ハククラマ
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ハククラマ | |
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現役期間 | 1958年 - 1960年 |
欧字表記 | Haku Kurama |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1956年4月3日 |
父 | ライジングライト |
母 | アトムシンボリ |
母の父 | ミルトン |
生国 | 日本(千葉県) |
生産牧場 | 新堀牧場 |
馬主 | 西博 |
調教師 | 尾形藤吉(東京) |
競走成績 | |
生涯成績 | 22戦8勝 |
獲得賞金 | 7,823,520円 |
勝ち鞍 | 菊花賞(1959年) |
ハククラマ︵1956年4月3日 - 没年不詳︶は、日本の競走馬、種牡馬である。1959年に菊花賞で優勝し、同年度の啓衆社賞最良スプリンターに選出された。
※馬齢は旧表記とする。
経歴[編集]
1956年4月3日、千葉県の新堀牧場にて生誕。ハクチカラを所有した西博の所有馬となり、東京競馬場の尾形藤吉厩舎に入厩する。 1958年11月16日、東京競馬場での新馬戦︵芝 1,000メートル︶で初出走、尾形厩舎の主戦である保田隆芳が騎乗して1着となりデビュー戦白星を挙げる。明け4歳となったデビュー3戦目︵1959年3月1日、東京競馬場︶ではのちに東京優駿を制するコマツヒカリと対戦し、0秒1差の2着となる。その後、4月12日の四歳中距離特別︵中山競馬場 芝1,800メートル︶でコマツヒカリとふたたび対戦し、1着となる。その次の四歳オープンも勝ち、5月5日には東京優駿トライアルのNHK盃︵東京競馬場 芝2,000メートル︶に出走する。主戦の保田が尾形厩舎のハローモアに騎乗したため、八木沢勝美に乗り替わったが見せ場なく9着に敗れ、本番となった5月24日の第26回東京優駿は不良馬場に合わず、コマツヒカリの7着と敗れた。 東京優駿のあと、夏場を休養に充てたハククラマは、秋の緒戦として9月6日の京王盃オータムハンデキャップに出走、50キログラムの斤量を生かして重賞初制覇を果たす。その後9月27日に中山の特殊ハンデキャップ競走で2着となると、翌週の10月4日に連闘でセントライト記念︵中山、芝2,400メートル︶に出走、単勝1番人気に応えて2分31秒1と当時のレコードタイムで1着となり、重賞2勝目を挙げた。 11月15日に迎えた第20回菊花賞︵京都競馬場 芝3,000メートル︶では1番人気に支持され、スタートから先頭に立つと快調に走り、2着のハローモアに3馬身差をつけて3分7秒7のレコードタイム︵当時︶で逃げ切り、クラシック最後の一冠を制覇した。その年の第4回有馬記念ではファン投票で11,438票を獲得して1位で選出されて出走したが、ガーネツトの12着と敗れた。この有馬記念12着は、2014年現在でもファン投票1位出走馬の最低着順︵ただし、競走中止をのぞく︶である。 1960年、明け5歳となるとオープン競走を2度走っていずれも2着、5月8日の東京盃︵東京 芝2,400メートル︶は8着、6月5日の安田記念︵東京 芝1,800メートル[1]︶は6着と敗れた。安田記念の翌週の6月11日のオープン競走に出走し、1着となった。6月26日の日本経済賞でオーテモン︵1960年の天皇賞︵秋︶優勝馬︶の2着と敗れたのが現役最後のレースとなった。 引退後のハククラマは種牡馬となったが、これといった産駒は出していない。おもな勝鞍[編集]
血統表[編集]
ハククラマの血統(ハイペリオン系/Manna 3×4=18.75%、Gainsborough 3×5=15.63%、Buchan 4×5=9.38%、Swynford 5×5=6.25%) | (血統表の出典) | |||
父 *ライジングライト Risin Light 1942 鹿毛 |
父の父 Hyperion1930 栗毛 |
Gainsborough | Bayardo | |
Rosedrop | ||||
Selene | Chaucer | |||
Serenissima | ||||
父の母 Bread Card1931 鹿毛 |
Manna | Phalaris | ||
Waffles | ||||
Book Debt | Buchan | |||
Popingaol | ||||
母 アトムシンボリ 1949 鹿毛 |
ミルトン 1936 鹿毛 |
Miracle | Manna | |
Brodick Bay | ||||
*シガアナ | Solario | |||
Granada | ||||
母の母 神鈴1939 鹿毛 |
*プリメロ | Blandford | ||
Ahtasi | ||||
*スリリング | Theo Bold | |||
Ling F-No.9-e |
脚注[編集]
- ^ この当時の安田記念はGI級レースでなく、かつ距離もマイル戦ではなかった。