出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高野山電気鉄道101形電車︵こうやさんでんきてつどう101がたでんしゃ︶とは、高野山電気鉄道︵現在の南海高野線高野下駅~極楽橋駅間と南海鋼索線を運行していた会社︶に在籍した通勤形電車の1形式。正式にはデ101形と称した。後に南海電気鉄道所属となりモハ561形と改名している。本稿では、同系の荷物室合造車であるデニ501形を含めて述べることとする。
概要
高野山電気鉄道は1928年6月に南海鉄道︵南海電気鉄道の前身︶高野線に接続する高野下~神谷駅間の開業に伴い営業を開始し、翌年極楽橋駅まで延長開業している。この営業開始に備えて1928年6月に日本車輌製造にてデ101形8両︵101~108︶とデニ501形2両︵501・502︶が製作された。この路線は50‰の急勾配と急曲線が連続するため、これに対応した特殊装備を多く備えていたのが特徴である。開業当初は架線電圧が1500Vであったため1500V専用車として新造されたが、1932年に南海鉄道との相互乗り入れを実施し難波駅まで乗り入れるにあたって南海と同じ600Vに架線電圧が下げられることとなったため、600V専用車に改造された。
車体
当時まだ珍しかった全金属製車体であった。初期の鋼製車の特徴であるリベットを多用、屋根も深く厳めしい印象がある車体で、いかにも険しい山登りをする電車という風情であった。車体長は15m級ながら自重は全金属製車体の採用と特殊装備のために36tと大きさの割りに重くなった。窓配置はd1D10D1d︵デ101形︶またはdD1D9D1d︵デニ501形・荷物室は高野下方︶、側窓は1段下降式であった。全室式の両運転台装備で正面は荷物室側を除いて貫通路付の3枚窓、荷物室側のみ非貫通の3枚窓であった。山岳区間走行に備えて大きなヘッドライトを屋根に左右に分けて2個装備していたのが大きな特徴で、﹁二ツ目玉﹂などのあだ名がつけられた。屋根は鋼板張りであった。
新造時の主要機器
主電動機はゼネラル・エレクトリック製GE-281A︵定格出力52kW︶を4個装備した。ギア比は62:24である。台車は汽車製造会社製の軸バネ式で登山電車用の特殊構造のものであった。制御器は電力回生制動指令が可能な東洋電機製造製AUR-11、ブレーキはクノール社製のAMF自動空気ブレーキの組み合わせで、日本初の電力回生ブレーキ使用車両となった。さらに急勾配に備えて電磁軌条ブレーキも装備して万全を期していた。空気圧縮機はブレーキと同じクノール社製の2段圧縮式のものを装備した。
600V専用車への改造
概要に記したとおり、1932年に600V専用車への改造が行われた。主電動機・制御器・空気ブレーキ・空気圧縮機は変更されなかったが電圧降圧により主電動機出力が42kwとなった。電磁軌条ブレーキは撤去された。特殊構造の台車はそのまま残されたが南海鉄道線の平坦区間における高速走行時に激しく揺れるため、1937年に汽車製造会社製K-16Aに交換された。
変遷︵高野山電気鉄道在籍時︶
新造時は高野下以南の自社線内のみの運行であったが、南海鉄道への乗り入れ開始後は難波~極楽橋間の直通運転︵通称﹁大運転﹂︶の主力となった。1943年に南海鉄道の堺東車庫の火災で101号が全焼したが全金属製であったために残った構体を利用して復旧された。ただし、半鋼製車体、片隅式運転台、ヘッドライト1個となった。このほか戦時中に105号と107号が正面衝突するなど破損して走行不能となる車両はあったが、全車戦災に遭うことなく戦時を乗り切った。この間1944年に南海鉄道が戦時統合により近畿日本鉄道︵近鉄︶の難波営業局となっていたが高野山電気鉄道は統合の対象外であったため相互乗り入れの相手社名が変わっただけであった。終戦時は相互乗り入れは縮小され近鉄の橋本駅~極楽橋駅間の折り返し運転に使用されていた。戦後になって1946年に103・104号の2両が難波営業局の車両不足を理由として近鉄に移籍し、モハ561形561・562号︵いずれも初代︶となった。これら2両は1947年6月に南海と近鉄が分離することとなったため事前に高野山電気鉄道に復籍、旧車番に戻された。南海と近鉄の分離にあたってさきに1947年に3月に高野山電気鉄道は南海電気鉄道と社名変更したためこの時点でデ101形・デニ501形とも南海所属となったことになるが、実態としては同年6月に南海電気鉄道が近鉄から難波営業局所属路線を譲渡された時点で高野山電気鉄道から南海に両形式とも引き継がれたといえよう。
変遷︵更新修繕まで︶
南海に引き継がれ高野線所属となってからもしばらく両形式とも以前の形式のままであったが、1949年にデ101形のみモハ561形に改められた︵101~108号→561~568号、561・562号は2代目、初代とは別車両︶。1951年に天見駅~紀見峠駅間の紀見トンネル内で502号が発火・焼失する事故があり、同車は1954年に電動貨車デワ2001号として復旧した。この事故を契機に1956年に残った9両に屋根に絶縁用ルーフィング工事を行い、合わせてヘッドライトを貫通路上の1個のみに改めた。これは2個のヘッドライトが直列回路でつながれており、いずれか1個が切れただけで2個とも切れてしまうためであった。また1953年には空気ブレーキをAMMに変更した。その他、変更時期は不明であるが2段圧縮式の空気圧縮機も通常形の1段圧縮のものに取り替えられている。運用面では、難波直通列車はより高性能のモハ1251形に譲り、足の遅い本形式は旧・高野山電気鉄道線そのものである高野下~極楽橋間の区間運転用とされた。
更新修繕・終焉
1963年から1964年にかけて9両全車とも更新修繕を施工された。制御器がゼネラル・エレクトリック製PC-14-Aに変更されて電力回生ブレーキがなくなり、平坦区間用となった。また車体からリベットがなくなり印象が変わった。デニ501形で唯一残っていた501号については荷物室を撤去してモハ561形に編入、569号となったが荷物室のあった難波方の非貫通運転台はそのままであった。以後は9両とも︵通称︶汐見橋線の汐見橋駅~住吉東駅間の折り返し列車専用となった。しかし、本形式は南海の標準形車両ではないことからモハ1501形に続いて淘汰の対象となった。561・564・565・567・568号は1968年から1969年にかけて老朽廃車、566号は1968年に天下茶屋駅構内で11001系電車と正面衝突して破損し翌年廃車、563号は1968年に電動貨車デワ2002号に改造され社用品輸送に使用されたが1971年に自動車輸送に切り替えられたため用途を失った。502号復旧車のデワ2001号は高野線の郵便・手荷物輸送に従事していたが1971年に高野線の郵便・手荷物輸送が廃止になったため、デワ2002号とともに1972年に廃車となった。モハ561形で最後まで残った562・569号の2両は1969年に水間鉄道に譲渡され同社のモハ364形364・365号となった。水間鉄道での使用期間は短く、南海からのモハ1201形の貸与︵のち譲渡︶に伴いわずか数年で廃車となった。
脚注
|
---|
現有車両
|
|
過去の車両(昇圧後在籍)
|
|
過去の車両(昇圧前在籍)
|
|
機関車
|
|