三国街道
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三国街道︵みくにかいどう︶は、中山道の高崎︵群馬県高崎市︶から分かれ、北陸街道の寺泊︵新潟県長岡市寺泊地域︶へ至る街道である。
概要[編集]
三国峠は関東と越後を結ぶ交通路としてきわめて古くから利用されており、上杉謙信の関東遠征の際に利用された。主要街道としての三国街道は、近世︵江戸時代︶に参勤交代に利用されるようになってから重要視されるようになった。長岡藩、与板藩、村松藩などの諸大名や佐渡奉行、新潟港巡検の関八州取締出役などがこの街道を利用した。また、当時の宿場には、渋川や湯沢をはじめ﹁三国峠越えの三宿﹂と称せられた浅貝、二居、三俣などがあった。 明治時代に入ると1876年︵明治9年︶に三国街道は一等国道に指定されたが、1885年(明治18年)2月に距離の短い清水峠越えの道[注釈 1]が国道8号﹁東京ヨリ新潟港ニ達スル別路線﹂として認定され、三国街道は県道に格下げとなる。 同年8月には清水峠が馬車通行の可能な道路として開通したが、わずか数ヶ月でがけ崩れと雪崩の頻発により放棄された。 また1893年︵明治26年︶に碓氷峠越えの鉄道︵信越本線︶が開通してからは、群馬・新潟間の交通は鉄道にシフトし宿場町は衰微していくことになる。長岡から湯沢にかけては道も平坦で農耕地もあったため、ある程度の交通需要があったようだが、三国峠を越える区間の交通量は極めて少ないものであった。 清水峠越えの道は1919年︵大正8年︶4月1日をもって国道から府県道﹁前橋新潟線﹂に降格された。同時に三国街道も県道より外されたが翌1920年︵大正9年︶4月1日に府県道﹁沼田六日町線﹂に再指定された。 1934年︵昭和9年︶5月1日の内務省告示第251号によって、当初﹁東京市ヨリ群馬県庁所在地ニ達スル路線﹂とされた国道9号[注釈 2]が三国街道経由で新潟市まで延長されて﹁東京市ヨリ新潟県庁所在地ニ達スル路線﹂となり、現在の国道17号のルートとなった。これは、東京と満州を結ぶ最短ルートとして三国街道が注目されたためである。しかしこれまでに述べたような状況により、当時の三国峠は改良が全くと言って良いほど行われておらず、自動車の通れる状態ではなかった。1940年︵昭和15年︶より三国峠の改良工事が開始されるが、第二次世界大戦の戦況の悪化により中断された。 戦後の1948年︵昭和23年︶より改良工事が再開され、1952年︵昭和27年︶12月4日に新道路法に基づく路線指定で旧国道9号がそのまま一級国道17号︵東京都中央区 - 新潟県新潟市︶として指定された。1959年︵昭和34年︶6月には三国トンネルが開通し、群馬・新潟間の自動車往来が可能となった。 旧三国街道はその大部分が国道17号となっており、関越自動車道・上越線・上越新幹線と共に関東・新潟間の大動脈となっている。 南魚沼市区間﹁三国街道塩沢宿 牧之通り︵雪国の歴史と文化のまちづくり︶﹂が、平成23年度国土交通省手づくり郷土賞受賞。宿場[編集]
- 高崎宿(群馬県高崎市)
- 金古宿(群馬県高崎市)
- 渋川宿(群馬県渋川市)
- 金井宿(群馬県渋川市)[1]
- 北牧宿(群馬県渋川市)[2]
- 横堀宿(群馬県渋川市)[2]
- 中山宿(群馬県吾妻郡高山村)[3]
- 塚原宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 下新田宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 布施宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 今宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 須川宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 相俣宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 猿ヶ京宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 吹路宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 永井宿(群馬県利根郡みなかみ町)
- 浅貝宿(新潟県南魚沼郡湯沢町)
- 二居宿(新潟県南魚沼郡湯沢町)
- 三俣宿(新潟県南魚沼郡湯沢町)
- 湯沢宿(新潟県南魚沼郡湯沢町)
- 関宿(新潟県南魚沼市)
- 塩沢宿(新潟県南魚沼市)
- 六日町宿(新潟県南魚沼市)
- 五日町宿(新潟県南魚沼市)
- 浦佐宿(新潟県南魚沼市)
- 堀之内宿(新潟県魚沼市)
- 川口宿(新潟県長岡市)
- 妙見宿(新潟県長岡市)
- 六日市宿(新潟県長岡市)
- 長岡宿(新潟県長岡市)
- 与板宿(新潟県長岡市)
- 地蔵堂宿(新潟県燕市)
- 関中島宿(新潟県燕市)
- 渡部宿(新潟県燕市)
- 寺泊宿(新潟県長岡市)
関所[編集]
関連項目[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 金井宿本陣の地下牢 渋川市.
- ^ a b c d 広報しぶかわ 杢ヶ橋関所跡.
- ^ 中山宿 高山村.
- ^ 群馬県指定文化財一覧.
- ^ “「三国街道 秋日和」 -新日本風土記-NHK”. NHK. 20221202閲覧。