大沼康
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大沼 康 おおぬま やすし | |
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生年月日 | 1908年4月8日 |
出生地 | 宮城県栗原市(旧:築館町) |
没年月日 | 1959年1月12日(50歳没) |
出身校 | 京都帝国大学農学部卒業 |
前職 | 宮城県経済農業協同組合連合会会長 |
所属政党 | 日本社会党 |
称号 |
講道館柔道三段 全日本剣道連盟剣道五段 |
配偶者 | 妻・大沼こと子 |
公選第4代 宮城県知事 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1956年10月5日 - 1959年1月12日 |
大沼 康︵おおぬま やすし[1]、1908年︿明治41年﹀4月8日 - 1959年︿昭和34年﹀1月12日︶は、日本の政治家。
宮城県知事を1期務めたが、在任中に死亡した。
経歴[編集]
宮城県築館町︵現‥栗原市︶出身。1934年、京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業後[1]、全国米穀販売購買組合連合会に入る。宮城県経済農業協同組合連合会会長などを務めた後、1949年︵昭和24年︶の第24回衆議院議員総選挙では宮城1区から無所属で立候補したが落選した[2]。1956年︵昭和30年︶の宮城県知事選挙に当選し、同県初の社会党知事となった。 知事在任中には、元岩手県出納長であり、後に社会党衆議院議員となる西宮弘を招聘、宮城県副知事を務めさせた。大沼は知事任期中の1959年︵昭和34年︶1月12日、腎臓病のために急逝した。 大沼の死後、後継知事選には西宮が立候補したが、自由民主党の候補・三浦義男に敗れて落選した。西宮は1963年︵昭和38年︶にも宮城県知事選挙に立候補し、再度落選している。人物[編集]
剣道5段、柔道3段の武道家であり、身長5尺7寸6分︵約175cm︶、22貫︵82.5kg︶という体格︵1956年当時︶であった。 同じく社会党員であった妻・こと子との間に、1男5女があった。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
公職 | ||
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先代 宮城音五郎 |
宮城県知事 公選第4代:1956年 -1959年 |
次代 三浦義男 |