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重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった<ref name="Itou"/>。[[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]])頃に建立が始まった博多の[[誓願寺 (福岡市)|誓願寺]]の本尊を制作する際に、重源は[[周防国]]徳地から用材を調達している。 |
重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった<ref name="Itou"/>。[[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]])頃に建立が始まった博多の[[誓願寺 (福岡市)|誓願寺]]の本尊を制作する際に、重源は[[周防国]]徳地から用材を調達している。 |
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東大寺は[[治承]]4年([[1180年]])、[[平重衡]]の[[南都焼討]]によって[[伽藍]]の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏([[東大寺盧舎那仏像|盧舎那仏像]])もほとんどが |
東大寺は[[治承]]4年([[1180年]])、[[平重衡]]の[[南都焼討]]によって[[伽藍]]の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏([[東大寺盧舎那仏像|盧舎那仏像]])もほとんどが熔け落ちた。 |
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[[養和]]元年([[1181年]])、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である[[藤原行隆]]に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺勧進職]]に就いた。当時、重源は[[年齢|齢]]61であった。 |
[[養和]]元年([[1181年]])、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である[[藤原行隆]]に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺勧進職]]に就いた。当時、重源は[[年齢|齢]]61であった。 |
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東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、[[勧進]]活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も[[京都|京]]の後白河法皇や[[九条兼実]]{{efn2|兼実の日記﹃[[玉葉]]﹄によれば[[寿永]]2年︵[[1183年]]︶に重源と会った際に中国が[[金 (王朝)|金]]と[[宋 (王朝)|宋]]に分断されている事実を初めて知り、﹁希異﹂の感を抱いたという。兼実は当時屈指の知識人の一人であり、当時の日本人の対外認識の低さを伝える故事として知られている。<ref>北爪真佐夫﹃中世初期政治史研究﹄︵吉川弘文館、1998年、ISBN 978-4-642-02764-9︶34頁。</ref>}}、[[鎌倉]]の[[源頼朝]]などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。
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東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、[[勧進]]活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も[[京都|京]]の後白河法皇や[[九条兼実]]{{efn2|兼実の日記﹃[[玉葉]]﹄によれば[[寿永]]2年︵[[1183年]]︶に重源と会った際に中国が[[金 (王朝)|金]]と[[宋 (王朝)|宋]]に分断されている事実を初めて知り、﹁希異﹂の感を抱いたという。兼実は当時屈指の知識人の一人であり、当時の日本人の対外認識の低さを伝える故事として知られている。<ref>北爪真佐夫﹃中世初期政治史研究﹄︵吉川弘文館、1998年、ISBN 978-4-642-02764-9︶34頁。</ref>}}、[[鎌倉]]の[[源頼朝]]などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。
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重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・[[陳和卿]]の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国{{efn2|重源は材木を探して[[伊賀]]・[[吉野]]・[[伊勢]]などに赴いたが良材 |
重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・[[陳和卿]]の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国{{efn2|重源は材木を探して[[伊賀]]・[[吉野]]・[[伊勢]]などに赴いたが、長年の都の造営や寺社の建立で畿内近郊の山林は良材が枯渇しており、まだ森林資源が豊富な周防国が朝廷から充てられた。また、当時の周防国が後白河法皇の[[院宮分国制|院分国]]だったことも当地が選ばれた理由としてあげられる<ref name="Itou"/>。}}の[[杣]]︵材木を切り出す山︶に入り、[[佐波川]]上流の山奥︵現在の滑山国有林<ref>[http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/policy/business/sitasimou/mori_zukuri/recreation/yamaguchi/namerayama.html 滑山風景林︵山口市徳地︶] - [[近畿中国森林管理局]]</ref>付近︶から道を切開き、川に堰を設ける{{efn2|当時は、佐波川には118ヶ所の堰︵関水︶を設けたと言われる︵山口市徳地の佐波川関水跡の説明板より︶。}}などして長さ13[[丈]]︵39m︶・直径5尺3[[寸]]︵1.6m︶{{efn2|山口市徳地の重源上人像説明板より}}もの巨大な木材を[[奈良]]まで運び出したという。また、前述の阿育王寺の舎利殿の再建の為に周防の木材の一部を中国にも送っている︵当時の中国︵宋︶の山林は荒廃し、木材は貴重品であった︶<ref>岡元司﹁周防から明州へ﹂﹃宋代沿海地域社会史研究﹄汲古書院、2012年︵原論文:2006年︶</ref>。更に[[伊賀国|伊賀]]・[[紀伊国|紀伊]]・周防・[[備中国|備中]]・[[播磨国|播磨]]・[[摂津国|摂津]]に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。
