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*{{Cite book|和書 |
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|author= 中尾堯編 |
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|title= 重源 旅の勧進聖 日本の名僧6 |
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|year= 2004 |
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|title= 鎌倉期の東大寺復興 重源上人とその周辺 |
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|publisher= [[法蔵館]](発売) |
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}}<br> 「ザ・グレイトブッダ・シンポジウム論集 第5号」、GBS実行委員会編 |
}}<br>東大寺 「[[ザ・グレイトブッダ・シンポジウム]]論集 第5号」、GBS実行委員会編 |
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*久野修義『重源と[[栄西]] 優れた実践的社会事業家・宗教者』、[[山川出版社]]「日本史リブレット人」、2011年。小冊子 |
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=== 文学作品 === |
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|isbn= 978-4-103-97901-2 |
|isbn= 978-4-103-97901-2 |
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}}著者は[[建築史|建築史家]]。 |
}}著者は[[建築史|建築史家]]。 |
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*[[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]] 『悪党重源 中世を創った男』 |
*[[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]] 『悪党重源 中世を創った男』[[文藝春秋]]、2010年 ISBN 978-4-163-29680-7 |
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*吹角隆光『重源さんが教えてくれたもの くわばらくわばら、雷の落ちないお寺から』レベル、2019年。挿絵:[[藤原祐寛]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2020年2月23日 (日) 10:38時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/80/080330-162412.jpg/300px-080330-162412.jpg)
出自と経歴
紀氏の出身で紀季重の子。長承2年︵1133年︶、真言宗の醍醐寺に入り、出家する[1]。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ[1]。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする[1]。 重源は自ら﹁入唐三度聖人﹂と称したように中国︵南宋︶を3度訪れた[注 2]入宋僧だった[2]。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年︵1168年︶に栄西とともに帰国した記録がある[2]。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って天台山国清寺と育王山阿育王寺に参詣した。舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる[2]。 重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった[2]。承安元年︵1171年︶頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、重源は周防国徳地から用材を調達している。 東大寺は治承4年︵1180年︶、平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏︵盧舎那仏像︶もほとんどが焼け落ちた。 養和元年︵1181年︶、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。東大寺大勧進職
大原問答
文治2年︵1186年︶、天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請し、そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを﹁大原問答﹂と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを﹁南無阿弥陀仏﹂と号し、法然に師事した。著作
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F%E4%BD%9C%E5%96%84%E9%9B%86_%28Namu-Amidabutsu_Sazensh%C5%AB%29.jpg/300px-%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F%E4%BD%9C%E5%96%84%E9%9B%86_%28Namu-Amidabutsu_Sazensh%C5%AB%29.jpg)
大仏殿のその後
遺構
●現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂︵法華堂の前面部分︶が残っている。 ●建久8年︵1197年︶、播磨の別所に建造られた浄土寺浄土堂︵兵庫県小野市︶は現存しており国宝に指定されている。 ●京都市の醍醐寺経蔵は建久6年︵1195年︶に重源が建立したものであったが、昭和14年︵1939年︶に周囲の山火事が類焼し焼失した。大仏様
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Todaiji06s3200.jpg/200px-Todaiji06s3200.jpg)