ^ 宮田 2018, pp. 74–75.
- ^ a b 壇辻 2001, pp. 394–395.
- ^ 池田 1952, p. 98.
- ^ 池田 1952, p. 101.
- ^ Willford 2003.
- ^ a b Radicati di Primeglio & Urton 2006, pp. 97–99.
- ^ a b c 宮田 2018, p. 74.
- ^ 坂倉 1739, p. 410.
- ^ 最上 1808, p. 528.
- ^ a b 坪井 1891, p. 405.
- ^ 渡瀬 1886, p. 21.
- ^ 高橋 2001, pp. 1122–1123.
- ^ 宮田 2018, pp. 19–21.
- ^ 中野 1981, pp. 2–5.
- ^ 長浜 1977, pp. 2–3.
- ^ 林 1986.
- ^ 長浜 1971, p. 2.
- ^ Gandz 1930, p. 204.
- ^ Gandz 1930, pp. 204–205.
- ^ Nastevičs 2016, p. 79.
- ^ Nastevičs 2016, p. 83.
- ^ Huylebrouk 2006, p. 149.
- ^ Jacobsen 1983, p. 55.
- ^ Jacobsen 1983, p. 56.
- ^ a b Brown 1924, p. 83.
- ^ Jacobsen 1983, pp. 54–55.
- ^ Knight 1835, pp. 517–518.