高崎宿
表示
高崎宿︵たかさきしゅく︶は、中山道六十九次︵木曽街道六十九次︶のうち江戸から数えて13番目の宿場。また、高崎宿から三国街道が分岐しており、その起点の宿場である。現在の群馬県高崎市にあたる。
概要[編集]
高崎宿は平地に立地した宿場町であり、﹃安政3年5月改﹄の調書によると﹁繁栄取締宜敷方﹂とあり、高崎宿の繁栄[1]が報告されている。 高崎宿と交通経路は、中山道、例幣使街道︵分岐点は倉賀野宿︶、北国街道、仁礼道︵仁礼街道︶から大笹宿から大戸宿を経て高崎宿へと至る脇道である大戸道などが合流する宿駅として比較的繁栄していた[2]。北国街道の脇往還の交通には、 慶安3寅年(1650年) の ﹃北国往還矢代外七ヶ宿と大笹仁礼両村及出入候節絵図面御書入御裁許之写﹄にその交通経路の規定が確認でき、仁礼道からは大笹宿を経て沓掛宿で中山道に合流し高崎宿への通過とされていた。大笹宿から大戸を経て高崎に至る大戸道の通過は堅く禁じられていたが、時代が下るとともに脇道の通過も行われるようになったという[3]。 松代より西之方之者共は北国街道を可相通,松代より東之方之者共は仁礼海通を可相通候, 但松代より東之者も北国街道通度者は心次第に可仕候以上 — 慶 安3寅 年 (1650) の ﹁北 国 往 還矢代外七ヶ宿と大笹仁礼両村及出入候節絵図面御書入御裁許之写﹂[4] 高崎宿の宿内は、天保14年︵1843年︶の﹃中山道宿村大概帳﹄によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、本陣および脇本陣は設けられておらず、旅籠のみ15軒が設けられ、宿内人口は3,235人であった。嘉永5子年(1852年)に各宿駅から提出された﹃宿方銘細書上帳﹄によると、本陣、脇本陣は設けられておらず、問屋8軒が記述されている[5]。戸数と人口は安政3年の﹃明細書上帳﹄によると、享和元年には317軒、1,759人であったが、安政3年には366軒、2,182人と増加している[6]。 安政3年︵1856年︶の﹃坂本高崎間五ヶ宿盛衰其他内調書上﹄によると高崎宿は﹁石高なし、赤坂村1,234石5斗8升7合高崎惣町にて耕作仕候﹂とあり[7]、江戸時代末期の助郷村については、20,421石、定助13村、加助17村であった[8]。災害[編集]
天明3年浅間山の大噴火[編集]
浅間山は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山である。天明3年︵1783年︶に浅間山は大噴火︵天明噴火︶を起こした。4月に活動を再開し7月まで噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けた。浅間山の天明噴火の高崎宿を含む中山道筋での被害は4月から7月までの長期にわたり、火山礫、火山砂、そして火山灰などによるものであった。その被害の大きさは、大角︵1975︶にて説明されている[9]。 鼻曲峠六尺余, 沓掛宿四~五寸, 軽井沢宿三乃至四尺, 峠町四尺余, 坂本宿, 松井田宿で四尺, 安中宿四尺ほど, 板鼻宿で三尺程, 高崎宿で二尺, 熊谷宿壱尺, 本庄宿二尺程, 桶川宿五寸程, 妙義山東南部村々は壱尺以下, 下仁田二寸, 富岡六寸, 江戸で壱寸ほどである。焼出す煙は, 上野, 下野, 陸奥, 常陸, 安房, 上下総の国々にたなびき, 石砂灰が降り,それから東風に従い,煙は西に向い,東海道西国へも八月午未刻に灰降り, 相州石尊又は奥州白河, 日光に灰が降ったという。 — 大角︵1975︶、7頁。 浅間山の火山礫、砂、灰の堆積は高崎宿で二尺︵約66.7cm︶であったことがわかる[9]。また、中山道筋での浅間山噴火の自然への影響は﹃浅間奇談﹄に記録がある[10]。 桶川宿より軽井沢宿道通り筋より双方見渡しの処, 田畑草木不残埋り,色赤く成, 野山共に青葉一切なし — 浅間奇談最寄り駅[編集]
史跡・みどころ[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 大角留吉.「自然災害と農山村の再興-天明三年浅間山大噴火と農山村の再興の場合」. 『新地理』22.3-4,日本地理教育学会、1975年: 1-26頁.
- 原沢文彌.「中山道坂本熊谷間 10 宿の宿駅の規模-近世宿駅の歴史地理学的考察の一過程」.『新地理』2.3、日本地理教育学会、1954年: 26-40頁.
- 山本光正.「海道と街道と交通路の名称」、『逓信総合博物館 研究紀要』第4号、逓信総合博物館、2013年:1-9頁.