上田万平 (内務官僚)
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上田 万平︵うえだ まんぺい、1880年︵明治13年︶10月4日[1] - 1935年︵昭和10年︶7月8日[2]︶は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。
経歴[編集]
熊本県天草郡高浜村に上田稲穂の長男として生まれ、上田松彦の養子となる。江戸時代中期から後期に同村の名主を務め、国学者や陶芸家として活動した上田宜珍は先祖にあたる[1]。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 内務省に入省し北海道庁属となる[1][3]。 以後、北海道庁事務官、香川県事務官・警察部長、農商務参事官、同書記官、静岡県内務部長、京都府内務部長、大阪府内務部長などを歴任[1]。 1921年5月、岐阜県知事に就任。三大川上流改修、県庁舎新築、陶磁器試験場設置、自作農奨励資金制度の創設、郡制廃止への対応などに尽力[1]。1924年6月、宮城県知事に転任。東北振興第一期総合計画を推進。1926年12月、知事を辞職し退官した[3][4]。 退官後は実業界に転じ、1927年︵昭和2年︶9月、郷里熊本の電力会社熊本電気株式会社の第4代社長に就任する[5]。同社では積極経営を展開し、県外進出を推進、鹿児島県の鹿児島電気や熊本南部の球磨川電気、大分県の竹田水電などを傘下に収めた[5]。1929年︵昭和4年︶4月にはこのうち球磨川電気の社長にも就任している[5]。また同じく熊本電気系列の熊本保全や九州電力︵旧・大淀川水力電気。現在の九州電力管内にかつて存在した事業者の一つ︶でも社長を務めた[6]。しかし在職中の1935年︵昭和10年︶7月8日、出社中に凶漢に襲われ急死した[5]。満57歳没。栄典[編集]
親族[編集]
- 妻 上田愛子(押川則吉の娘)