南都焼討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南都焼討

東大寺盧舎那仏像(大仏、大仏殿ともに江戸時代の再建)
戦争治承・寿永の乱
年月日治承4年12月28日1181年1月15日
場所南都(現奈良県
結果:平氏の勝利
交戦勢力
平氏 東大寺興福寺
指導者・指揮官
平重衡 南都大衆
戦力
40,000(平家物語) 7,000(平家物語
損害
不明 主要な堂舎が全焼、焼死者多数で壊滅状態
治承・寿永の乱

412281181115寿1

[]


[1]3117911殿41180526

6[2]1211[3]

[]


50060

[4][5]1211[6][7]16[8]

[9]12254[10][11]76[12]27227退[13]沿28沿[ 1][14]殿[15]
殿殿

西[16]殿西西[17][18]179174934西[19]殿

西38[20]18746[21]4813[22][23][17][24][25](1046)1224西

[17][26]西[17]西宿殿[27]西西[16] 殿35殿3[28]

()()[29]3029[30]49[31]

[]


5(1181)[32][33]1424118132031[34]

318使

調(1185)68[35]殿311923殿6(1195)3[36]11991206122731237[37] 

使()562(1186)9[38]3(1187)3[39]4(1188)3[40]51194()[41]31206412102121230[42]

3(1277)[43]使[44]

西7西7西西[45]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一方、『山槐記』治承4年12月28日条では世間の噂によるとして、興福寺に籠って抵抗していた大衆らが撤退した後、平氏方の兵が周辺の民家に放火したのが原因とする説を挙げているが、著者の中山忠親自身はどちらの側が火を放ったのかは不明であるとしている。

出典[編集]



(一)^ 1963p136-137

(二)^ 2007p46

(三)^ p102

(四)^ 1967p147

(五)^ 2013p102

(六)^ 41212

(七)^ 41214

(八)^ 41216

(九)^ 41222

(十)^ 41225

(11)^ 2007p102-103

(12)^ 41227

(13)^ 1988p62-63

(14)^ 2006p11

(15)^ 2007p103-104

(16)^ ab1994p153

(17)^ abcd4122856

(18)^ 1994p167

(19)^ p5860

(20)^ 41228562007p104

(21)^ 1981114

(22)^ 1994p97

(23)^ 1989p2782861981127

(24)^ 523

(25)^ 1994p6264

(26)^ 

(27)^ 

(28)^ 518

(29)^ 41228

(30)^ 41229

(31)^ 41229

(32)^ 55

(33)^ 58

(34)^ 531

(35)^ 1994p167-172

(36)^ p173-1741963p1442019p259-260

(37)^ 1994p183

(38)^ 2922210102019p209-210

(39)^ 339-121994p1591963p148

(40)^ 43191994p163

(41)^ 1994p164

(42)^ p166

(43)^ p187-199

(44)^ p205-207

(45)^   1992/:2023 2023P339-363.

[]


︿319631996ISBN 978-4-642-06634-1 

︿62007ISBN 978-4-642-06316-6 

 2006ISBN 4-642-01435-7 

寿︿52013ISBN 978-4-642-06451-4 

 ︿1967 

 21994ISBN 978-4-642-01572-1 

︿111988ISBN 978-4-586-72011-8 

︿ 51981ISBN 4-09-375005-X 

︿  11989ISBN 4-10-602601-5 

-︿ 25262019ISBN 978-4-12-102526-5