樺山資雄 (官僚)
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樺山 資雄︵かばやま すけお、1839年5月27日︵天保10年4月15日︶ - 1899年︵明治32年︶11月16日︶は、幕末の薩摩藩士、明治期の官僚。官選県知事。旧姓・春山。
経歴[編集]
薩摩藩士・春山休兵衛の四男として鹿児島城下で生まれる。幼名は八十次。嘉永3年︵1850年︶元服し春山直在︵なおあきら︶と名乗る。文久2年︵1862年︶、樺山弥左衛門資始の娘・直子と結婚して、直子の祖父・樺山十郎太資容の養子となり、樺山平左衛門資雄と改名した。ちなみに妻・直子の母である阿幾は大久保利通の母・福の実妹。 明治5年1月15日︵1872年2月23日︶、新政府に出仕し都城県大属に就任。同年8月27日︵9月29日︶、陸軍省に転じ十等出仕となり、さらに陸軍会計軍吏補に就任。 1876年1月、地租改正事務局九等出仕となる。1878年7月、茨城県一等属に任じられ、租税課長兼土木課長を務めた。1881年5月、内務一等属となり、以後、内務省御用掛、秋田県少書記官、栃木県少書記官、同県大書記官などを歴任。 1885年1月、栃木県令に就任。以後、栃木県知事、佐賀県知事を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行い死傷者を出し、同年8月に非職となる。1895年3月、岐阜県知事として復帰し、さらに宮城県知事を務める。1898年6月、宮崎県知事に任じられたが、1899年8月、病のため休職。栃木県上都賀郡鶴田の別荘で療養したが、同年11月16日に死去した。栄典・受章・受賞[編集]
- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲六等単光旭日章[4]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
- 1890年(明治23年)12月26日 - 勲五等瑞宝章[6]
- 1892年(明治25年)6月29日 - 勲四等瑞宝章[7]
- 1898年(明治31年)12月28日 - 勲三等瑞宝章[8]
- 1899年(明治32年)10月26日 - 旭日中綬章[9]
親族[編集]
脚注[編集]
(一)^ ﹃官報﹄第2207号﹁叙任及辞令﹂1890年11月6日。
(二)^ ﹃官報﹄第4448号﹁叙任及辞令﹂1898年5月2日。
(三)^ ﹃官報﹄第4898号﹁叙任及辞令﹂1899年10月27日。
(四)^ ﹃官報﹄第1476号﹁叙任及辞令﹂1888年6月2日。
(五)^ ﹃官報﹄第1932号﹁叙任及辞令﹂1889年12月5日。
(六)^ ﹃官報﹄第2254号﹁叙任及辞令﹂1891年1月7日。
(七)^ ﹃官報﹄第2703号﹁叙任及辞令﹂1892年7月2日。
(八)^ ﹃官報﹄第4651号﹁叙任及辞令﹂1899年1月4日。
(九)^ ﹃官報﹄第4900号﹁叙任及辞令﹂1899年10月30日。