コンテンツにスキップ

「重源」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
23行目: 23行目:

こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。[[文治]]元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1185年]][[9月23日]])には大仏の[[開眼法要|開眼供養]]が行われ、[[建久]]6年([[1195年]])には大仏殿を再建し、[[建仁]]3年([[1203年]])に総供養を行っている<ref>ただし、再建事業の全作業が完成したことの宣言は焼失から100年以上経た[[正応]]2年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1289年]][[2月9日]])のことであった。</ref>。

こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。[[文治]]元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1185年]][[9月23日]])には大仏の[[開眼法要|開眼供養]]が行われ、[[建久]]6年([[1195年]])には大仏殿を再建し、[[建仁]]3年([[1203年]])に総供養を行っている<ref>ただし、再建事業の全作業が完成したことの宣言は焼失から100年以上経た[[正応]]2年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1289年]][[2月9日]])のことであった。</ref>。



以上の功績から重源は[[大和尚]]の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の[[修二会]](お水取り)の際、[[過去帳]]読踊におい重源は東寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている。

以上の功績から重源は[[大和尚]]の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の[[修二会]](お水取り)の際、[[過去帳]]読踊におい重源は「造寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている。



重源の死後は、[[臨済宗]]の開祖として知られる[[栄西]]<ref>重源と栄西とは、留学先の宋(南宋)で出会っている。</ref>が東大寺大勧進職を継いだ。

重源の死後は、[[臨済宗]]の開祖として知られる[[栄西]]<ref>重源と栄西とは、留学先の宋(南宋)で出会っている。</ref>が東大寺大勧進職を継いだ。


2017年4月26日 (水) 08:05時点における版

俊乗房重源上人坐像のレプリカ大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財

21121 - 651206712[1]



211333

41180殿

1181使61

東大寺大勧進職

周防国佐波川で、切り出した材木の運搬を指揮する重源上人の像(山口県山口市徳地

[2]

[3][4][5]1339m531.6m[6]殿[7]

殿調西39[8]277[9]

828118592361195殿31203[10]



西[11]

21234


31203

殿


殿101567

殿殿




81197

61195141939


殿

使

脚注



(一)^ - 

(二)^ 寿211831998ISBN 978-4-642-02764-9P34

(三)^ 

(四)^  - 

(五)^ 118

(六)^ 

(七)^ 沿2012:2006

(八)^ 2-6212-1161

(九)^ 2007 ISBN 978-4-642-02460-0 1995

(十)^ 1002118128929

(11)^ 西


 - 殿 - 

 

西



 

 西

 


  1971/1980 
 190369

  . 5  1983
 12

 201511

1995ISBN 978-4-062-58056-4 

  1997

6  2004ISBN 978-4-642-07850-4 

 2007 
  5GBS


1994ISBN 978-4-103-97901-2 

   2010 ISBN 978-4-163-29680-7