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途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた[[大衆 (仏教)|大衆]]たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、[[西行]]に[[奥羽]]への[[砂金]]勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには時には強引な手法も用いた。建久3年9月播磨国[[大部荘]]にて荘園経営の拠点となる別所︵[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]︶を造営した時及び周防国[[阿弥陀寺 (防府市)|阿弥陀寺]]にて[[湯施行]]の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を違えれば[[現世]]では﹁白癩黒癩︵重度の皮膚病︶﹂の身を受け、来世では﹁[[無間地獄]]﹂に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している{{efn2|前者は﹁僧重源下文﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-621︶、後者は﹁周防国司庁宣案﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-1161︶}}。また、文治2年7月から閏7月にかけての大仏の発光現象など大仏再建前後に発生した霊験譚を重源あるいはその側近たちによる創作・演出とする見方もある<ref>[[小原仁]]﹁重源の勧進活動とその論理﹂︵﹃中世貴族社会と仏教﹄︵吉川弘文館、2007年︶ ISBN 978-4-642-02460-0 ︵原論文発表は1995年︶</ref>。
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途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた[[大衆 (仏教)|大衆]]たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、[[西行]]に[[奥羽]]への[[砂金]]勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには時には強引な手法も用いた。建久3年9月播磨国[[大部荘]]にて荘園経営の拠点となる別所︵[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]︶を造営した時及び周防国[[阿弥陀寺 (防府市)|阿弥陀寺]]にて[[湯施行]]の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を違えれば[[現世]]では﹁白癩黒癩︵重度の皮膚病︶﹂の身を受け、来世では﹁[[無間地獄]]﹂に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している{{efn2|前者は﹁僧重源下文﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-621︶、後者は﹁周防国司庁宣案﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-1161︶}}。また、文治2年7月から閏7月にかけての大仏の発光現象など大仏再建前後に発生した霊験譚を重源あるいはその側近たちによる創作・演出とする見方もある<ref>[[小原仁]]﹁重源の勧進活動とその論理﹂︵﹃中世貴族社会と仏教﹄︵吉川弘文館、2007年︶ ISBN 978-4-642-02460-0 ︵原論文発表は1995年︶</ref>。
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2022年8月21日 (日) 01:36時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/80/080330-162412.jpg/200px-080330-162412.jpg)
出自と経歴
紀氏の出身で紀季重の子。長承2年︵1133年︶、真言宗の醍醐寺に入り、出家する[1]。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ[1]。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする[1]。 重源は自ら﹁入唐三度聖人﹂と称したように中国︵南宋︶を3度訪れた[注 2]入宋僧だった[2]。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年︵1168年︶に栄西とともに帰国した記録がある[2]。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って天台山国清寺と阿育王寺に参詣した。舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる[2]。 重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった[2]。承安元年︵1171年︶頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、重源は周防国徳地から用材を調達している。 東大寺は治承4年︵1180年︶、平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏︵盧舎那仏像︶もほとんどが熔け落ちた。 養和元年︵1181年︶、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。東大寺大勧進職
大原問答
文治2年︵1186年︶、天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請し、そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを﹁大原問答﹂と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを﹁南無阿弥陀仏﹂と号し、法然に師事した。著作
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F%E4%BD%9C%E5%96%84%E9%9B%86_%28Namu-Amidabutsu_Sazensh%C5%AB%29.jpg/300px-%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F%E4%BD%9C%E5%96%84%E9%9B%86_%28Namu-Amidabutsu_Sazensh%C5%AB%29.jpg)
大仏殿のその後
遺構
●現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂︵法華堂の前面部分︶が残っている。 ●建久8年︵1197年︶、播磨の別所に建造られた浄土寺浄土堂︵兵庫県小野市︶は現存しており国宝に指定されている。 ●京都市の醍醐寺経蔵は建久6年︵1195年︶に重源が建立したものであったが、昭和14年︵1939年︶に周囲の山火事が類焼し焼失した。大仏様
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Todaiji06s3200.jpg/200px-Todaiji06s3200.jpg)