藤原経輔
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藤原 経輔︵ふじわら の つねすけ、寛弘3年︵1006年︶ - 永保元年8月7日︵1081年9月12日︶[1]︶は、平安時代の公卿。藤原北家道隆流、中納言・藤原隆家の次男。官位は正二位・権大納言。水無瀬大納言と称される。
経歴
寛仁2年︵1018年︶従五位下に初叙され、同年12月に藤原道長邸において大納言・藤原道綱の加冠によって元服する[2]。 左兵衛佐・右少将・左右中弁を経て、長元7年︵1034年︶には後一条天皇の蔵人頭︵頭弁︶に任ぜられた。蔵人頭在任中の長元9年︵1036年︶正月に従姉の子でもう一人の蔵人頭︵頭中将︶である藤原俊家の従者に殴打され、俊家は除籍されるが、経輔も約半月の間朝参を停止された。同年4月後一条天皇の崩御により蔵人頭を止められたが、9月には後朱雀天皇の蔵人頭に再任した。 長暦2年︵1038年︶右大弁を兼ね、翌長暦3年12月︵1040年1月︶先任の異母兄・藤原良頼と参議に並んだ。長久元年︵1040年︶従三位に叙せられる。 寛徳2年︵1045年︶良頼とともに権中納言に昇任。永承元年︵1046年︶中宮・章子内親王の権大夫に就任し、その後、内親王が皇太后・太皇太后に転上するにともない皇太后宮大夫・太皇太后宮大夫となる。永承6年︵1051年︶正二位、康平元年︵1058年︶大宰帥を兼ね、治暦元年12月︵1066年1月︶権大納言に至った。 治暦4年︵1068年︶以来病気と称して出仕せず、再三辞表を奉ったため、延久元年︵1069年︶7月7日に権大納言の辞任を許された。翌延久2年︵1070年︶正月10日出家。永保元年︵1081年︶8月7日薨去、享年76歳。 ﹃後拾遺和歌集﹄︵1首︶、﹃千載和歌集﹄︵1首︶に入集する勅撰歌人である[3]。官歴
●寛仁2年︵1018年︶4月7日‥従五位下に初叙︵太皇太后宮彰子御給︶。12月‥讃岐権守 ●寛仁3年︵1019年︶ 正月5日‥従五位上︵皇太后宮妍子御給︶。正月23日‥左兵衛佐 ●寛仁4年︵1020年︶ 正月5日‥正五位下︵一品親王御給︶。10月17日‥右少将 ●寛仁5年︵1021年︶ 正月24日‥備後介 ●治安2年︵1022年︶ 正月5日‥従四位下 ●治安3年︵1023年︶12月15日[4]‥権右中弁︵父隆家卿辞任して之を申任︶ ●万寿2年︵1025年︶ 正月30日‥右中弁 ●長元元年︵1028年︶11月19日‥従四位上 ●長元2年︵1029年︶ 正月24日‥左中弁に転ず。12月21日[5]‥正四位下︵石清水賀茂行幸行事賞︶ ●長元3年︵1030年︶12月‥造東大寺長官 ●長元7年︵1034年︶10月20日‥後一条天皇の蔵人頭に補任 ●長元8年︵1035年︶ 正月30日‥左京大夫 ●長元9年︵1036年︶ 正月3日‥朝参を停止される︵同月18日元に復す︶。正月29日‥美作権守。4月17日‥蔵人頭を止む︵後一条天皇崩御︶。9月26日‥後朱雀天皇の蔵人頭に還任 ●長暦2年︵1038年︶6月26日‥右大弁を兼ねる ●長暦3年︵1039年︶12月16日[6]‥参議に補任、左大弁を兼ねる ●長暦4年︵1040年︶ 正月25日‥近江権守を兼ねる。6月8日‥従三位 ●長久3年︵1042年︶10月27日‥勘解由長官を兼ねる ●寛徳2年︵1045年︶10月23日‥権中納言 ●永承元年︵1046年︶7月14日‥章子内親王の中宮権大夫。9月14日‥帯剣 ●永承2年︵1047年︶9月14日‥伊勢斎宮嘉子内親王の野宮入りに際し、勅命により帯剣し前駈を務める ●永承4年︵1049年︶ 正月5日‥正三位 ●永承5年︵1050年︶10月13日‥従二位︵行幸上東門院院司賞︶ ●永承6年︵1051年︶6月16日‥正二位︵行幸太政官朝所宮権大夫賞︶ ●天喜6年︵1058年︶4月25日‥大宰帥を兼ねる ●康平8年[7]︵1065年︶3月29日‥中宮権大夫から正官に転任。12月8日[8]‥権大納言 ●治暦4年︵1068年︶4月17日‥皇太后宮大夫 ●延久元年︵1069年︶7月3日‥太皇太后宮大夫。7月7日‥致仕系譜
●父‥藤原隆家 ●母‥源兼資の娘 ●妻‥藤原資業の娘 ●男子‥藤原師家︵1027-1058︶ - 従四位下摂津守 ●男子‥藤原長房︵1030-1099︶ - 正三位参議 ●男子‥藤原師基︵1031-1077︶ - 正四位下蔵人頭右中弁 ●男子‥藤原師信︵?-1094︶ - 正四位下播磨守 ●妻‥右中将頼雅の娘 ●男子‥藤原家平 ●妻‥家女房 - 藤原師家乳母 ●男子‥増誉︵1032-?︶ - 園城寺大僧正 ●生母不詳の子女 ●男子‥仁恵 ●男子‥珎覚 ●男子‥隆観 ●男子‥藤原文時[9] ●女子‥藤原忠家室 ●女子‥藤原師通室 - 藤原信長の養女 その子孫は道隆流の主流を形成し、院近臣として代々治天の君に近侍した。師家の子孫は忠隆︵鳥羽院近臣︶・信頼︵後白河院近臣︶父子を出し、師信の子孫は坊門家の祖信隆︵後鳥羽天皇外祖父︶と水無瀬家の祖親信を出した。脚注
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年・・・官歴セクションの出典
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年・・・系譜セクションの出典