讃岐永直
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讃岐 永直 | |
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![]() 讃岐永直 『前賢故実』より | |
時代 | 奈良時代後期 - 平安時代初期 |
生誕 | 延暦2年(783年) |
死没 | 貞観4年8月[1](862年9月) |
官位 | 従五位下(内位)、大判事 |
主君 |
嵯峨天皇 → 淳和天皇 → 仁明天皇 → 文徳天皇 → 清和天皇 |
氏族 | 讃岐公(皇別) → 讃岐朝臣(皇別) |
父母 | 父:讃岐浄直、母:素性不詳 |
兄弟 | 永直、永成 |
妻 | 素性不詳 |
子 | 和気時人、和気永雄、女子(時康親王(後の光孝天皇)更衣) |
経歴
讃岐氏︵讃岐公︶は景行天皇の子神櫛王の後裔[2]で讃岐国造家の嫡流子孫[3]。平安時代初期までは讃岐国寒川郡の郡司を務めていたが、平城朝以降に永直の祖父広直・父浄直と続いて明法博士に任ぜられた。
祖父や父に続いて永直も明法家の道を歩み、幼い頃から大学寮で学び律令を好んで読んだ。非常に聡明で、一度聞いたことは暗誦してしまったという[4]。
弘仁6年︵815年︶明法得業生兼但馬権博士、のち奉試に及第し、天長7年︵830年︶に明法博士に任ぜられる。左・右少史、勘解由判官を経て、承和元年︵834年︶外従五位下・大判事に叙任。承和3年︵836年︶に弟の永成・従兄弟の当世らと共に朝臣姓を賜与される。のち、勘解由次官・出雲權介・阿波権掾を歴任し、承和13年︵846年︶に発生した善愷訴訟事件の裁断にあたっては、明法道の権威として中心的な役割を果たした。
だが、嘉祥元年︵848年︶に親族である和気斉之の犯罪︵大不敬︶に連座して佐渡国︵一説に土佐国[5]︶に配流となった。2年後の嘉祥3年︵850年︶に帰京を許されて、仁寿3年︵853年︶本位︵外従五位下︶に復し、再び明法博士・大判事を歴任、貞観元年︵859年︶には77歳で内位の従五位下に叙せられた。
貞観4年︵862年︶8月卒去。享年80。極官︵最終官位︶は従五位下守大判事兼行明法博士。
逸話・人物
致仕後も特に許されて自宅で律令を講義する事が許された事、朝廷が遣唐使に託して唐の明法家に充てた質問書の中身を事前に閲覧させたところ、全ての質問に対して正しい回答を出したために、質問書の件が中止になった事などが伝えられている[4]。﹃令集解﹄に大量に引用されている書物・﹃讃記﹄︵実物は散逸︶の著者であり、﹃令義解﹄の編者の一人ともされる。
系譜
脚注
(一)^ ﹃日本三代実録﹄貞観4年8月17日癸丑条。国史大系本では﹁是月、従五位下守大判事兼行明法博士讃岐朝臣永直卒。﹂とあり、卒日は明確ではない。一方、江戸時代の版本には﹁是日﹂とするものもあり、卒日は8月17日の可能性もある。
(二)^ ﹃続日本後紀﹄承和3年3月19日条
(三)^ 太田亮﹃姓氏家系大辞典﹄︵角川書店、1963年︶
(四)^ ab﹃日本三代実録﹄貞観4年8月17日条
(五)^ ﹃続日本後紀﹄嘉祥元年12月30日条
(六)^ ﹃日本三代実録﹄︵貞観4年8月17日条︶では永直の長男とするが、実際は永直の従兄弟当世の子と想定される︵宝賀寿男﹃古代氏族系譜集成﹄古代氏族研究会、1986年 による︶。