小倉久
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小倉 久︵おぐら ひさし、1852年2月4日︵嘉永5年1月15日︶- 1906年︵明治39年︶11月4日︶[1]は、日本の幕末から明治期の武士︵沼田藩士︶、官僚、関西法律学校初代校長。
経歴[編集]
江戸見坂の沼田藩邸で生まれた[1]。明治3年︵1870年︶、大学南校貢進生となり[1]、明治5年︵1872年︶に司法省明法寮に転入[1]。1876年︵明治9年︶、岸本辰雄・宮城浩蔵とともにフランスへ留学し、法学者エミール・アコラスに師事した[2]。1878年︵明治11年︶に帰国した後[1]、司法省御用掛兼太政官御用掛として民法典編纂に携わり、また司法省法学校速成科の講師となる[3]。1882年︵明治15年︶に元老院権少書記官[1]、1884年︵明治17年︶に駅逓官となる[3]。 1886年︵明治19年︶、大阪控訴院検事に就任[3]。在任中に関西法律学校︵関西大学の前身︶創立にかかわり、同校初代校長となる[4]。 1888年︵明治21年︶に退官した後、大阪で弁護士事務所を開業[1]。1898年︵明治31年︶7月に内務省警保局長兼監獄局長に就任[1]。 1899年︵明治32年︶、和歌山県知事に就任[5]。以後、徳島県知事[5]、富山県知事[6]、大分県知事を歴任[5]。1906年︵明治39年︶7月、岐阜県知事に就任するも同年11月に現職で死去した[5]。墓は京都市北区の高桐院にある[7]。栄典[編集]
- 位階
- 勲章等
著作[編集]
- 小倉久編『仏国訴訟法提要』聚文社、1881年。
- 小倉久述『仏国人事法講義』岡島宝玉堂、1889年。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 『日本人名大事典』第1巻、平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(昭和12年刊)の改題複製)。
- 関西大学百年史編纂委員会 『関西大学百年史』 人物編、1986年
外部リンク[編集]