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上杉憲春

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凡例

上杉憲春
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 天授5年/康暦元年3月7日1379年3月25日
戒名 大沢院高源道珍
幕府 室町幕府 関東管領 上野武蔵守護
主君 足利基氏氏満
氏族 山内上杉家
父母 父:上杉憲顕
兄弟 憲将憲賢能憲憲春憲方憲英憲栄岩松直国室、上杉朝房
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脚注[編集]

  1. ^ 当時の関東管領は2人制であったが、小国浩寿は通説では建徳元年/応安3年(1370年)に関東管領を辞任したとされる上杉朝房について、同年に辞表を提出したものの、実際には認められず引き続き名目上の関東管領であった可能性を指摘している。小国はその上で天授4年/永和4年段階で憲春が実質上の関東管領であったものの、欠員がなかったために正式な管領に就任することが出来ず、能憲の死による管領の空席発生によってその地位を継いだとみる。
  2. ^ 氏満に加担すれば関東管領の地位を失い、対立すれば氏満の信頼を失い、いずれにしても正当な後継者とされた憲方と彼を押す上杉氏一門による政治的失脚は避けられなくなる。
  3. ^ 実際に既に義満と通じていた憲方は、氏満の命令で京都に向けて出兵したにもかかわらず、途中で義満から関東管領就任の御内書を得て鎌倉に帰還している。
  4. ^ 小国 2001, pp. 160–164.

参考文献[編集]

  • 小国浩寿「鎌倉府北関東支配の形成」『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館、2001年。ISBN 978-4-642-02807-3