ビザンティン・ハーモニー

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: Симфония, : Byzantine harmony, or Symphonia[1]

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: αρμονία: συμφωνία, : Симфония[4], : Symphonia[2][3]: Byzantine Symphonia[5]

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ロシア[編集]

リューリク朝~ロマノフ朝時代[編集]

ロシア正教会では5508年に人祖アダムが誕生したとヘブライ語の聖書を計算してされている。ロシア正教会においてモスクワ総主教が立てられたのは1589年になってからであるが、総主教制が行われる以前のルーシロシアにおいても、概ね教会と国家の関係についての理解は東ローマ帝国と同様のビザンティン・ハーモニーに則っていた。ルーシ、ロシアにおける教会法(ノモカノン)は東ローマ帝国・ギリシャから導入されていた。

しかしこうしたビザンティン・ハーモニーが決定的に崩れる萌芽が、モスクワ総主教フィラレートが国政に携わる頃から現れ始めていた。その背景には所有派と非所有派の対立問題があり、教会の主導権を握った所有派が皇帝に接近し過ぎていた事情があった。皇帝が教会を掣肘しようとしたときに、教会側が抵抗しにくい素地が形成されていた。


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西西1[9]

ソ連時代[編集]




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第二次世界大戦時におけるナチス・ドイツの侵攻に際して教会に協力を求めてソ連政府が態度を軟化させて以降、ロシア正教会は生き残りをかけて、無神論を掲げるソ連と複雑な共存関係を模索して政府と交渉に当たらざるを得ず、ビザンティン・ハーモニーも複雑な形態をとらざるを得なくなった。

アレクサンドル・ソルジェニーツィンの政治に関する提言には、ビザンティン・ハーモニーの理念が含まれている[9]

ソ連崩壊後[編集]

ソビエト連邦の崩壊後の現代ロシアにおいては、信教の自由が認められ国家と正教会の関係は概ね良好であるが、こうした状況下でロシア連邦(国家)とロシア正教会(教会)の関係が論じられる際に、シンフォニヤ(ロシア語: Симфония、ビザンティン・ハーモニー)の概念が論点の一つとなる事がある[10]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 高橋(1980: 87-91)
  2. ^ a b The Eastern Orthodox Church Its Thought and Life. By Ernst Benz. Edited by Bishop Alexander (Mileant).
  3. ^ a b Teaching the world to sing in perfect symphonia
  4. ^ ロシア語: Симфонияシンフォニヤと転写し得る。
  5. ^ John Erickson (英語)
  6. ^ 高橋(1980: 78-79)
  7. ^ 高橋(1980: 80)
  8. ^ a b 4世紀の古くからグルジアも正教国であり(グルジア正教会)、バルカン半島にも歴史の長い正教会が多数存在するが、「ビザンティン・ハーモニー」を扱う際には東ローマ帝国ロシアがメインに扱われる事が多い。
  9. ^ a b c 高橋(1980: 142-145)
  10. ^ СВЯЩЕННОСЛУЖИТЕЛИ О "СИМФОНИИ" ГОСУДАРСТВА И ЦЕРКВИ (ロシア語)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]